『フランケンシュタイン』を読む

光文社古典新訳文庫でシェリーの『フランケンシュタイン』を読んだ。とても面白かった。そこで今回はこの本について書いてみたい。

この物語の基調として、すぐれた風景の描写がある。自然はつねに美しく、称賛の対象である。それは登場人物たちを取り囲み、その魂を癒し、世界と人生を肯定する気持ちを育んでくれる。とても素晴らしいものなのだ。

そのような賛美の背景には神への愛、神からの愛がある。世界を創造した神への素直な信頼と愛が、この小説の根本には存在していると言っていい。登場人物のみんながそれを共有している。ヴィクターやクラーヴァルの気性がそうしたものであることは誰もが納得できるだろうが、じつは怪物にもその気持ちはしっかと存在している。だから人間の誰からも愛されないことを彼は不当と受け取り、恨むのだ。

この物語の白眉は怪物の憎しみの告白である。

「おれが悪いことをするのは、惨めだからだ。」
「いいか、おれを哀れと思わない人間に、なぜおれが哀れみをかけなければならない?」
「愛を呼び覚ますことができないのなら、恐怖をつくりだしてやる。」

この世の愛されない人間すべてを代表して彼は憎しみを告白する。その言辞はシンプルで力強く、しかも論理的である。だから我々はどうしてもそこに惹きつけられる。こうした怪物の主張は最後まで変わらない。むしろ憎しみは緩和されずに増大していき、ヴィクターが苦しんで死んだあとは、怪物は巨大な憎しみを背負うあまりに自死を選択することを宣言する。物語はどこまでも虚しいところに着地するのだ。

それでは、なぜこのような恐ろしい怪物が生まれてくるのだろうか。

それにはヴィクターの生い立ちや性格が関係している。彼の母親と父親は対等な関係性になかった。あくまでも父親が母親を保護するという形で結婚しているし、年齢の差もある。そこには男女の相剋は見当たらない。この夫婦は男女の激しい恋愛や相剋を経て平和な境地にたどりついたのではなく、最初から平和で温厚なのである。そこには不穏なものを引き寄せる穴があるようだ。アンデルセンの『影』の主人公である学者が、善良で温厚であったようなものだ。欲のなさ、葛藤のなさは、かえって恐ろしいものを引き寄せる遠因となってしまうのである。それは真空が激しい力で空気を引き寄せるのに似ている。同じことを『外套』の解説で述べているので、そちらも参照されたい。

ただしこの夫婦から生まれてきたヴィクターは善良な人間であった。それは母親が若くして死んだことが関係している。それは自己犠牲の一種なので、物事をプラスに推し進める力を持っている。だから母親-ヴィクター間では不幸は起きない。

不幸はヴィクター-怪物間で起きる。というのも、ヴィクターはあまりに幸福で善良すぎるからだ。金銭欲もなければ性欲もない。学問に熱心に打ち込んで成果をあげるが、名誉欲もない。そうした「悪徳のなさ」が災いを引きつけてしまうのである。そこには加えて、アダムとイヴが知恵の実を食べたことで楽園から追放されてしまったという神話の力も後押ししている。ヴィクターは知識という果実に引き寄せられて罪を犯してしまう。もしもヴィクターが善良さと悪徳の間で葛藤するような人物であったり、人々から愛されず、友達が欲しいからという理由でのみ人造人間を造るような人物であったなら、『フランケンシュタイン』ほどの悲劇には至らなかったであろう。また別の形の不幸がそこには現れたかもしれないが、極北とも言うべき地点には至らなかったに違いない。

怪物はヴィクターの影である。ヴィクターはおのれの欲望や悪をきびしく抑圧していた。だからそれが怪物へと転嫁されてしまい、恐ろしい存在を産みだしてしまうのだ。怪物はかなり影としての特徴を満たしている。正体不明さは名前がないということで担保されている。また、彼は前半ふらふらとヴィクターのもとに現れては消えていく。後半になるとヴィクターが怪物を追いかける立場になるが、そこでも怪物は捕まえたと思ったところで、ふらりと消えていく。なかなか掴めない。こうした点はル・グウィンの『ゲド戦記 影との戦い』に非常に似ていると言えよう。

この小説の特徴は、ヴィクターと怪物の両方の視点がしっかりと描かれることにある。どちらか一方だけから物事を見るということがない。怪物のみじめな境遇にはかなりの文面が割かれるので、彼の主張には一定の理があると読者は思う。

