『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く

本稿では映画『シン・エヴァンゲリオン』の物語を読み解く。

 物語の骨子

エヴァンゲリオンのストーリーを把握するうえでもっとも重要なことは、巨大ロボットに乗り込むことは父性と母性の両方を象徴する行為だ、ということだ。鬼の面相をしたエヴァンゲリオンは兵器であり、戦うために作られた強力な武器である。そういう意味ではエヴァは父性の象徴だが、内部に乗り込んだパイロットは守られているとも考えられるし、コクピットという容器に入り込むことは子宮に含まれることと近似しており、母性を表しているとも受け取れる。

エヴァンゲリオンはこのことに対して非常に自覚的な作品である。エヴァンゲリオンを所持するネルフという組織は主人公の父親が頂点に立った組織であり、まず序盤で父親から「エヴァに乗れ」と命令される。主人公が父親から見下される構図はあまりにも有名なものだ。その後も主人公は父親とくりかえし相対する。そのように父親というものがエヴァにくっついて存在しているのだ。一方コクピットの内部にはLCLという液体が満たされており、これは明らかに羊水のメタファーで、コクピットが子宮に近似されている。またエヴァの背中に繋がった電力ケーブルも名前はアンビリカル・ケーブルであり、その意味は「へその緒」だ。そういう意味では母性というものが常にエヴァにつきまとっているのである。

エヴァンゲリオンとは、主人公シンジの成長物語である。彼は母親や父親から不完全な愛情しか与えられなかったために、彼らとの関係性から自由になれず、苦しんでいる。そこからいかに脱却して自由になるかという事が語られるのが映画の本筋だ。父性と母性がエヴァンゲリオンに宿っていることが分かっていると、キャッチコピーが「さようなら全てのエヴァンゲリオン」であること、実際にシンジがエヴァンゲリオンを消し去る決断を下すことも理解できる。それはシンジが父母と別れを交わすこととイコールなのである。このような理解に立つと、父であるゲンドウが補完計画を完遂するのが可能性としてのバッドエンドであることも自然と了解できるであろう。人類補完計画が達成されれば、ゲンドウの言う通りシンジは父や母といつまでも一緒にいることができる。それは一種の楽園ではあるのだが、個人の成長という意味では邪道であり、間違ったことなのだ。それは死のない、言い換えれば代替わりの行われない、人類の進化が停滞した世界である。シンジはそのような世界を否定するために父親と戦い勝利し、父母との関係性を解消する。

ただエヴァンゲリオンが複雑であり独特の持ち味を見せているのは、シンジと父親の戦いが単純な正面衝突にはならないからだ。もし仮にゲンドウが完全な人間性を持った巨人のごとき存在であったとしたら、シン・エヴァンゲリオンのように息子と父の戦いは対話へと移行せず、最後まで血みどろの戦いが繰り広げられたに違いない。

実際は、父親もまたシンジと同様に他者との関係を築くことが苦手な人物であり、妻のユイだけが唯一心を許せる人物だった。ゲンドウのユイに見せる全面的な信頼と依存は、殆ど母親に向けるべきそれである。言い換えればゲンドウとユイの力関係は対等ではないのである。ユイはどうやら良き妻のようだったが、心理的にはゲンドウは全面的にユイに支配されている。ストーリー上シンジとゲンドウの戦いに最終的に決着をつけるのはユイだが、これは次のように解釈することが出来る。すなわち、父親対息子の喧嘩を傍から見ていた母親が、結局は息子の側についたということである。碇一家においては母親こそが絶対の存在であり、戦いの勝敗を決める審判役であった、という訳だ。彼らは最初から「母親を味方につけた側が勝つ」というルールで勝負を戦っていたのである。母親は息子が成長を遂げたのを見て取って、父親の方を負かせたのだ。その後にシンジは世界を造り変えてエヴァンゲリオンを消し去り、つまり父母と完全な別れを告げて、成熟した女性であるマリと繋がり、物語は完全に終わる。

以上が『シン・エヴァンゲリオン』のストーリーの骨子だが、ここで次のような仮定をしてみると、さらに理解が深まるのではないだろうか。つまり、ゲンドウがもっと完全な人間性を持った存在であり、ユイとの関係性も対等であり、人類補完計画に興味がなく、しかしシンジと敵対する関係であったらどうだったか、ということだ。

