因果関係というテーマ

本稿はこちらの記事から続いている。

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“無害” なミステリー小説

『多崎つくる』の主人公に与えられる問いは「友人に絶縁された理由は何か」というものだ。これは因果関係を把握するという問題に等しく、この種の問題意識が本作のあちこちに登場しているので見ていくことにしよう。

まず確認しておきたいのは、この問いに対して本作は通常の意味での論理的な解答を与えてはいないということだ。そのことを宣言しているのが次の一節である。

その大半は無害なミステリー小説だった

これは灰田のエピソードに登場する緑川という人物が読んでいる本に対する言及である。さらにもう少し進むと次のような文章が出てくる。

彼が哲学科の学生だと知ると、いくつか専門的な質問をした。ヘーゲルの世界観について。プラトンの著作について。話していると、彼がそのような本を系統的に読み込んでいることがわかった。害のないミステリー小説を読んでいるばかりではないらしい。

この箇所ではミステリー小説の価値が否定されている。つまる所これは「『多崎つくる』という小説の世界においてミステリー小説の持つ“論理”は力を持ちませんよ」という宣言に等しい。そこから後の緑川と灰田の父親の問答において出て来る“論理”とは、通常の意味での論理とは一線を画するものだ。そしてその論理こそが『多崎つくる』の主要なテーマ、すなわち因果関係を意味しているのである。だからここでは謎めいたほのめかしに限られている。「その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります」と青年だった頃の灰田の父親が言っているのは、これ以降に作中で語られるエピソード、つまり「具体例」を通して、徐々に謎が明らかになっていきますよ、という宣言なのである。

因果関係を読み取る

さて小説の中盤で、緑川がピアノの上に置いた箱の謎が、後年になって判明するという出来事が語られる。切断された六本目の指ではないか、というのがつくるの推測である。この答えの入手方法には2つの特徴が認められる。

  • 本来人が隠したいと思っていること、暴かれるのを嫌がるところ、封じたい歴史的な経緯に答えがある。
  • 本来むすびつかないはずの無関係な2つの物事が結びついている。

これらの特徴は作品全体を読み解くキーとなっている。このエピソードは作品全体を縮小した寓話になっていると言いかえてもいいかもしれない。これらの点を念頭に入れて読み進めていくと、後に登場する「因果関係」の記述をキャッチできるようになる。

たとえばエリとの再会の場面における次の文章がそうだ。

 彼女がまずやったことは、小さな娘をそばに引き寄せることだった。まるで何かの脅威から子供を守ろうとするかのように。

実際にはつくるの方には敵意はない。しかしクロがこのような行動を取ることによって、第三者から見ればあたかもつくるが復讐にやって来たかのように感じられることだろう。つまり後の時刻に起きたはずの「エリが娘を引き寄せる」行為が、時間を遡及して前の時刻のつくるの意志を決定してしまうという、特殊な因果関係がここには認められる。これを前述の「特徴」になぞらえて言うと、1つめに相当するのはつくるの敵意ということになり、2つめに相当する事態も「無関係な二つの出来事が結び付けられる」ことから、当てはまっていることになるだろう。

現実にはつくるに敵意がないという認識は、夫の方がつくるを受け入れているということから支持されると思う(作家はそのようにして読者の誤読を防いでいる)。つまり上記の箇所で語られているのは、「他者が自分をどう捉えているか」ということはしばしば事実と異なっており、しかしその両者は同じレベルの“真実”として同時並行的に存在している、ということだ。我々はそのどちらの真実も尊重しなければならない。子供を守る母親の姿から、我々はそのことを学ぶことができる。

さらに重要なのは次の箇所だ。

彼は車の中に置いたショルダーバッグからそれを取り出し、彼女に渡した。エリに柘植の髪留め、子供たちに日本の絵本。
「ありがとう、つくるくん」とエリは言った。「君は昔から変わらない。いつも優しかった」
「そんなにたいしたものじゃないけど」とつくるは言った。そしてそれを買った夕方に、男と二人で表参道を歩いている沙羅の姿を見かけたことを思い出した。もしプレゼントを買おうと思いつかなければ、そんな光景を目にすることもなかったのだ。不思議なものだ。

この「不思議なものだ」は小説にしばしば登場する「とぼけ」のテクニックである。つまり実際に言いたいことはその逆、不思議ではなく論理にしたがった当然の帰結なのだ、ということである。

