影と鏡像

影と鏡像という文学のテーマがある。これはシャミッソーの『影をなくした男』という小説から開始されたらしい。明らかな後継作品としてホフマンの『大晦日の夜の冒険』がある。まずはこれら二作品について僕の持論を述べ、それから関連する作品についても言及していく。

『影をなくした男』と『大晦日の夜の冒険』に共通する最大の特徴は、影も鏡像も正体が不明だということである。それは一体何なのか作品が結末にいたっても明らかにされない。しかも正体が不明であるにも関わらず、影も鏡像もやけに大切なものらしい。それは失われる前はくだらない、無価値なものだと思われているのだが、失われた後には大切なものであることが発覚する。ただ、なぜそれらが大切なのかという理由までは明らかにされない。

その大切さは他者から糾弾されるという形で訴えられる。その攻撃は苛烈で、かつ理由は不明である。主人公はその力にただ翻弄されるしかない。主人公は影や鏡像の大切さに無自覚であると言える。無自覚だからこそ、訴えてくる力はそのぶん苛烈になってしまうのだと解釈できる。

影や鏡像を奪うのは悪魔である。彼・彼女ははじめ人間的であるが、後半になると正体をあらわして悪魔的になる。このことは影や鏡像の大切さということと関連があるようだが、詳細は不明である。『影をなくした男』においては主人公は金銭とひきかえに影をなくし、『大晦日の夜の冒険』においては主人公は肉欲とひきかえに鏡像をなくす。したがって影や鏡像は現世的な喜びと対立関係にあると言える。

次に言えることとして、異性がある。二作品ともに正しいヒロインが設定されており、主人公はそれと結合できずに引き裂かれる。影や鏡像は性と関連が深いと考えられる。

最後の特徴は終わり方にある。主人公はどちらの作品においても影と鏡像をとりもどせない。このことは、このテーマがまだ未熟であり、発展の途上にあることを示唆していると受け取れる。誰かが受け継いで研究をし、新たな作品をつくって影と鏡像を取り戻さなければならない。

さて、このテーマに沿った作品として外せないものとして、ル・グウィンの『影との戦い』が挙げられる。『影との戦い』において主人公ゲドは影に翻弄される。それは長いあいだ正体不明であり続ける。この正体不明さは明確に先行作品の特徴をうけついでいると言える。しかし彼は最終的に影との戦いを制する。詳細はここでは述べないが、ゲドは、影とは自分自身に他ならないと喝破することで戦いに勝利するのだ。

『影との戦い』は優れた文学作品だ。その洞察は間違いなく正確であろう。しかし僕には不満もある。それは、やけに道徳的だということだ。主人公は力に溺れないし、富を求めないし、セックスにうつつを抜かすこともない。最初の二作品内で提示された特徴と一致しないのである。すなわち主人公が現世的な喜びを求める点や、異性というテーマが抜け落ちている。このことは、『影との戦い』は問題を小規模にすることによって解決に成功した作品なのだ、と解釈できる。

『1Q84』は影というテーマと性のテーマを結合させて考察している。作中にマザとドウタという概念が出てくるのだが、ドウタはおそらくマザの影であろう。それは両者の容姿がそっくりであるという点や、マザがドウタを生み出すという点からも窺える。男の主人公がドウタとしてヒロインを作り上げること、そして最終的に二人が結合することからも性のテーマが深掘りされていることが窺える。

なお作中で明言はされていないが、ドウタはじつはマザの隠された望みである。マザは通常は攻撃や虐待によって望みを潰されるが、望みはそれ自体が本人から遊離してどこかをさまよっていく。両者の関係性は母娘にたとえられる。

ただ『1Q84』は影と鏡像というテーマについて明確な結論を出していない。事実、村上春樹は影も鏡像も、それに相当する概念も出してこない。ドウタはあくまでも影的な存在であって、影そのものとは断定できない曖昧さがある。世界文学の傑作はふつう明らかにそれと分かるパロディをしてみせたり、先行作品との関連性を窺わせるヒントを出してくるものだが、『1Q84』にはそれがないので、このテーマについては進捗を打ち出したものの明確な解がないと受け取れる。

ちなみに『大晦日の夜の冒険』と『影との戦い』と『1Q84』に共通する特徴として、影は本人と見分けがつかないぐらいそっくりだ、というのがある。両者は交換可能にすら思えるぐらいだ。これは見逃せない特徴である。影はなんらかの形で本人と深い繋がりがあるようだ。

ところでここまでの議論で分かったことと言えば、じつはほとんどない。分からないということが分かった、というぐらいだ。事実、このテーマの最大の特徴は「分からない」ということなのである。盲点になりやすいテーマだ、と言ってもいいかもしれない。『影をなくした男』で主人公は影などくだらないものだと思って軽々しく売り渡すが、そのように我々読者も影と鏡像というテーマを大したものだと思っていないのである。価値のあるテーマだと認識すること自体がそもそも難しいので、理解という旅路のスタート地点に立てないのだ。

影と鏡像というテーマはつねに正面からの攻撃を拒む。彼らはこちらが言語化して思考しようとするのを厳しくとがめ、封じてくる。だからこちらが対抗する方法としては、ともかくいっさい言語化をせずに考えるしかない。僕らは完全に抽象的なレベルで思考をつづけるしかないのである。これはなかなか苦しい道のりだが、やりとげる他はないと僕は思っている。