『スプートニクの恋人』を読む

村上春樹の『スプートニクの恋人』を二回読んだ。とても良い小説だと思った。それについて書く。

まず確認しておきたいのは、この小説は構造の読解がむずかしいということである。読みやすい小説だし、良さも実感しやすい。村上春樹を読んだことがない人にも薦められる本だと思う。でも内部に隠された構造はじつはけっこう難解である。僕もよく分かっていない部分が多いが、なんとか頑張って書けることを書いていこうと思う。

この小説は『国境の南、太陽の西』の延長上にある作品だ。つまり非常に密にくっついている二つの男女がテーマとなっている。それは主人公とすみれのことだ。ただしすみれは余りにも未成熟なので、作品の開始時点では性欲がない。そのために二人は恋愛関係にはまったく進まない。すみれはやがて同性愛という外れた道に進むが、それは性欲や自我の発展途上の状態を示しているのだと思われる。あくまでもこの作品内では、という意味だが、すみれのミュウへの片思いは正常ではないものとして扱われていると捉えていいだろう。その根拠に、ミュウは最終的に中身ががらんどうの人間に変わり果てる。すみれが彼女へ結合するのは間違ったことなのだ。

すみれは現世を拒否して「あちら側」の世界へ渡る。これは古事記においてアマテラスが天の岩戸に引きこもったエピソードを想起させる。アマテラスがスサノオから性的な攻撃を受けたためにまったく引きこもってしまった話だ。すみれもミュウとの間で性的なことがらにおいて拒否をされたために、「あちら側」に引きこもってしまったのだと受け取れる。それは女性の恥と密接に関連している。イザナミが自分の腐食した体を見られたり、トヨタマ姫が本来の鮫の姿を見られたりして、男を拒否する話もその系譜である。

この物語は最終的に主人公とすみれの間の話に帰着するので、すみれが引きこもったのは実はミュウや現世を拒否したというよりも、主人公を拒否したのだと受け取ると読解が容易になる。ミュウはけっきょくのところ主人公の一側面に過ぎず、代役としてすみれの前に立っているだけなのである。

主人公は終盤で、生徒のにんじんと呼ばれる少年と対話をする。このとき少年は固く沈黙を守っている。これはアマテラスの拒否の姿勢とよく似ている。つまり彼はすみれの代役として主人公の前に立ちはだかっていると言っていいだろう。だから主人公が彼に向って心を開いて語りかけることが、物語を善き方向へと推し進め、最終的にすみれが帰ってくる可能性をつくりだすのだと受け取れる。

では主人公はにんじんに何を語ったのだろうか。それは読者の共感を呼び起こす内容ではあるが、できる限り短くまとめると、すみれがいなくて寂しいということである。自分の弱さを率直に語ったと言える。すると、すみれが天の岩戸から出てくる。正確にはその可能性が示唆されるわけだ。

これは天の岩戸とはだいぶ異なった帰結に見える。アマテラスは神々の宴会に促されてそっと外を覗き見て、鏡を差し出され、その鏡に写った自分を見て外へ出ることを決意する。しかし『スプートニクの恋人』では一個の男性が自分の弱さを語ることがヒロインを元の世界に連れ出すことにつながっていくのである。これはどういうことか。

ひとつには、主人公の弱い姿こそが、すみれの鏡像であるという捉え方がある。すみれはそれを見て外へ出ることを決意したのだと考えられるだろう。

そのように読解していくと、ドッペルゲンガーというテーマにも接続していく。ミュウは分身の自分が男に犯され、汚されているのを目撃して、心の大切な部分を失ってしまう。それにより彼女はピアノの蓋を永遠に閉じた。分身というのがこの物語を読み解くひとつの鍵なわけである。ミュウにおいては分身は悪しき表れ方をする。これに対し、主人公においては分身は善き表れ方をしている。そう捉えると読解が整理されるだろう。

色々述べてきたが、この小説はそれほど有名でない割りには、なかなかの傑作だと思う。内容が豊かなのに文章量としてはじつは短い。僕はそこにも村上春樹の力を実感させられた。