本稿では前回(リンク)に引き続き『1Q84』について議論をする。そのために次のような形で先行する文学作品が『1Q84』に影響をおよぼしていることを説明する。
- 『失われた時を求めて』 → 『豊饒の海』 → 『1Q84』
『1Q84』と『失われた時を求めて』
『1Q84』には『失われた時を求めて』を換骨奪胎した場面が登場するので、それを見ていこう。
リーダーを暗殺した青豆は新築マンションの三階の一部屋に身を隠す。教団の追手から逃れるために、彼女はしばらくの間そこに引きこもって一人で過ごさねばならない。退屈を紛らわすために味方であるタマルがそこへ『失われた時を求めて』を届けてくれる。
タマルの届けてくれたプルーストを彼女は読み始めた。しかし一日に二十ページ以上は読まないように気をつけた。 時間をかけて文字どおり一語一語をたどり、丁寧に二十ページを読む。それだけを読み終えると、ほかの本を手に取る。
(村上春樹著『1Q84』)
上記の部分は、『失われた時を求めて』(以降、『時』と表記する)の次の箇所に相当している。
サン=チレールの鐘塔で時を告げる鐘が鳴ると、ひとつ、またひとつと、午後のすでに消費された時が落ちてきて、最後の音が聞こえるとすべてを合算できるのだが、その後の長い静寂は、本を読むのに残された全時間が青空の中にはじまる合図のように思われた。
(中略)
そんなふうに鐘がなるたびに、前の時刻が告げられたのはついさきほどだったと感じられる。 空のなかには最後の音が前の音のすぐそばに記されているから、私としては、ふたつの黄金色のしるしのあいだに見える小さな青いアーチのなかに六十分という時間が含まれているとは信じられない。 ときには鐘の音が、早まって前よりふたつも余分に鳴ることがあり、そうなると私には前の時刻は聞こえなかったわけで、現実におきたことが私にはおこらなかったことになる。 深い眠りと同じく魔術的というほかない読書の興味のせいで、私の耳は錯覚にとらわれ、空色の静寂の表面からいわば黄金色の鐘を消し去っていたのである。(マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』第一巻)
ここに書かれているのは「読書とは時を忘れてのめり込むようにおこなうのが正しい姿勢である」というプルーストの主張だろう。村上春樹はそれを受けて、わざわざ拒否する形で「一日に二十ページ以上は読まない」としているようである。実際『時』は深い集中力を求められる小説であり、読んでいる間は特別な幸福と喜びを感じることができるものの、その反面どこで本を閉じていいか分からずに困ることが多い。ここが切りどころだ、という箇所がなかなかやってこない。一方『1Q84』は意図的に章分けがなされており、どの章もおおむね20~40P程度である。何かと忙しい現代人でも毎日読み進められる小説になっていると言える。
さらに念入りにプルーストに反対するくだりが、Book3の後編の17章に書かれている。長いので引用は避けるが、『時』の作中の時間感覚と『1Q84』の時間感覚は異なるということが主張されている。
すでに次の記事で『豊饒の海』が『時』を参照していることを私は説明した。つまり『1Q84』も『豊饒の海』も『時』を参照しているという点では共通しているのである。そしてこれらの二作品は、実は互いに関係性があるのだ。そのことを次の章で見ていこうと思う。
『1Q84』と『豊饒の海』
『1Q84』は『豊饒の海』を参照している。そのパロディ・シーンをまずは具体的に見ていきたい。
その一つ目は覗き見の場面だ。以前の記事(リンク)で述べた二つの覗き見の箇所を、『1Q84』は次の場面で受けてパロディのリレーを作り上げている。
それはほんの僅かなあいだの出来事だった。その朝ふかえりはまず電信柱の上をひとしきり見つめ、それから素早く首を回して牛川の潜んだ窓に目をやり、隠蔽されたカメラのレンズをまっすぐのぞき込み、ファインダー越しに牛河の目を凝視した。そして歩き去った。時間が凍りつき、再び時間が動き出した。せいぜい三分くらいのものだ。そんな短い時間に、彼女は牛河という人間の魂の隅々までを見渡し、その汚れと卑しさを正確に見抜き、無言の憐れみを与え、そのまま姿を消したのだ。
