『流れよわが涙、と警官は言った』を読む

フィリップ・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』について書く。

本書のクライマックスは主人公タヴァナーがメアリー・アン・ドミニクと出会い対話をする場面である。我々はそこで愛情の持つ大いなる力に撃たれることになる。今まで自分がいかに傲慢だったか、人との絆を大切にする気持ちや親切心を欠いていたかを指摘され、その打撃にうずくまることになる。メアリーの厚意や優しい性格を我々読者は感じ取り、それに心から感謝することだろう。

本作のすべての要素はこのクライマックスとの関連で語ることができる。たとえばタヴァナーが3000万人の視聴者を持つエンターテイナーであることは、その後の誰も彼を知らない状況に落ち込んだときとの、落差を演出するためであろう。タヴァナーは多くの人から知られていたが、それは名誉や金を彼にもたらしただけであり、本当の意味での愛情はもたらさなかった。彼は傲慢な性格をしていると言える。タヴァナーは苦境にいるとき何でも金で解決しようとするが、そうした傾向もメアリー・アンの無償の愛を引き立たせる役割をしている。

タヴァナーはルース・レイから愛について説かれる。ルース・レイは愛情とは品物の交換ではないと主張し、彼に無償の愛について教える。それは物語の進展や事件を伴わない、抽象的な議論である。タヴァナーは「愛さないほうがいい」と言う。対象の死が必ず待っているからだ。それに対してルース・レイは死を悲しむことこそが最も強烈であり、すばらしい感情であると言う。

なんにせよここでのポイントは、抽象的な議論にとどまっているということである。そして、この議論の具体例が、タヴァナーとメアリー・アンの対話なのである。そこで我々読者はメアリーから愛の体現を示される。これは文学における必殺のパターンだと言える。まず抽象的な議論をさせる。それから最後にその議論の具体例にあたる物語の展開を起こす。これをやられると読者はノックアウトされてしまうのだ。他では『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などでも用いられているテクニックである。緑川と灰田の父親の対話が抽象的な議論にあたる。その後に終盤でつくるが体験することが彼らの議論に対する回答になっている。

死はポイントである。タヴァナーはあやまってメアリー・アンの花瓶を割ってしまうが、これは死のメタファーであろう。タヴァナーは愚かであるから、最後まで彼女の愛が理解できず、金でこれを償おうとする。メアリー・アンは割られたことを気にせず、新しい花瓶を彼に進呈する。つまり、愛があれば死を乗り越えることができるのだ。しかしその後のタヴァナーとヘザー・ハートの喧嘩を見ていると、やっぱりタヴァナーは何も学習していないようである。そこではメアリー・アンの花瓶だけが価値を持っている。エピローグでも、登場したすべての人の死が語られるのに対して、最後にメアリー・アンの花瓶が生き延びたことが述べられる。

 メアリー・アン・ドミニクが作り、ヘザー・ハートへの贈り物としてジェイスン・タヴァナーが買った青磁の花瓶は、曲折を経てある私設の近代陶器コレクションに加えられた。それはいまなおそのコレクションに納まり、大切に保存されている。そして、陶磁器を解する多くの人々の目に触れ、心から慈しまれ、愛されている。