影と鏡像3

本稿では次の作品群をとりあげる。

  • ポー『ウィリアム・ウィルソン』1839年
  • モーパッサン『オルラ』1886年
  • アンデルセン『影』1847年
  • シャミッソー『影をなくした男』1814年
  • ホフマン『大晦日の夜の冒険』1814年
  • ル・グウィン『影との戦い』1968年
  • 村上春樹『かえるくん、東京を救う』 2000年 
  • 村上春樹『1Q84』2009年

『ウィリアム・ウィルソン』は単純な構造の作品である。一般的に言って影と鏡像という現象の根底にあるのは、自己の良心と欲望の相剋であるが、この作品では影が良心として立ちあらわれ、本体のほうは欲望を体現している。この二者は常に衝突する。そして結末において主人公が良心であるウィリアムを殺してしまい、死に際に自己の破滅を宣告されるというところで終わる。

このような基本構造以外で言及すべきなのは、学校の校舎の描写である。校舎は入り組んでおり、中にいる人も自分が今どこにいるか分からなくなってしまう複雑な建物として表現されている。これは間違いなく、主人公の心の在り方についての言及であろう。主人公はじつは良心を求めているのだが、欲望の邪魔だから放逐したいとも考えている。そういう矛盾した、自分でも自分が分からない混沌とした心の在り方を表しているのが、校舎の描写であると捉えられる。「分からない」という影と鏡像のテーマの特徴がここに表現されている。

「分からない」ということは影と鏡像の最大の特徴だと言える。たとえば影は『オルラ』においては不可視のものとして現れる。つまり上記の作品群の中ではもっとも「分からない」ものだ。『オルラ』の主人公はなかなか不可視のそれと交信ができない。そのような影が本当に存在しているのかどうかも最後まで不明のままである。それはまったくもって正体不明なのだ。

影の正体不明である度合いが高いほど、影が出現してくる動機も不明となる。事実、『オルラ』における影出現の動機はいっさい不明であり、ほとんど手掛かりがない。あえて言うなら、それは冒頭の描写にある。主人公は故郷をすばらしく美しいものとして描写している。自己の家も賞賛する。そのような美をめでる鋭敏な感受性と自己愛が、影の侵入を許容しているのだと捉えられなくもない。鋭敏な心の姿勢は、弱さと裏腹だからだ。アンデルセンの『影』においても、主人公の学者はたいへん心が善良で穏やかであると記述がある。「欲望のなさ」はかえって悪を引き寄せる遠因となりうるらしい。『オルラ』においては自己の良心と欲望の相剋という基本構造は姿を見せないが、これは影の正体不明度が高すぎるためだ。あまりにも湖の水が濁っていると、底が見通せなくなることにも似ていると言えよう。

影の正体に心当たりがある場合は、影はより具体的な形象をとって現れる。その分かりやすい例として『かえるくん、東京を救う』がある。以前の記事で解説したが、かえるくんやみみずくんといった異形の出現は、じつは主人公・片桐の怒りがみなもとになっている。かえるくんは良心を示し、みみずくんは怒りを示している。この場合の怒りは影と鏡像の基本構造における、自己の欲望に相当する。それら二つは衝突し、あい争うのだが、戦いの結果は虚しいものだ。片桐のより深い消耗という結末を導いただけだ。片桐はみみずくんを敵として認識するのではなく、それは本来は自分の一部なのだと認識し、人生において有効に怒りを発揮していかなければならない。怒りを殺すことは自己の願いを殺すことと同じであり、生きた屍として日々を送ることに他ならないからだ。彼は本来なら自力でこのことに気づかなければならない。『かえるくん、東京を救う』では影は二つに分割されており、形象も具体的であるが、このような明確化は、影出現の動機に心当たりがあるからだと推察される。

『ウィリアム・ウィルソン』も『かえるくん、東京を救う』も文字通りの意味において自己の良心と欲望が衝突しているが、『ウィリアム・ウィルソン』においては死ぬのが良心であるのに対して、『かえるくん、東京を救う』においては死ぬのは自己の欲望の側である。いずれにせよ、どちらも悲劇的な結末を呼び寄せてしまう。本当の決着は両者の融合であるべきなのだ。

アンデルセンの『影』は短いものの、大変な傑作だ。この作品においては影が欲望を体現しており、本体が良心の役を担っている。つまり『ウィリアム・ウィルソン』とは逆である。『影』の特徴は、影が本体を乗っ取り、立場が逆転することにある。このような交換可能な性質は、影と鏡像の特徴のひとつだ。これは、たとえば『1Q84』のマザとドウタにおいても見られる性質だろう。『影』では本体が死に、影がのうのうと生き延びる。両者は元に戻らない。その課題は後の作品に引き継がれていく。

