『古事記』を読む2

古事記に海はくりかえし登場する。イザナギとイザナミが矛を突き立てる原初の混沌も、たぶん海がイメージの源なのだろう。その後にイザナミの死を経過してから、イザナギは三貴子を産む。このときにスサノオは海を治めるよう命じられるが、従わない。彼は成長しても赤子のように暴れて泣きわめく。そして母のところへ行きたいと願う。

このスサノオのエピソードにはものすごい力がある。日本人にとって海とはなにかということをずばりと言い当てていると思う。これこそ文学だ。僕はほとんどノックアウトされてしまった。

日本列島は海に囲まれている。海は逃げようのない力で僕らを抑え込んでいる。それは荒れ狂う力を保持しており、容易に我々に気を許さない。海を統治するなど土台無理な話なのだ。神の手にも余る、というわけだ。だからスサノオは海を治めない。

また、見渡す限り青い水がよこたわる風景は我々に郷愁を呼び起こす。水の潤いは優しく、波の揺れは我々が赤ん坊の頃に母親の腕に抱かれて、揺らしていてもらったときの想いを喚起する。そして海の向こうは見えない。「見えない」ことが我々に想像を強いる。あの向こうにはきっと何か、より美しい、より懐かしい場所があるのかもしれないという空想を抱かせる。じつは日本では水平線は珍しいものなのだ。より正確に言うと「向こうに何も見えない」という状態が珍しい。陸に上がると、多くの場合向こうには山が見えてしまう。しかし海に対すると、その珍しい「向こうに何も見えない」風景が惜しげもなく与えられる。それもまた海を特別なものにしている理由のひとつだ。

海とは母性なのである。しかし何の準備もなしに海に入っていけば、我々はあっという間に死んでしまう。つまり母性と死こそが海なのだ。前述のスサノオが「母のところへ行きたい」と願うときには、すでに母のイザナミは死んでおり、根の国にいる。したがって古事記のこの場面では海における母性の死の側面ということが言及されているのである。

この後に出てくる海についての目立ったエピソードとしては、因幡の白兎がある。これはかなりコミカルな話だ。つまり海の負の側面をガツンと力ある物語でかたることが、言わば禊のように機能して、正の側面を語る方向へと我々を向かわせるわけである。しかしこの挿話はコミカルではあるものの、海の生き物によって兎が傷つけられたという事実があるので、まだ負の側面も多少あると思われる。

その後はホオリノミコトが綿津見の神の宮殿という、海の中の宮殿へ行き、トヨタマ姫に出会う話が大きい。そこで彼は困りごとを解決してもらうので、ここでは非常に肯定的な海の力が発揮されていると言える。海の中の神たちは非常に親切であり、ホオリノミコトは母性的な性格の支援を得られる。

そこでホオリノミコトはトヨタマ姫と結婚し、トヨタマ姫はお産をすることになる。トヨタマ姫は出産の際に本来の姿である鮫に戻るのだが、そこをホオリノミコトはこっそりと覗き見して知ってしまう。トヨタマ姫はこれを恥ずかしく思って海の国に帰ってしまう。イザナギとイザナミの話と同じように、海の国と地上との間を堰き止めてから帰ってしまうのである。

海は日本における自然の極限である。人は自然と調和することはできても、合一することはできない。だから結婚という形で結合しようとしても、拒否されてしまうのだ。ホオリノミコトのエピソードにおいては、数々の否定的なエピソードを越えて海の肯定的な力が語られたものの、やはりそれは根の国と同じように結合の対象ではないのだということが示されている。このことは影と鏡像5で語ったことと同じである。