この場合、果たしてシンジは「一人」でゲンドウに勝てるだろうか。彼はむしろその前に父母との関係性を心理的に乗り越え、異性のパートナーを獲得し、二人で協力してゲンドウと戦わなければ勝つことはできないのではないだろうか。

このように考えてみると、アスカとシンジの関係性がどのように描かれたのかということも納得できるのである。アスカもシンジ同様に親との関係性が上手く行かなかった人物として描かれている。一言で言うとアスカはシンジの女版である。おそらく庵野監督は新劇を作る前に、アスカをどう扱うかで悩んだはずだ。理想的には、シンジとアスカは結ばれて、その上でゲンドウを倒すのが正しい道筋のはずだと彼は当初考えた。しかししばらくして、ゲンドウが不完全な存在であることをはっきりと自覚してからは、その必要がないという事に気が付いた。ゲンドウは完全な存在ではないので、シンジ一人で対話で倒せてしまうのである。むしろアスカのことは結ばれない存在として描くことで、物語の全体像が明確になると彼は考えたのだろう。そこでアスカとは別にマリを登場人物として追加したが、彼女の内面は深堀りされなかった。その必要がないのである。彼女は単に、物語のラストシーンで、シンジが成長した証として獲得するパートナーとして描かればそれでよかった。我々人間はみな不完全な存在なので、父母から「完全に」離れて自由になることはできない。言わばその代行を演じてくれる役として、パートナーを必要とするのである。もちろんそれは一方的な依頼ではなく、お互いがお互いに演じるのだ。

 細かい点を読み解く

序盤の農村のシーンではこれでもかというほど母性というテーマが強調されている。医師となったトウジは産婦と挨拶するし、道を歩いている猫は妊娠しているし、家に帰ればトウジの赤ん坊と妻が出てくる。そうした牧歌的な生活の中で主人公シンジは自然と触れ合いながら自分の心を回復していく。

レイはそこで赤ん坊と母親の両方の役割を果たす。何も知らない彼女が様々なことを素直に学んでいく様は赤ん坊としての役割であり、言ってみればシンジが心を回復するという仕事を代行していると受け取れる。またシンジに対して好意を告げて回復を促すのは母親としての役割である。彼女は死ぬが、その犠牲はシンジを成長させる要因として働く。そういう意味では彼女の死は母親の献身にも似ているのである。シンジは沈黙と孤独という影の仕事をし、レイは日の当たる場所で様々な好意的人物に囲まれながら成長するという陽の仕事をするが、それらは最終的にシンジの回復という結果に合流していく。これはどこか日本神話の天岩戸に似ている。スサノオの行いにアマテラスが心を痛め、岩戸に引きこもった結果全世界が暗闇に包まれてしまったが、神々が宴会を始めたところ、アマテラスは岩戸の扉を開けたというエピソードである。なおレイは終盤で登場するシンジの母親ユイを予兆する存在でもある。

それにしても田植えのシーンは印象的であった。シンエヴァ=田植えと言ってもいいぐらいの出来である。これはラストの、シンジによる世界の再創造を予告する効果がある。

さて、その後さまざまな経過があり、物語の中心は父親対息子の戦いになっていく。彼らは最初は殴り合いの戦いを演じるのだが、ムードは切り替わって対話に移っていく。この時シンジの側から対話を持ちかけている点は注目に値する。彼は成長しているのである。その後父親は心の傷を告白し、シンジは理解を示す。

その後色々あって、ミサトが決着をつけるための最終兵器である第三の槍をシンジに届ける。ミサトは複雑な位置についている人物である。ゲンドウからすると彼女は子供的な位置なのだが、主人公シンジから見ると母親代行の役なのである。子供という観点から見ると父親への反逆という意味ではシンジの味方であるが、しかし彼女の態度はゲンドウに対してシンジよりも容赦がない。そうした容赦のなさは戦いに決着をつけるための必要悪だろう。

そして最後の最後、第三の槍を使って決着をつける時になって、ついに主人公の母親であるユイが登場する。彼女はゲンドウにとどめを刺し、物語はようやく決着する。ここでもう一度ミサトの役を振り返ってみると、シンジの母親代行役としての彼女が決定打となる武器をシンジに届けたことにも納得がいく。この映画は母性というものが勝利を収めるお話なのである。

次の記事では、鉄道という面からシン・エヴァンゲリオンを読み解いてみた。

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