見るなの禁とエディプス・コンプレックスの共通点

最近、夏目漱石の『三四郎』を序盤だけ読んだ。そこで僕はどうにも驚かされた。まさに冒頭がエディプス・コンプレックスの話型だったからだ。列車内で見知らぬ年上の男性が、主人公の目の前で若い女性と親しげに話をするという形で二人は結合するのだが、しばらくして男性は途中の駅で下車し、主人公は女性と二人きりになる。そこから主人公は女性と親しくなっていくのだ。

そこの部分を読んだのをきっかけに色々と思いを巡らしている内に、僕はあることに気がついた。それは日本の「見るなの禁」と、西洋のエディプス・コンプレックスの話型が似ているという事実だ。ここで言う「見るなの禁」とは、日本神話のイザナギが黄泉の国で変り果てた妻の姿を目撃してしまう話や、トヨタマビメが出産時に鰐の姿を取ったところを夫に覗かれてしまう話などが当たる。

外形的な共通点としては、両方とも男性が主人公である、異性との結合が語られる、話が悲劇的な帰着を見せるところなどが挙げられる。

もちろん差異も大きい。エディプス・コンプレックスでは同性が大きな障害として現われるのに対し、見るなの禁ではそういうことは起きない。見るなの禁においては、むしろ男女の結合はやすやすと起きる。また、結末部分が読者に与える印象も異なる。エディプス・コンプレックスが主人公にもたらすものは破滅に他ならないが、見るなの禁においては、読者は単にマイナスの印象を受けるだけでない。読者は男女の別れという結末に悲しみを感じるが、その悲しみの中にはある種の美しさが込められているのである。

また『オイディプス王』が人間と神の対立の構図だとすると、日本の「見るなの禁」において問題になっているのは人間と自然の対立である。『鶴の恩返し』では女は最終的に鶴になる。イザナミは蛆のたかった姿になり、トヨタマビメは鰐になる。つまり彼女たちは人間ではなく自然の形をとっているのだ。

この二つの話型に共通する中核の特性は、「二者の融合の禁止」である。『オイディプス王』で行われるのは、全能でない人間が全能の神に近づこうと知を得ようとすることだ。するとすべてを知った瞬間に人間側に悲劇がおとずれる。人間は神になれないのである。これに対し「見るなの禁」では男(人間)が女(自然)に合一を迫り、女はこれを拒否する、という形になっている。男は最後に別れという悲しみを経験する。

なお「見るなの禁」はすでに別の記事で語った、「古事記の二の姿」の間で起こるものであるから、「影と鏡像」というテーマと隣接している。

いまのところ僕に言えるのはこれぐらいである。今後この二つの話型についてはより深く研究していきたいと思っている。