すなわち「沙羅が男と一緒にいるのを見かけることになったのは、自分がクロにプレゼントを買いに行ったからだ」ということが真実言いたいことの内容だ、ということになる。

やはりここでも因果関係というものをつくるが学習しているのだ、と分かる。クロに対する潜在的な好意が(たとえ若い頃にしか持たなかった性欲であったとしても)、沙羅への接近を阻害する事態を引き起こした、と了解されるのである。また、ここで問題になっているのはつくるがどのようにして自分の心を整理していくかということであって、現実の世界のレベルでの因果関係ではない。

ここまでの議論を整理すると、次のように書くことができる。

  • 因果関係を把握するということは、自分の心に整理をつける方法でもある。
  • 原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる。
  • 現実世界の法則を無視して、無関係に思える二つの出来事が因果関係として結びつきうる。

上記の了解を延長させていくと、シロの破滅を引き起こした原因の一つは、つくるの抑圧された性欲にあるということが、おのずと了解されるのではないだろうか。この事はすぐ上の項目の中で言えば、二項目に相当する。もう少し正確に言えば、本当は自分の内に存在するものでありながら抑圧しているさまざまな望みや願いといったものを、分かりやすく代表するものとして、性欲が指摘されているのだろう。

無論こうした因果関係の捉え方は、つくるという個人が彼自身の内面の世界を整理し論理づけ、秩序立てていくためのプロセスとして為されているのであって、現実の論理を説明するものではない。そういう把握の仕方を真面目にすると、呪術的なレベルに世界観が堕ちてしまう。しかし時にはそのような心の世界が、現実の世界にちからを及ぼすこともある、というのが作家の考えなのではないかと私は思っている。すなわち、二つの世界は異なるものだが、お互いに影響を及ぼしうるのである。それをリアルと捉えて小説世界として立ち上げたのが、『1Q84』ではないだろうか。

リトル・ピープルの力学

『1Q84』のBook2では、リトル・ピープルが天吾や青豆に力を発揮しようとする。しかしそれは防がれる。そうして小説はハッピーエンドに向かって進んでいくので、それはそれでもちろん目出度いのだが、防がれてしまうと、結局リトル・ピープルは何をしようとしていたのか読者にとってはよく分からないままとなってしまう、という問題がある。『多崎つくる』で描かれているのは、その影の方の情景だと思われる。

文庫版のBook2の前篇のP286-287で、ふかえりは天吾に帰宅をうながす。なお同じ頃に青豆がリーダーを殺害せんとホテルの一室で面会している。

「いそいだほうがいい」
「どうして?」と天吾は尋ねた。
「リトル・ピープルがさわいでいる」

その後雨が降り雷が鳴る。その天候には無論何らかの意味がある。次の文章は青豆がリーダーの部屋から出て来て、坊主頭と話す所で、一文目は青豆の台詞。

「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」
「そうです。我々の耳には届かない声を、あの方は聴くことができます。特別な方です」、坊主頭はもう一度青豆の目を見た。そして言った。「今日はご苦労様でした。ちょうど雨もあがったようです」
「ひどい雷だった」と青豆は言った。
「とても」と坊主頭は言った。しかし彼は雷や雨にはとくに興味を抱いていないように見えた。

最初の青豆の台詞は相手への非難であるということは、以前解説した。 そして雷や雨に興味を抱かないというのも、やはり同様に倫理的な堕落を意味しているのである。つまり彼らはリトル・ピープルの接近、あるいはリトル・ピープルが接近するのに適した状況というものに気付くことができない。

青豆はその後雨のためにタクシーに乗るのが遅れたりする。彼女はそういった事態をリトル・ピープルの力によるものだと捉える。あるいは友人のあゆみが死んだのもリトル・ピープルのためだと考える。しかし結局のところリトル・ピープルの力は天吾にも青豆にも降りかからない。彼らは防ぐことに成功したのだ。

率直に言って、ここら辺のシーケンスは『1Q84』を読んでいてもよく分からない。詰まる所何も起きていないように見えるので、読者としては「あれは一体どういう意味だったのか」と首を傾げることになってしまうのだ。しかし我々はすでに『多崎つくる』に登場する「因果関係」という考え方を仔細に見てきた。その物の見方をここに適用すると、謎が解けるのである。

青豆は雨に自分の逃走が邪魔されることや、あるいは友人のあゆみが死んだのをリトル・ピープルのためだと捉えている。

まさに、ここに特殊な「因果関係」が顔を出しているのが認められる。当然だが雨が降るのはそのような天候のために起こっているのであり、あゆみが死んだのはセックスの相手が暴力的な性癖を持っていたからである。普通に考えれば青豆の考えは間違いだ。しかし青豆はそのような事象に対して、敢えて「リトル・ピープルが引き起こしたのだ」と捉える。彼女は能動的な操作をおこなっているのだ。それにより原因は“リトル・ピープル”となる。