物語の終盤では両者の激しい戦いが描かれるので、それを詳しく見て行こう。

怪物の性格は、基本的に物語を通じて変わらない。彼は最後まで憎しみを抱き続け、暴力をふるう。しかしヴィクターは後半に入るとかなりの変貌を遂げる。まず、彼は悪と罪に非常に接近する。弟や召使いが死んだのは文字通りの意味で自分の責任であると捉えて、ほとんど殺人の罪を背負う。次に彼はくりかえし病に呻吟し、牢にもぶち込まれる。すなわち惨めな状況に陥る。きわめつけは怪物に対する憎しみだ。骨の髄まで憎しみに染まったヴィクターは世界中を旅して怪物を追いかけるのだ。つまりひとことで言うと、ヴィクターは自分の作った怪物に似てくるのである。

ここで我々は河合隼雄の次の言葉を思い出す。

 一般の西洋人にとって「黄色い獣」としか思われないハラに対して、ロレンスは対話を試みる。しかし、日本人のハラが主導権を握っていた捕虜収容所における「対話」は、主として身体的なことによって行われた。つまり、そのほとんどはハラのロレンスに対する殴打であり、拷問である。あるいは捕虜の中でロレンスのみが認めたハラの瞳の輝きである。これらの非言語的な行為を、ロレンスはひとつのコミュニケーションとして受けとめ、その中に深い意味を読みとることができた。
(中略)
 終戦を境にして彼らの立場は一変する。死刑囚となったハラと、ロレンスとのあいだのコミュニケーションは、もっぱら言語的になされる。ここで、死を恐れないハラが「なぜ?」と問いかけるのは意義が深い。ハラがまったく日本人的な人生観によって行動するならば、すべては「仕方がない」こととして受け容れるべきではなかったか。死刑の宣告をチャンピオンのように受けとめた彼は、死の間際になって、「なぜ」ということを問題にしているが、それこそは西洋人が発する問いではなかっただろうか。正しいとか正しくないとかは問題でなく、負けたのだから仕方がないと彼は考えなかった。正しいことをした自分がなぜ罪人として死なねばならないのか、と彼は合理的な問いを発する。そして、それに対するロレンスの答えは、まったく日本的なものであった。
 ここに影との対話の特性がみごとに描きだされている。影と真剣に対話するとき、われわれは影の世界へ半歩踏みこんでゆかねばならない。それは自分と関係のない悪の世界ではなく、自分もそれを持っていることを認めばならない世界であり、それはそれなりの輝きをさえ蔵している。
  (河合隼雄『影の現象学』)

このような過程を経てヴィクターは成長する。終盤にいたると、ヴィクターはロバートの船に拾われるのだが、航海の失敗と全滅を恐れて撤退を主張する船員たちに向かって、次のような言葉で説得するのだ。

「男になるのだ。いや、男以上のものになれ。雄々しく闘って勝利を収めた英雄として、敵に後ろを見せなかった者として、意気揚々として帰るのだ。」

もはや、なよなよしていたヴィクターはここには存在しない。彼はまさに「男らしい男」になった。これは間違いなく成長である。彼は悪と欲望を自分の中に収めておきながら、しかも後ろめたいところがなく堂々としている。その輝きは人に訴えるところがあると言っていい。

しかしこの説得は通じない。船員たちはやはり怖気づく。だからロバートの船は撤退せざるを得ないことになる。また、この直後にヴィクターは病に倒れて死亡する。このことは、ヴィクターの成長がまだ不足しているということを意味していると思われる。彼は間違いなく父性を確立させた。でもそれだけでは不十分なのだ。おそらく彼は父性に加えて母性を発展させる必要があった。しかし物語はそこまでの進展を見せずに閉じられる。

怪物が最後に姿を見せて、また自分の主張を言う。物語の締めである。それはこれまでと特に変わりがないので見るべき所はほとんどないが、彼は「地球の極北まで行くつもりだ」と言う。この台詞は本稿の冒頭で述べたことと照応している。北極の世界は、神の愛がおよばない領域なのだ。そこには生命がなく、「永遠に氷で閉ざされた国」である。最後に、このような結末についてよく考えてみたい。

そもそもこの作品には聖書からの引用が多い。

「創造主たるおまえが、被造物であるこのおれを嫌い、拒否するのか。」
「忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。」
「悪魔よ、おまえが初めて光を見た日が呪われるがいい!」

また、怪物は伴侶をつくることをヴィクターに要求するが、これは明らかに創世記のイヴの生成を参照している。

こうした聖書からの引用や、自然、すなわち神の創造した世界の賛美が幾度もくりかえされるにも関わらず、物語は結末で神の愛が届かない場所へと至っている。これはいったい何を意味しているのだろうか。

今の僕にははっきりとした答えはないが、きっとこれは神の否定ということだろうと思っている。フランケンシュタインの怪物は神の愛によって救われない。では一体ここでは何が求められているのだろうか。それは分からない。この小説は典型的な、課題を提起し残していくタイプの作品だと僕は思う。我々は今後『フランケンシュタイン』の問題をよく考えていかなければならないようだ。