影としての作品

本稿では『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が『1Q84』のペアとして存在している作品であることをまず述べる。その後べつの記事で、この事実を手がかりにして両作に共通する因果関係というテーマを読み解いていく。

 自動車 vs 電車

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は『1Q84』の影としての作品である。小説中に数多くのヒントが盛り込まれているため、それを一つ一つ検分していこう。

『1Q84』は青豆がタクシーに乗っている所から物語が始まり、最後に天吾と二人でタクシーに乗り込む。『1Q84』にとって車とは、個を守る特別な容器や箱としての役割を担っているように思われる。Book3の終盤でタクシーの運転手が物語を総括するような挿話を語る点から考えても、車に乗るということに力点が置かれていると分かる。またBook2の最後の青豆の章では、真新しいメルセデス・ベンツに乗った中年の女性が、自殺を図る青豆を心配そうな様子で眺めており、我々はここでも車が肯定的なイメージを持っていることを確認できるだろう。

一方『多崎つくる』はかなり力を込めて自動車と電車(というよりも駅)を対比させている。主人公が青春を過ごした地はトヨタの地元である名古屋なのだが、大人になった今ではアオはレクサスを売り、アカは企業の社員を教育するビジネスを営み日産の関連企業とも付き合っている。つまり彼らが少年であった時に持っていた純粋性はいまでは失われているのだが、そのような「現在」は車という存在と密接に結びついているのである。ただしつくるの駅に対する感動や関心は幼い子供のころから持続しているものだから、そこには無垢な精神性が認められる。さらに、小説の終盤、それもエリとの再会を果たして日本に帰還してから後の場所に、かなり力を割いて駅そのものについての記述が置かれていることは、注目に値する。この作品にとって、駅にはそれだけの価値があるということだ。(ハードカバー版ではP348からP362)

 海を軸にした直喩

もうひとつは海の比喩である。『1Q84』では終始海に関連した比喩が登場する。

それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。(村上春樹著『1Q84』 文庫版Book1前編 P28)

 

大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。(P35)

 

無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。(P37)

  

タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。(P71)

 

青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。(P82)

 

水の中にいる時のように音がくぐもった。(P297)

潮の満ち引きは月と関連があるので、海の比喩は月というテーマと結びついてるのだという事がおのずと推察される。『1Q84』という大きな物語を駆動させている力のみなもとは、月にある。そのような力の具体的な文章レベルでの顕現が、海を軸にした直喩なのだろう。我々はこの比喩を読むことで、遠く離れた場所にいる二人が同じ月の影響を受けているということを理解する。
 なお、どちらかというと青豆には船に関する比喩が多く、天吾の章では海に呑み込まれる比喩が多いように思われる。ふかえりが暗唱する平家物語のシーンなどがその典型だろう。

そして『多崎つくる』においても、この比喩は続投される。

みんなと別れて一人になると、暗い不吉な岩が、引き潮で海面に姿を現すように、そんな不安がよく頭をもたげた。
  
(村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

 

自分が四人の親友に真っ向から拒否されたことの痛みは、彼の中に常に変わらずある。ただ今ではそれは潮のように満ち干するようになったということだ。それはあるときには足元まで押し寄せ、あるときにはずっと遠くに去って行く。よく見えないくらい遠くに。

 

 つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

 

部屋に降りた沈黙は息苦しく、深い悲しみに満ちていた。そこにある無言の思いは、地表をえぐり、深い湖を作り出していく古代の氷河のように重く、孤独だった。

『1Q84』では、天吾は自分の「中心」にあるものを発見することに成功する。それは青豆の記憶だ。Book2のふかえりとの性交のシーンでそのことが描かれる。彼が「猫の町」、つまり「海」や「リトル・ピープル」に接近しても無事でいられるのは、自分自身の核を再発見し、その中心部を温めて、確かな強度のものとしたからである。それに対して『多崎つくる』は「船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出された」訳であるから、船という自分を守る容器から、自分を守ることができない形で海に呑み込まれてしまったということになる。このような対照性がここには認められる。さらにこの読解を延長させていくと、電車や駅は「海」、すなわち集合的なものに属するものであると分かってくる。つくるにとって大事なテーマは個よりも集合的なものらしい。

 マニュアル・ブック

『1Q84』にも『多崎つくる』にも「マニュアル・ブック」という単語が出て来る。次の記事では『1Q84』の場合についての意味を解説している。

riktoh.hatenablog.com

『多崎つくる』については別の記事で解説していくが、先に一言だけ述べておくと、因果関係という共通するテーマについて両作は真逆の方向性に顔を向けている。

 音楽

『1Q84』ではヤナーチェックのシンフォニエッタが、『多崎つくる』ではリストのル・マル・デュ・ペイが大きく取り上げられており、どちらも作中で大切な役割を果たす。前者が交響曲であるのに対し、後者はピアノソナタである。

 空気さなぎ

『1Q84』では天吾が空気さなぎを作り、青豆を一時的にではあるが具現化させる。『多崎つくる』でもこれに相当する場面がある。

『ル・マル・デュ・ペイ』。その静かなメランコリックな曲は、彼の心を包んでいる不定型な哀しみに、少しずつ輪郭を賦与していくことになる。まるで空中に潜む透明な生き物の表面に、無数の細かい花粉が付着し、その全体の形状が眼前に静かに浮かび上がっていくみたいに。今回のそれはやがて沙羅のかたちをとっていた。ミントグリーンの半袖ワンピースを着た沙羅。

 女性の妊娠という出来事

最後に、両作の関係性をしめす決定的な点を挙げる。それは女性の妊娠の語られ方だ。両作品ともに、主人公の男性と離れた所にいる女性が子供を身ごもる、という点では一致している。ただし『1Q84』の青豆の場合は、天吾の子を授かったことが幸福に繋がるのに対して、『多崎つくる』 のシロの場合はつくるにレイプされて(正確にはされたと思い込んで)妊娠したことが、逆に不幸に繋がってしまっている。

以上から、『多崎つくる』は『1Q84』とテーマが一部重なっており、そのテーマのより暗い側面が語られているのだということが理解できる。

このことは、逆に言えば『多崎つくる』の読解が進めば、それだけ『1Q84』の読解も進展する、ということだ。次の記事ではそのような読解を、一つだけ試みた。

riktoh.hatenablog.com