ではリトル・ピープルとは何か? 前項の結論の三つの事項のうち、私は二つ目に原因を書いた。「原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる」。これに少し修正を加えて「自分の」ではなく「他者の」にすると、実はそれがリトル・ピープルというものの答えになる。人は誰もが心の中に大切な願いや意欲を持っている。あるいは、やがて発展してそのようなものになる種子を内に秘めている。しかしそれを持ち続けること、また発芽させることは大変に困難な作業であるから、多くの人はやがて諦めて、水をやることや温めることをやめてしまう。場合によっては、他者の暴力によって強引に叩き潰されることもある。『アンダーグラウンド』に書かれていることはそれだろう。

けれども話はそこで終わらない。「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」。やがてそのような中絶された願いは本人から遊離し、リトル・ピープルという形になって空気中を彷徨うようになる。それは人々に様々な影響を及ぼす。取り憑いた相手の意志を無視した事態を、現実のレベルで引き起こす。

ではふかえりの言っている「リトル・ピープルの持たないもの」とは何なのか。それさえあればリトル・ピープルから害を受けずに済むものとは?

それは自分の「中心」にある意欲や異性への愛に、再び熱を与えてやることだ。それこそがまさにリトル・ピープルの持たないものだからだ。それさえあれば彼らはそもそも生まれて来なかった。天吾がふかえりとの性交を通して青豆との記憶を鮮やかな形で取り戻すとき、「中心」という言葉が使われている。また青豆の章においても、「私という存在の中心にあるのは愛だ。」と語られている。

死んだ牛河や、あるいは子供を妊娠するという可能性を奪われてしまったつばさの口からリトル・ピープルが発生しているということを考えると、このような解釈に妥当性があると確認できる。

マニュアル・ブック

以上の議論を終えて、我々はふたたび『多崎つくる』の前半に出てくる、「論理」をめぐる対話の箇所に戻ってこよう。次は灰田の父親と緑川の対話である。その中にマニュアルブックという言葉が出て来る。なお括弧内は引用者による追記である。

「たしかにその時点では(論理は)力を発揮できないかもしれません。論理というのは都合の良いマニュアルブックじゃありませんから。しかしあとになればおそらく、そこに論理性を適用することは可能でしょう」
「あとになってからでは遅すぎることもある」
「遅い遅くないは、論理性とはまた別の問題です」

『1Q84』にもマニュアル・ブックという言葉が出てくる。青豆が『空気さなぎ』をマニュアル・ブックとみなし、そこから災害を未然に防ぐ、あるいは避ける方法を学ぶのである。しかし上記の引用部では、そのような考え方は否定されている。つまり両作においては同種の因果関係のルールが成り立つのだが、『多崎つくる』の側では人は因果に対して現実な力を及ぼすことができず、災いを未然に防ぐことはできない。ただし因果関係という物語をそこに読み取り、把握することだけは可能なのである。

リトル・ピープルに着目した両作品の比較

前々項の結論を下敷きにすると、『多崎つくる』という作品においては主人公のつくるがリトル・ピープルを生み出し、それがシロが破滅することの一因になった、ということが言えそうだ。『1Q84』の方はリトル・ピープルを送りつけられる側の人間が主人公であり、『多崎つくる』においてはリトル・ピープルを送りつける側の人間が主人公なのである。前者はリトル・ピープルに抵抗することに成功する。後者はむしろリトル・ピープルを送りつけたことによって、他人だけでなく自分自身も深く傷つくという、恐ろしい事態にはまりこんでしまう。

 つくるは言った。「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく過酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」
 エリは何も言わず、つくるの顔をじっと見ていた。
「そして僕はユズを殺したかもしれない」とつくるは正直に言った。「その夜、彼女の部屋のドアをノックしたのは僕かもしれない」
「ある意味において」とエリは言った。
 つくるは肯いた。

まとめ

本稿では『多崎つくる』と『1Q84』に登場する因果関係という重要なテーマの究明に取り組んだ。その結果リトル・ピープルは因果関係というテーマと深い関係があるということが判明し、我々はその正体について理解を進めることができた。また因果関係を軸にして両作を比較すると、非常にはっきりとした対照性が認められるということが分かった。