『騎士団長殺し』第1部・2部の概観

この記事では村上春樹の『騎士団長殺し』の第1部・2部について、一読して気がついたことを記載している。つっこんだ考察はおこなっていない。

 移動について

『1Q84』は二つのパートに分かれて話が進むが、天吾の側はあまり移動せず部屋にとどまるのに対して、青豆は積極的に移動をする。青豆がやがてリーダー殺害後にマンションの部屋に避難して移動を停滞させるあたりで、今度は天吾の側が積極的に外をうろつくようになる。そしてBook3では天吾も青豆も移動量がぐっと減り、その代わり牛河が移動する役割をになうようになる。また『海辺のカフカ』ではカフカ少年が移動せずに図書館または山小屋にとどまり、一方でナカタさんが移動する役目を果たしていた。つまりこれらの作品では「移動」と「停止」というものが常に並行して存在していたと言える。

それに対して、『騎士団長殺し』では作品の序盤で「移動」が集中的に行われ、そこで移動のパートは終わってしまう。後は山にこもりっきりとなる。

 清潔さへのこだわりの反転

免色は主人公よりも遥かに清潔であり、服も服の着こなしも美しい。料理も上手く、彼が作るオムレツは絶品だ。免色は自分の車をよく洗車するのだが、主人公はそれを聞いて自分ももっと車を洗わなければと反省する。しかしその後すぐに、主人公はやっぱり自分の車は汚いままでもいいか、と考えを変える。これは少々、いやかなり興味深い箇所である。つまり今までの村上春樹の小説における美学とは、反対の方向が示されていることになる。『1Q84』では、容姿が醜く、生活が貧しい牛河は死んだ。彼が犠牲としての役割を果たして死ぬことで、天吾たちは自由になれたのである。一方、天吾や青豆は生活というものに気を使っていた。青豆は服に折り皺がつくのが嫌なので、いつ出ていくことになるか分からない避難先のマンションでもわざわざクローゼットに自分の服をちゃんとかけたほどである。『1Q84』における「正しい生活」はそういうものなのだ。

免色も方向性としてはこのようなこだわりに一致している。しかし第2部の最後の文章を読めば分かるように、結局のところ『騎士団長』において免色的な在り方は主人公によって否定される。主人公と親しい秋川まりえが、どんな人も免色と同じ家には住めないと考えるのも、そのような否定の表れだろう。

よくよく考えてみると主人公はけっこう大雑把な所がある。料理は作り置きして冷凍して貯めておくし、車はちゃんと洗わず、そしてフールオンザヒルの作曲者をレノンだと勘違いしたまま後で調べ直すこともしない。これらは作家による意図的な性格描写なのだろう。この楽天的な性格やちょっといい加減とも思える所は、「信じる力」や、犠牲を肯定的な力に変換していける主人公の特性と深い繋がりがあるように思われる。

 海と山

以前解説したように『1Q84』と『多崎つくる』では海を軸にした直喩が多用された。しかし『騎士団長』においては姿を消してしまっている。しかも主人公が山に住むことになり、物語はほとんどが山の上で展開される。雨田具彦に会う際主人公は海に接近することになるのだが、雨田具彦の部屋で穴を潜って移動すると、彼はまた山に戻ってしまう。つまり一度は海が現れるが、またすぐ海は消えてしまう。

海の直喩は月と関係があった。そして『1Q84』における月は『多崎つくる』における指と同じで、多義性を持っていた。多義性は隠喩と密接な関係があるので、月=隠喩、海=直喩という役割分担が成り立っていたことが分かる。『騎士団長』では、そこに“山”という新たな概念が加わる。海と山は反対のものだと捉えることが可能なので、今作ではもしかしたら比喩への考え方に変化が訪れるのかもしれないという予測が成り立つ。

ところで『騎士団長』の文章は『1Q84』と比べると、おや、と思うほど隠喩が少ない。『1Q84』はあちこちに顔を出していると言えるほどに隠喩の気配が濃厚だったが、『騎士団長』ではむしろ直接的な説明や単なる事物の描写にとどまっている文章の方がずっと多い。特に山に関する率直な描写は印象に残る。そこでは虫の声が夜ごとに鳴り響くのだが、人はそれに慣れてしまう余り、寝ているあいだに虫の声が一斉にやんで沈黙が起こると、かえって目を覚ましてしまう。(それがきっかけで主人公は塚の下から鳴る鈴の音を突き止めることになる。)