彼女の目を見ていると、肋骨のあいだに畳針を刺しこまれたような鋭い痛みを感じた。(村上春樹著『1Q84』)
牛河は青豆の場所をつかんで教団にさしだすために天吾のアパートを監視していたのだが、その部屋にいたふかえりに逆に覗き返されてしまう。むしろ覗き込んでいた方が見つめられてしまうという逆転現象が、そこでは起きている。
二つ目は、作中において何が書かれているのか分からない一冊の本を主人公がくりかえし読みつづけるということだ。『豊饒の海』においては、親友だった清顕の夢日記を本多は大事にしており、たびたび読み返している。『1Q84』では、青豆が『空気さなぎ』を何度も読み返し、そこから何事かを学び取ろうと努めている。したがってこの点では両者は似ていると言える。
ただし本多の所有する夢日記は焼かれて失われてしまい、養子である透の破滅をみちびくのに対して、青豆の場合は『空気さなぎ』で学んだことを活かすことで、人生をより豊かなものにすることに成功している。つまり両者のあいだには差異がある。後で詳しく述べるが、「逆方向」ということがヒントになって、彼女は非常階段を以前とは逆の方向、つまり上ることを思いつく。それによって元の世界への帰還を果たすのだ。
最後の箇所は、物語の終盤に青豆と天吾が高速道路の非常階段を上るシーンだ。これは『豊穣の海』において本多が参道を登攀するシーンに対応している。どちらも物語の始まりの場所にふたたび戻ってくるという点、上昇していくという点、そしてドラマのクライマックスに設定されているという点が共通している。ただし『1Q84』の方では最初は下りたが最後は上るという形で、運動の方向が反対になっていることが強調されている。
もう一つ付け加えておくと、本多の行くつく場所が虚しさの極地であるのに対して、青豆たちは幸福をつかんだという違いも見逃せないだろう。さらに、聡子が子供を産むことが出来なかったことは、青豆が天吾の子供を産むのを決心していることと対照的である。
逆方向の力
つまり『1Q84』は『豊饒の海』と反対のことを書いているのだ。では一体何を狙って作者はそのような書き方をしたのだろうか。
ここまでの議論を振り返ってみると、村上春樹は「逆方向」ということに力点を置いているのが分かる。よくよく反省してみれば、タイトルですらその事を語っていると言えないだろうか。1984年は『1984年』が発表された時には未来だったのが、『1Q84』が発表された時にはすでに過去である。
『空気さなぎ』の中で、その主人公は「逆方向」という言葉を持ち出している。
少女はやがて決心して自分の空気さなぎを作り始める。彼女にはそれができる。リトル・ピープルたちは通路をたどって、彼らの場所からやってきたのだと言った。だとすれば自分だって通路を逆方向にたどって、その場所に行くことはできるはずだ。そこに行けばなぜ自分がここにいるのか、マザとドウタが何を意味するのか、秘密が解き明かされるはずだ。
「秘密が解き明かされる」。つまり「逆方向」こそが『1Q84』を読み解く鍵なのだ。
私見では、「逆方向」という概念は『1Q84』固有の暗喩表現と密接にむすびついている。
おそらく、村上春樹はプルースト流の直喩を自分が打ち破るべきライバルとして想定した。『1Q84』には『時』の明確なパロディ・シーンが登場しているというのが、その論拠だ。そこで彼は念入りに『時』に反対している。
なお、本稿では「喩えるもの」と「喩えられるもの」が文中に明示されているものは、文章の表面的な形式によらず全て「直喩」として扱っている。直喩の通常の意味とは異なるが、他に適切な言葉がないように思われるのでそのようにした。
さて、プルーストにとって「喩えられるもの」は自明である。それは単に目に映っている鐘塔であり、窓枠の中に収まっている海の白い飛沫であり、屈辱のために反り返った姿勢をしている婦人である。現実のものなのだ。彼は文学上の啓示を受けることで、それらを裏声で一オクターブ高くなった歌声や、雪や、断崖に生えた木に変形させることに成功した。彼の文学では、「喩えるもの」を見出すことが至上の目的なのである。