『影をなくした男』においても『影』においても、異性ということが強調して語られている。しかしどちらにおいても主人公は異性と結合できない。『影』においては真向いの家に女性を発見することが影の分離の契機であるし、結末は皮肉にも影と王女の結婚である。『影をなくした男』においては主人公とミーナの恋愛に多くの文面が割かれているが、これはほとんど中心的な事件だと言っていい。このことは、影と鏡像の問題を解決しない限り、異性との結合はかなわないのだと受け取れる。なお『1Q84』においては空気さなぎ――通常はドウタと呼ばれる影が作成されるもの――からヒロインの像があらわれる。そして主人公とヒロインは最後にむすばれているので、解決に成功したたぐいの作品であることが推察される。

『影をなくした男』と『1Q84』には共通した特徴がある。それは自身の望みの変化である。『影をなくした男』の主人公は最初貧乏を苦に思っており、金貨がいくらでも出てくる袋を自身の影と交換して悪魔から手に入れる。彼は単純に金銭がほしかったのである。みじめな状況から脱したかった。しかし後半に入ると、辛酸を舐めた主人公はみずからその袋を捨てて、質素な生活に入る。すると偶然にも魔法の靴が手に入るのだが、彼はそれを活用して世界中の植物を研究しはじめるのだ。その仕事は彼の新たな生きがいとなった。このような望みの変化は『1Q84』でも語られる。以前の記事で解説したが、主人公の天吾は当初、数学や柔道に励んでいたのに、最終的には小説を書くことこそが自身の真の望みであることを自覚する。どちらの作品においても、レベルの低い望みを抱いていた主人公が、より優れた願いを抱くようになり、成長する姿が描かれていると言える。

ル・グウィンの『影との戦い』は歴史的な作品である。このテーマに正面から挑んだ作品で、見事な勝利をあげている。主人公ゲドは最終的に影と融合する。影は彼の驕り高ぶる心を象徴したものであり、悪と受け取れる。ゲドはそれを吸収して一体化するのだが、このことはどうやら悪への接近を意味しないようだ。むしろゲドは自身の倫理観という器をより大きなものへと成長させて、自身の悪をその中へ収めて飼いならし、克服したのだと受け取れる。影と鏡像における課題の解決は、良心と願いの両方の成長にポイントがあるのだが、この場合の良心の成長は「潔癖」になるというよりは、むしろ「清濁併せ呑む」という種類のそれだろう。成長した主人公には悪をも吞み込んで善に変える力があると言える。主人公の人間性はより複雑に、懐の深いものとなる。

以上の議論から、影と鏡像という現象の根底にあるのは、やはり自己の良心と願いの相剋にあるということが確かめられた。

物語の主人公は倫理観と願望の両方を、バランスを取って成長させなければならない。バランスを取るというのが肝要である。もしも倫理観のレベルが低いまま願望だけを成長させていけば、それは必ず低俗なものとして発展してしまうだろう。そして『ウィリアム・ウィルソン』の主人公のように破滅する。願望が大きすぎる倫理観に圧殺されれば、『かえるくん、東京を救う』のように悲劇的な結末となってしまう。

このテーマは難しい。ともかく、分からない。そうなるのには二点の理由がある。

まずは、倫理観と願望という二つの概念を一セットで考えなければならないことに起因している。片方だけを取れば必ず失敗するのだ。分割して整理することができないので、全体の把握が困難に感じられ、思わず「分からない」と途方に暮れる事態になる。「分からない」ので、出現してくるものが影や鏡像ということになってしまうのだ。つまり正体のヒントが一切与えられていないので、対象が具体的な形を取れず、曖昧な形象として現れてくる。そう考えると、『かえるくん、東京を救う』で自分の影が「かえるくん」になっていることも理解されてくる。読解すれば分かるように、この小説はかなり主人公の課題の整理と解決の見込みが立っている作品だ。だから影が影や鏡像ではなく、具体的な「蛙」や「ミミズ」という形を取って現れていると分かる。

もうひとつは、なにが善でありなにが悪であるかが、物語を語る作者自身にも自明でないということに起因する。なにが善でありなにが悪であるかが自明である場合は、影と鏡像という構造は立ち現れず、主人公の置かれた引き裂かれの構図は単純になる。主人公を引き裂く力のうち、一方が悪であり一方が善なので、悪を滅すればいいだけという物語の枠組みができあがるからだ。ただし影と鏡像がでばる話の場合はそうはならないので、厄介だと言える。

影を引きずる主人公は古い倫理観を破壊して、清濁併せのむ、大柄な倫理観に目覚めなければならない。そこでは善と悪は再定義される。多くの場合、古い悪も新しい善の側に再配置され、悪は別に定義される。すると新しい善に沿った形で個人の願いも再定義される。そのような成長が、物語を通じて、主人公だけでなく、物語の作者自身にも訪れなければ大団円はありえない。

これは作者にとっては困難な道だ。だから、実はそこで助けとして影や鏡像があらわれるのだ。このことはまた次の記事で語ろう。