次の文は2部のP264からの引用。

そこにある空は不自然なほど高く、どこまでも透き通っていた。空をまっすぐ見上げていると、透明な泉の底を上下逆にのぞきこんでいるような気がした。ずっと遠くの方から、電車の長い車両が線路を進んでいく単調な音が聞こえてきた。ときおりそういう日がある。空気の澄み具合と風向きによって、いつもは聞こえない遠くの音が妙にくっきりと耳に届く。そういう朝だった。

(村上春樹著『騎士団長殺し』)

音や匂い、五感というものに結びついた描写がかなり出てくる。このような文章は後々「顔なが」の穴に主人公が入って進んでいくときに、読み手に対してじわりと効いてくるようだ。その時にはメタファーというものが考えられ、ありのままの描写が記憶の素材として活用されて力を持つわけだが、あくまでも上記の引用の段階では事物の描写にとどまっている。つまりこの作品では、メタファーの込められていないただの記憶、率直な描写としての文章と、メタファーとの二種が、峻別されている。そして優れたメタファーが文章として顕わになるのは、主人公が第2部の終盤で試練をくぐり抜けるときである。線引きというものが強い意識のもとで、明確になされていることが分かる。

もちろん『騎士団長殺し』の絵や穴は非常に隠喩的ではある。これらは直接的な説明とは言えないのではないか、隠喩だろう、という意見もあると思う。しかし絵や穴を指して、「これは隠喩ですよ」と文章中に明示されている点には注意されたい。隠喩が自らを隠喩であると明かしているという点では、これらは『1Q84』の容器の隠喩とは全然意味合いが異なるのである。なぜなら、後者は説明というものを省略しているからだ。

ちなみに線引きというキーワードについて連想できる言葉を考えていくと、結婚生活の前期・後期とか、あるいは「無と有とを隔てる川」といったものが思い出されてくる。

ところで第一部P155で免色が「これまで水とはあまり関係のない人生を歩んできましたから」と言っているのは興味深い。海の直喩が消えていることと関係しているのは、間違いないだろう。

 継続されるプルーストの参照、そして覗き

またもやマルセル・プルーストの名前が作中で明示された。本人がいない時、不在の時に自己の記憶を頼りにして肖像画を描くというプロセスは、『失われた時を求めて』を連想させるものがある。主人公が試練の穴を進んでいく際に、匂いや音というものがヒントになり、記憶が想起されるのだが、これもやはりプルースト的である。本ブログでは以前、プルーストと『豊饒の海』、そして『1Q84』の関係性について考察した。

覗きのテーマも『1Q84』から継続された。別記事(, )ですでに解説済みだが、覗きのテーマはもともとプルーストに端を発している。本作でこの事を裏付ける材料として挙げられるのは、“見る”だけの存在である騎士団長が、第1部P452で「クリトリスとは触っていて面白いのか?」と主人公に尋ねていることだ。騎士団長は人のセックスの覗き見をするのだが、これは『失われた時を求めて』・『豊饒の海』に共通した覗きの性質だ。この質問は「騎士団長はセックスを楽しむ可能性がない」ということを意味している。

また“覗き”は「ある人が別の人を一方的に見る、知覚する」という性質を保ったまま他の形に変えられて、至る所に登場してくる。

  • 免色は秋川まりえを覗く。
  • イデアである騎士団長は、一方的にさまざまなものを見る。見られている側はそのことを知らない。
  • 免色は秋川まりえが自分の子供かもしれないことを知っている。しかしまりえはその可能性について知らない。
  • 秋川まりえは免色が自分を覗いていることを知っているが、それを免色に教えるつもりはない。免色はまりえが感づいていることを知らないままである。
  • 主人公は免色の家にあった衣服(イフク)が、まりえの母親の物だった可能性が高いと思っているが、まりえにそれを知らせない。

これらにはバリエーションがある。「免色が秋川まりえを覗く」のと「主人公がまりえに衣服のことを教えない」のは、おそらく対極にあると思っていい。免色は自分が覗いているという情報を相手に与えていない。主人公もまりえに情報を与えないという点では一致するのだが、しかしそれは相手を気遣ってのことだ。(「気遣う」という言い方をすると途端に矮小になってしまいやや本質から逸れる感が否めないが、とりあえずここではそのような表現にしておく。) そう考えていくと、終盤で主人公が娘の目を隠すのも、ちゃんとテーマに沿った行為であることが理解できる。