ひるがえって、村上春樹は「喩えるもの」は最初から存在していると考えた。深いところに眠っている願いがひとたび呼吸を始めれば、身の回りのあらゆる事物は暗喩として機能するようになる。すでに我々はそのことを確認した。『1Q84』の中ではたった数行の文章や一つの台詞が、それ自体独立した「喩えるもの」として作用している。彼の考えでは、「喩えられるもの」の方が隠されているのだ。そして我々は隠喩によって、そこに到達することができる。まだ不定のものとして未来に在る「喩えられるもの」へ、適切な滋養と刺激を送りこむことで、育て上げ開花させることができる。『1Q84』における比喩は「美しい」ものとして「鑑賞」すべき対象ではない。それは、道具なのだ。我々の魂に力を注ぎ、人生を切り開いていくためのツールなのである。
プルーストとの対比によって、我々は「逆方向」という言葉の真の意味が理解できるようになる。村上は、
- 「喩えられるもの」 → 「喩えるもの」
という図式を捨てて、
- 「喩えられるもの」 ← 「喩えるもの」
という図式の側に立ったのである。力点と作用点を入れ替えたのだ。目的を変えた、と言ってもいい。プルーストは過去に執心し、自己の内部にのみ存在する観念や記憶に至上の価値を見出した。そしてそれは文学上の形式では、直喩によって表現された。対して村上春樹は、「まだない物」を隠喩によって保護し、成長させようと試みた。それは登場人物にとってはどこまでも現実的なものだ。すなわち恋人であり、やがて生まれてくる子供である。それらに到達するためには記憶を経由せねばならないが、記憶はあくまでも通過点にすぎない。
現代に生きている我々に求められる文学とはそのような小説であるというのが、彼の主張なのである。
「信じる」ちから
ここまで来れば後は下り坂だ。『豊饒の海』はプルースト流の比喩の魔法を攻撃し、後には現実という痩せた事物しか残らないことを示した文学だ。(このことは以前述べた。リンク1、リンク2)
しかし『1Q84』はその考え方に異議を唱える。それは、あまりにも性急に卵の殻を割っているというだけに過ぎない。きちんと温めれば卵は孵る。雛は生まれてくるはずだというのが、この小説の主張なのだ。
ここまでの流れをすべて踏まえれば、『1Q84』の冒頭に掲げられた文の意図が明確になってくる。
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる(Edgar Yipsel Harburg、Billy Rose『It's Only a Paper Moon』)
要は三島が言っているのは、「これは偽物ですよ」ということだ。しかし村上はそれに同意しない。彼によれば、正しい手順をとりさえすれば同じ源から「本物」が生まれてくるはずなのだ。正しい愛と、正しい意志さえあれば、それができる。求められているのは「認識」や「見ること」ではない。身体を動かすことだ。個人の、自律的な意志なのだ。
何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。
海を軸にした直喩
上記の理解を下敷きに改めて『1Q84』を読み直してみると、他にもパロディが見つかる。
それは『1Q84』の随所に登場する、海を軸にした直喩だ。その例は次の記事で挙げた。
このような直喩は、第一義としては月の影響を示唆しているのだが、もう一つの意味としては、『豊饒の海』に反対するという作者の意志が込められている。実際には月には海などないという三島の皮肉が、『豊饒の海』というタイトルには表現されているのだが、そのような海の否定、すなわち直喩の虚しさを説く行為を、村上は敢えて海の直喩によって執拗に反対しているのである。つまり彼は、文学にはまだ何かしらの力があると信じているのだ。
結び
以上で本稿を終える。ここでは『1Q84』がどのように比喩をとらえているかを理解するために、『失われた時を求めて』と『豊饒の海』という二つの文学作品からの影響について述べた。