『イエスタデイ』を読む

 翻訳、関西弁、そして演技

村上春樹の『イエスタデイ』は面白い短編小説だ。『女のいない男たち』という本の中で一番意味不明なのがこの作品なのだが、なぜかそこに心が惹かれる。

この短編は様々なイメージを喚起させられる作品だ。ここではそれを思いつくままに指摘していこう。

木樽はイエスタデイを「翻訳」している。これは興味深い点である。村上春樹には翻訳という行為が創作に深く関わっているという認識があるからだ。まず村上春樹本人が翻訳家であるし、『1Q84』では天吾がふかえりの小説を現代的な文体に翻訳している点から言っても、そうだろう。

また、「ズレ」というのも見逃せない。木樽はイエスタデイを翻訳しているのだが、意味内容がずれた翻訳をしている。本来の歌詞が持っているシリアス性を排除した、脳天気な歌詞にしてしまっている。さらに木樽の容姿が描写されている箇所があるのだが、どうやら関西弁は木樽の外見に似つかわしくないらしい。そこには微妙なズレがあるのだ。こういう奇妙な違和感を、村上春樹は昔から執拗に書き続けてきた。『パン屋再襲撃』の序盤で語られるパンと音楽の交換の件も、そういったものの一種だ(リンク)。

さらに、木樽が関西弁を後天的に学んだという点もとても面白い。

「後天的に学んだんや。一念発起して」
「後天的に学んだ?」
「つまり一生懸命勉強したんや。動詞やら、名詞やら、アクセントやらを覚えてな。英語とかフランス語とかを習うのと原理的にはおんなじことや。関西まで何度か実習にも行ったしな」

(村上春樹著『女のいない男たち』)

ここには翻訳と英語の関連という点でなにかを匂わせるものがある。当然だが村上春樹も英語を「後天的」に学んだはずである。そうしないと「コミュニティ」に入っていけないというのも示唆的だ。ただ、この台詞を読んだ時に私の頭に最初に思い浮かんだのは、三島由紀夫のことだった。以前の記事(リンク)で述べたが、村上春樹は三島を意識して『1Q84』を書いている。そして三島は『豊饒の海』を書く前に『絹と明察』で関西弁を大きく取り上げている。『豊饒の海』でも最後に関西弁が出てきて、かつての本多(というよりは読者)が覚えていた聡子の面影に亀裂を入れていることを考慮に入れると、村上が三島を意識して自作の中で関西弁に何らかの地位を付与しようとしているとしても、不思議ではない。

次は主人公が木樽を評した台詞。

「おそらくこれまでの自分とは違う、別の人格になりたかったんじゃないかな」

これはつまり、演技をしているということだ。どうやら「演技」というのが『女のいない男たち』のテーマの一つのようである。最初に置かれた短編『ドライブ・マイ・カー』では、主人公が役者として描かれている。

 自分自身のパロディ

本作は今までずっと村上春樹が書き続けてきた「女に去られてしまった男」というテーマを、わざわざ題名として掲げている。実は本作で重要なのはその中心的なテーマの方ではなく、技法の側にある。彼は『1Q84』と『多崎つくる』で三人称の文体を極めたので、おそらく今度は多彩な文体で一つの作品を作るという試みに挑んでいるのだろう。そしてその練習としてこの短編集を書いたのではないかと私は推測している。

村上は『1Q84』で自分の小説の哲学やメッセージといったものをいったん完成させた(リンク1リンク2)。そして彼は出来上がったものにいつまでも関わっているような作家ではないので、今度は自分で作ったものを踏み台にして、より高いジャンプをしようと目論んでいるのではないだろうか。

『女のいない男たち』はともかく全体的にコミカルである。戯画化されている感じがある。失恋のショックで餓死する男が出て来るし、妙な関西弁の男がアメリカのデンバーに渡って鮨職人になるし、『木野』にはまるで神様だか精霊のような男が出てきて主人公のことを助けてくれる。

もしかすると村上春樹は自分の作品のパロディを描いているのかもしれない。『女のいない男たち』以前が『ドン・キホーテ』前篇だとすると、それ以降は『ドン・キホーテ』後篇にあたるのではないだろうか。そのように考えると腑に落ちるのは、『ドン・キホーテ』の後篇ではドン・キホーテ以外の登場人物の誰も彼もが積極的に演技をこなして、主人公をからかってくるからだ。それも後篇に出てくるそのような登場人物は(小説の中の架空の人物であるにも関わらず)すでに『ドン・キホーテ』前篇を読んでいるものとして行動し、また発言するのである。そして演技というのはいきおい過剰になり、単純化されて誇張されるものだ。よりコミカルに、より風刺的になっていく。それは『女のいない男たち』の雰囲気と通じている。

1999年に発表された『かえるくん、東京を救う』と、2014年に発表された『独立器官』を比較するのが最もわかりやすい。『かえるくん』については以前も解説したが(リンク)、一言で言うと、これは蓄積してしまった自分自身の怒りによって人が自滅するという話である。『独立器官』もそういう筋書きになっている。

「谷村さん、私が今いちばん恐れているのは、そして私をいちばん混乱させるのは、自分の中にある怒りのようなものなんです」

しかし『かえるくん』がシリアスな小説であるのに対し、『独立器官』はほとんどギャグ漫画すれすれの筋書きである。実際他人の人生を主人公が語るという形で書かれているので、あくまで他人事であり、気楽といえば気楽に読める短編になっている。その人物は渡会という名の医師なのだが、渡会は五十代になってから人生で初めて真摯な恋をする。そして自分の中に怒りに似た感情が生まれてきたことに気がつく。理性では手綱をとることができない、そのような凶暴な心の動きを彼はそれまで経験したことがなかった。しかしそんなにまで真剣に人を愛したにも関わらず、金をむしられて他の男と駆け落ちされるというひどい失恋の仕方をしてしまった結果、渡会はみずからの意志で餓死する。彼は怒りを上手く、何らかの形で表現することができなかった。それは誰かを決定的な破滅に追いやる可能性のある行為だからだ。そのような危険な場所に向かうぐらいならその怒りを内側に向けて自滅する方を選ぶ、それが渡会医師の選択だったのだろう。彼は遺品としてスカッシュのラケットを主人公に遺す。そのラケットは何かのメッセージを伝えているようにも思える。これはいかにもホラーの短編小説らしい終わり方であり、そういう所が『女はいない男たち』の戯画的性質なのである。

最後に、『ドライブ・マイ・カー』から引用する。

そしてまた舞台に立って演技をする。照明を浴び、決められた台詞を口にする。拍手を受け、幕が下りる。いったん自己を離れ、また自己に戻る。しかし戻ったところは正確には前と同じ場所ではない。

「前と同じ場所ではない」。それはどういう場所なのだろうか? 我々読者としてはただ気長に次の長編作品を待つしかない。