最終的に主人公のスタンスは、作中の事実という意味では次のように結論づけられる。

  • 主人公は、むろが自分の生物学的な意味での娘ではない可能性があることを知っているが、しかしそれを敢えて確かめないという決断を下す。そこに不安はない。両方の可能性が同時にあるという状態を、主人公は信じる力によって矛盾なく統合し、平安でいる。そこが免色とは違うところだ。免色は常に両極の“真実”の間をいったりきたりしている。

つまり客観的な事実に対して人はどのように振る舞うべきか、という問題意識がここにはあるようだ。

以上の覗きというテーマについて、私の考えはまとまっていない。メタファーや移動というテーマと関連があるように感じている。

 犠牲というテーマ

犠牲・身代わりというテーマが非常に強固な柱として作品の頭から末尾までを貫いている。ある物が死ぬことで別の物が現れる。あるいは、見る側がそのように見立てるということを示唆している文章やエピソードが、とても多い。ほとんど創作やメタファーといった主要なテーマに匹敵する扱いを受けている。

  • 主人公の描く絵の様式が、抽象画から肖像画に変わる。
  • 青年の頃にあった「胸の中に燃えていた炎のようなもの」が、肖像画を書くことによって消えていく。(「ときどき自分が、絵画界における高級娼婦のように思えることがあった。」)
  • 1部 P43 - 老人が熊に襲われるというニュース。老人が自分の代わりに死んだ。
  • 1部 P47 - 今の恋人を捨てて新しい恋人を作る。「ただ私のガールフレンドは、親友に私を奪われたことに、ずいぶんショックを受けたようだった。」
  • 車が主人公の代わりに死ぬ。
  • 死んだ妹の身代わりとしての役割を妻が果たしている。
  • 主人公の空想、土中にミイラがあるのではないかという怯えがまずある。それから実際に掘り出してみると何もない。予感や恐怖が、実際の災いを肩代わりして消えてくれた。そして後には鈴だけが残った。
  • 1部 P332-333 「一人の人が去って、また別の人がやってくる。」 まさに犠牲や置き換えといったものを表現している。
  • 1部 P339 雨田の指摘。ユズと別れることによって、主人公は自分のスタイルを持った絵を描き始めることになった。
  • 騎士団長を殺すことで、顔ながが現れる。試練の道が開く。
  • 主人公は試練の穴を通り抜ける際に、過去の温かな記憶を頼りにして力をつけて、前に進んでいく。それは、黒猫のこやすや車のプジョー205だった。それらは両者とも、主人公のもとを去っていったものだ。
  • 最後に『騎士団長殺し』の絵が失われる。しかし主人公は自分が将来『白いスバル・フォレスターの男』を描き直したら、それが取って代わる作品となり、自分は雨田具彦から遺産を受け継いだことになるだろう、と考える。

この犠牲というテーマについて注意を留めておくべき点は、肯定的な意味合いの物の方が多い、目立つということだ。最後の二点は特にポジティブな意味合いが大きい。『多崎つくる』における犠牲やスケープゴートとはだいぶニュアンスが異なっているようだ。

それにしてもこうして一覧してみると、文体から受ける印象とは逆に、主人公にはけっこう図々しい所があるようだ。良く言えばたくましいという事になるだろう。

『騎士団長』をさらに延長させて考えれば、主人公もいつかは犠牲の側に回らなければなるまい。そして地上から姿を消すことになるだろう。だがそこまでは第1部と第2部の物語には含まれていないのである。現在の彼は“受け取る”存在なのだ。しかし第2部の末尾では、恩寵として授かった娘によって、主人公もまた徐々に与える側に回っていかなければならない事が示唆されている。

 影、空気さなぎ

秋川まりえの肖像画はふかえりの空気さなぎに近い。完成させてはならないものである。このテーマは難しいので今は充分に書けない。

 無を描くということ

第2部の終わりまでを読んでふたたび第1部のプロローグを読み返すと、実は無を描くという課題は達成されていないことが分かる。

「無を描く」とは一体何を意味しているのだろうか? 『騎士団長』という小説の中で一番重要な問いはきっとこれだ。他の問いは優先順位が低い。冒頭に置かれているうえに創作に直結する問いである以上、まず間違いないと思われる。

しかしこれは難しい問いだ。主人公は「顔なが」の穴に入った後、最初川に着き、それから川を渡って森を抜け、暗い穴に入っていく。そこが本当の試練で、主人公は正しいメタファーの極意というべきものを実感し体得する。この箇所は非常に感動的であり、第1部・第2部を通してクライマックスに相当する場面である。だがよくよく反省してみると顔のない男は川にいた訳だから、この男に相当する位置に移動しようと思ったら、このような試練の旅を、わざわざ「後退」しなければならないことになる。試練の果てが否定的な場所であればそのような逆戻りも納得できるが、実際には小説中では肯定的なものとして書かれている訳だから、これはよく分からない、となる。逆戻りが更なる未来の目標として置かれているというのも、了解しにくい。また一見この顔のない男に繋がるようなヒントがどこにも書かれていないように思われる所も、問いの難解さを増している。

