『納屋を焼く』を読む

村上春樹の短編『納屋を焼く』について考察する。

普通に読むと、納屋を焼いたことが原因となって「彼女」が失われたように読者には思われる。それはたいそう不思議なことであり、親しい友人が失われてしまったことの衝撃が印象に残る作品となっている。

ここで「なぜ納屋を焼くとガールフレンドは失われてしまうのか」という問いを立てると、おそらくこの短編の考察は失敗する。実はそこに因果関係が成立するかどうかは、あまり重要ではないのだ。本当に立てるべき問いは、ガールフレンドが消失するという物語と、「僕」が納屋の焼失を見落とすという物語が並行で語られると、なぜ読者は大きなショックを受けるのか、ということなのである。

もう少し詰めていこう。この短編の読解は、因果関係で考えると上手く行かない。画家フェルメールが『真珠の耳飾りの少女』や『牛乳を注ぐ女』で青色と黄色を隣り合わせて描き大きな効果を得たように、村上春樹は『納屋を焼く』で、本来混じり合わないはずの異なる二つの物語を隣り合わせて書いた。するとその二つの物語が補色のような効果を生み、短編が強い文学的魅力を備えるに至った、というのが僕の捉え方である。

その二つの物語とは次のような内容である。

  1. 「僕」が納屋の焼失を見落とす。
  2. 「彼」がガールフレンドを失う。

この異なる二つの物語は、1→2と順番に語られ、最終的に「僕」が「彼女」を失うという形で接合される。

これらに共通しているのは、主体がなにか大事なものを見落とし、もう二度と掴めないという点である。つまり2は1の変奏であると捉えることができる。また、2は1よりも結果が切迫している。それは見過ごすことのできない、大きなインパクトのある出来事なのだ。

あるいは次のように表現した方がずっと分かりやすいかもしれない。村上春樹はまず、「僕」が異性を失ってしまうというインパクトのあるラストを書きたいと望んだ。しかしそれは樹の非常に高い所にみのっている果実のようなもので、手が届かない。そこで彼は梯子を用意することを考える。これが前述の1の物語である。これに足をかけて昇ることで彼は高さを獲得し、ついに2の物語という果実を手にすることができる。2から望みのラストは一直線なので、短編は結末に至ることができる。

村上春樹はこの短編によって、前述した関係性を持つ二つの物語を適切な順番で語ると、大きなショックを読者に与えられるということを証明してみせた。この短編はただそれだけの内容だと僕は思う。僕はこのやり方に、どちらかというと科学者の実験のような印象を受けた。

後は細かい点を見ていく。

「彼女」がパントマイムをやっているというのはなかなか興味深い設定だ。パントマイムは「見えない物」を強調する。それがメインの二つのストーリーの、「大事な物を見落としてしまう」という点と婉曲的なつながりがあるので、この短編を味わい深いものにしている。

ちなみに英語で納屋はbarn。焼くはburnである。フォークナーの短編に『Barn Burning』というものがある。

また、食事の後に大麻を吸うのはカーヴァーの『大聖堂』のシーンの真似だろう。女が途中で部屋に引っ込んで眠りについてしまう点も同じである。二人が帰った後に「まっ暗」という単語が出てくるのも示唆的である。

納屋を焼く行為は何のメタファーになっているのかという問いがある。これは実は正解がないと考えるのが正解である。納屋を焼く行為はヘミングウェイの『二つの心臓の大きな川』における鱒のようなものなのだ。それは暗示の力だけを持っており、「暗示先」は持っていない。純粋なメタファーの力のみを保持した事象なのであって、正確にはメタファーとは言えないものなのだ。

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