そこで、我々はまず川の描写について見てみよう。顔のない男は川にいる。「無を描く」とは「顔のない男の肖像画を描く」ということに等しいから、川について理解できれば、問いの答えに近づけるはずだという推測が成り立つ。次は第2部のP350から。

 川の流れに沿って歩を進めながら、この水の中には何かが棲息しているのだろうかと考えた。たぶん何も住んではいないのだろう。もちろん確証はない。しかしその川にもやはり、生命の気配のようなものは感じられなかった。だいたい味も匂いもない水の中に、いったいどのような生き物が棲息できるだろう。そしてまた川は「自分が川であり、そして流れ続けるものだ」ということに、意識をあまりにも強く集中しているように見えた。それは確かに川という形象をとってはいたけれど、川というあり方以上のものではなかった。小枝一本、草の葉一枚、その川面を流されていくものもなかった。ただ大量の水が純粋に地表を移動しているだけのことだ。

ここを読んで私は、川とは空疎な言葉を意味するものだと思った。虚偽という意味ではない。何らかの積極的な意志やメタファー、イメージ的な広がりを持たない、ただの記号でしかない言葉のことだ。主人公はその後「無と有を隔てる川」を渡ってメタファーを獲得するのだから、川はメタファーと対極にあるような言葉だという受け取り方は、かなり自然なものだ。

ここで我々は、比喩というものについて考えてみる。

比喩とは <喩えるもの> と <喩えられるもの> の二者によって成り立つものだ。主人公が試練で体得したのは、匂いや音といった感覚を軸にして、善き <喩えられるもの> を引き出してくる術である。それはもともと記憶の中にあったものだ。記憶の中にある善きものを次々と連結するように引き出してくること。それが主人公が体得した一つの奥義だと言っていい。

もう一度川についての描写を読み直してみると、川は五感に繋がる可能性を持たないとあるので、この原理に従えばメタファーを引き出してこれない。したがって、川はおそらくメタファーを引き出せない言葉を意味するものだ、という前述の推測が成り立ってくることになる。

ここまでの議論は固い地盤の上に立っていると言えるだろう。問題はここから先で、多分に私個人の推測交じりとなる。

まず村上春樹は文学の成長というものを、三つの段階に分けて考えた。第一段階が直喩で、第二段階が <喩えられるもの> を持つ暗喩で、第三段階が <喩えられるもの> を持たない暗喩である。第一段階はイデアという言葉と繋がりがあり、第二段階はメタファーという言葉と繋がりがある。そして第三段階に関連のある言葉が“無”であり、村上春樹のこれからの目標となっているのではないだろうか。

第二段階と第三段階の区別はかなり微妙なもので、見る側、読む側によって変化すると言っても過言ではない。『騎士団長殺し』は当初、第二段階のものだと主人公は受け取っていた。なぜなら彼は雨田具彦に対して、その絵が指すものが何なのかを聞きたがっていたからだ。しかし第2部の最終章では、絵は第三段階の存在へと、少なくとも半分程度は移行している。なぜなら主人公は絵が指しているものが何なのか「分からない」という事に対して、納得したものを覚えるからだ。それでいて絵が優れていると彼は捉えている。絵が <喩えるもの> で、雨田具彦の過去とその怒りが <喩えられるもの> であると受け止めると、主人公の考えでは、もはや <喩えられるもの> は不要なのである。ただ絵だけで、それはもう優れた力を備えている。絵はいまや鑑賞者に対して「私によって <喩えられているもの> は何であるか分かりますか」という問いを、発さなくていい。それは鑑賞者が考えるべき仕事だ。彼・彼女は作品を見る・読むことを通して、自由に想像の手を伸ばしていけばいい。そのとき絵はすでに自己完結的な芸術性を備えている。

しかしそうだとしたら、そこに怒りは必要なのだろうか? 過去の暗い傷と恨みを引きずった「危うい力」を鑑賞者に叩きつけるような文学は、果たして必要なのだろうか? それが主人公、つまり村上春樹の疑問であるように私には思われる。無論、優れた芸術に反抗や怒りは必要不可欠だ。しかしそれにもやはり限度があるし、そもそも優れた美質に繋がるとは限らないというのが、作家の意見なのかもしれない。

さて、第二段階と第三段階の区別は、鑑賞者との関係性をなしに語ることはできないとすでに述べた。このような考察のもとに小説を読み直してみると、秋川まりえが先生が絵を描くのを助けたいと発言した場面や、覗きというテーマが積極的に取り上げられていること、そしてガールフレンドや妻との間に「礼儀」の問題が挙がってくることが、おのずと了解されるのである。相手との関係性を考慮せずに、つまり働きかけることや働きかけられることを上手にこなすことなしに、芸術というのは成り立たないのだ、ということだろう。

以上の考察をもとにしてもう一度「川」の問題に立ち返ると、徐々に理解が進んでくる。「顔のない男」は船を渡して他者を移動させる。移動させられた他者はメタファーを獲得する。この「他者」が、『騎士団長殺し』の二部においては主人公に当たっているので我々読者にはやや分かりにくいのだが、全体の構造を俯瞰すると答えが見えてくる。第三段階にあたる作品とは、自分が <喩えられるもの> に到達するような作品なのではなく、自分は“無”にとどまり続け、他者を <喩えられるもの> に移動させるような作品のことである。彼は自分の場所にとどまりつづけ、その聖なる義務に専念する。世界の辺境で、自己を犠牲にして、闇の力の侵攻を食い止める役目につく。ここで犠牲というテーマが、“無を描く”という課題に合流してくるのである。自己犠牲の精神なしに無を描くことは出来ないのだ。

 無を描いた実例

本ブログでは以前プルーストと『豊饒の海』と『1Q84』の結びつきについて説明した。特に『豊饒の海』における直喩の否定の考え方は、『騎士団長』を読み解くヒントになってくれると私は思っている。『騎士団長』における“無”とは、『天人五衰』の参道の登攀および庭の描写と密接な関係がある、というのが私の意見だ。

『豊饒の海』の最終巻である『天人五衰』の主人公・本多繁邦は、月修寺に昇る前に「人の肉の裏に骸骨を見るようなことはすまい」と覚悟を決める。「ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう」と意志する。そしてその決心以降は、小説内では事物の具体的、直接的な描写が続くことになる。これがメタファーの放棄であり、無への接近だと考えると、『騎士団長』に話がつながっていく。

本多繁邦は木津川の堤防を見る際に、生来の癖で、ひねくれた比喩を用いて物を見てしまう。だが彼は慌てて先程の決心を思い出し、もう一度虚心に物を見ようと努める。この一瞬の囚われが『騎士団長』における「二重メタファー」に相当する現象だと考えられる。

そして作品は本多の月修寺への登攀の場面に移っていく。ここは奇跡的に美しい文章で構成されているのだが、直喩は姿を消しており、暗喩もまた積極的な意志を持ったものは見られない。「倒れて横たわってはいるが枝でまだ自分を支えている松」は本多のことを指しているという捉え方は、充分に可能ではある。しかしそれは“積極的”な隠喩ではない。既に述べたことを繰り返すが、第二段階と第三段階の隠喩は受け取り手によって変化しうる。この区別はかなり微妙なのでしばしば混乱をきたすが、この箇所は第三段階にあると言ってよい。受け身でありながらも明るく正しい意志を備えた隠喩、どこまでも無意識的な隠喩がそこには在る。

登攀の場面は“無を描いた”実例として、優れた部類に入ると言える。しかしこの作品はそのすぐ後に、急激に落下してしまう。次は『天人五衰』の最後のページからの引用だが、ここからはそのような受け身の隠喩すらも姿を消している。からからに干上がった、まさに無味乾燥な“無”しかない。「記憶がない」と明示されているのも、『騎士団長』のメタファーの原理に繋がるものがある。文章そのものは端正なので、かえって“何もなさ”が際立つ。つまり“無”にも善し悪しというものがあって、結局この作品は最後には転落してしまうのである。

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶のとうが、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
 これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
  
(三島由紀夫著『天人五衰』)

もちろん村上春樹の目指している場所は、上記のような転落を避けて、自分独自の善き“無”の作品を作り出すことだ。不思議なことに、それはなぜかどこまでも強い存在感を持ち、全世界を覆うような“有”性を備えたものに違いないと予期されるのである。

ちなみに『天人五衰』との繋がりを補足する根拠として、火掻き棒という単語がある。『天人五衰』において本多透が怒って、慶子を打ち付けようと考えた道具だ。この単語が『騎士団長』において、まさに試練の道を通っているときに章のタイトルとして出て来る。