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コスタリカ307

よいブログ。

『1Q84』の隠喩表現に関する補足

村上春樹 レイモンド・チャンドラー 1Q84

今までこのブログは二回に渡って『1Q84』の解説をおこなってきた。

本稿ではこれまで議論してきた『1Q84』の隠喩表現について整理をおこない、また補完をおこなう。その性質は次のように一覧できる。

  • 容器、すなわち壁が存在し、その内側と外側という空間構造が立ち現れる。
  • 現在は中身が未熟であるが、育てることによって成長し、いずれは外へと出ていく。それには時間が必要とされる。
  • 上記の要項を満たす、促進するものが善である。
    • 邪悪な者の侵入を拒む。
    • 適切な滋養を外側から取り込んで内側へ送る
    • 質問をおこない、考えることを促す。
    • 正しい生活。自己を律する。
    • 必要なら守護者の助けを借りるが、適切なタイミングで守護者との縁を切り、外へ出ていく。
  • その反対が悪とみなされる。
  • 暗黙のうちに倫理的な評価がおこなわれる。

 伸縮自在の道具

改めて振り返ると、この表現形式が非常に強力であることに気付かされる。というのも空間と時間が含まれているため、作家はあらゆる運動や現実の構造物を対象にしてこの隠喩表現を行使できるからだ。紅茶を入れるためにお湯を入れた後しばらく待つというだけの動作や、赤いスズキ・アルトに乗った女の子が車の外へ出たいと言って母親を困らせる場面や、あるいは老婦人が温室で蝶を育てる場面、そして青豆が避難先のマンションの一室で外へ出るタイミングを待ち続けるといった複数章にまたがる文章でさえ、実はこの型で表現されている。

さらに言えば、作品冒頭で青豆が一人でタクシーを降りたことと、最後に天吾と共にタクシーに乗り込んだことも、やはり型に沿っていることが分かる。彼女はある容器から別の容器へと、すなわちより望ましい部屋へと移ったのである。したがってこの表現形式は数行程度の文章から、作品全体にまたがる長さの文章にも適用可能であると分かる。

 倫理的評価がなす効果

倫理的な評価をおこなっていることもポイントの一つだ。すると意味内容の「反転」が可能になるので、比喩の適用範囲が増す。どういうことかと言うと、本来悪であるはずの内容でさえ倫理的な評価によって「悪」と弾劾されるため、その批判的な姿勢そのものは「善」となり、結局すべての隠喩表現が同じ方向性を指し示すことになる。その結果全体としては矛盾が起きない、ということだ。

これにより作家が描くことのできる対象は広くなる。金魚と金魚鉢を買わずにゴムの木の植木鉢を買うのは善だが、幼い女の子に纏足をはめるのは悪である。しかし文面においては、後者は単に纏足の説明をするだけで事足りる。なぜなら倫理的な評価が行われているので、文面上で纏足をはめた女の子を解放するようなことを表現したり、あるいは女の子に自由を与えるようなことは書かなくてもよいことになるからだ。この道徳性の批判という機能によって、作家は首を右へ向けることも左へ向けることも可能になる。前項と加えて、さらに自由度が増すのだ。

 省略がなす効果

前述の評価は暗黙のうちにおこなわれている。つまり善か悪かという判断の結果が文面には表れていないということだ。このような省略によって引き起こされる効果は大きい。

まず、文章のリズムが良くなる。音楽の演奏は途切れることなく続けられなければならない。いちいち立ち止まって今の演奏はこういうことなんです、と指揮者が聴衆に説明していたら、しらけてしまう。あえて評価を省くことによって、作家は事実だけを続けて書くことが可能になる。それにより物語は立ち止まらずに進行していくだろう。

もうひとつは、読者の参加が求められるということだ。それはハードルでもあり、自由なスペースでもあると言えよう。イエスが自分の喩え話が分かる人と分からない人を区別したように、『1Q84』もまた隠喩が理解できる者とそうでない者を区別する。読者はそのハードルを乗り越えることによって、達成感が得られる。『1Q84』は再読することによって理解が進み、それにつれて喜びが深まる小説なのだ。また自由なスペースというのは、つまり読者が物を考えたり感じたりすることを許す、奨励するということだ。

このハードルというものを象徴している場面がある。青豆が『空気さなぎ』を読む箇所だ。

それは青豆にとっては、人の生死を賭けたきわめて実際的な物語なのだ。マニュアル・ブックなのだ。彼女はそこから必要な知識とノウハウを得なくてはならない。彼女が紛れ込んでしまった世界の意味を少しでも詳しく、具体的に読み取らなくてはならない。

村上春樹著『1Q84』)

あとに青豆が高速道路の非常階段を逆向きに上がっていくことを思いつく場面があるが、そこには発想の理由が書かれていない。これもまた一種の「省略」である。じつは彼女は『空気さなぎ』を読むことによってそのようなアイデアを思いついたのだ。

また最後にタクシーの運転手が語った挿話は作品全体の要約になっているのだが、そのことの説明はなされない。青豆が即座に「信じられる」と返したのは、ルールを学び把握していたからだ。無論そのことの説明も省かれている。

 まとめ

1Q84』固有の隠喩はあらゆるところに顔を出し、以上の機能によって読者に効果を及ぼす。読者自身の眠った意欲へと働きかけるのである。それは必ずしも良いこととは言い切れず、危険なことでもあるから、ハードルが設定されているのかもしれない。

 発想のみなもとは何か

この隠喩は村上春樹のオリジナルな表現技法だ。今まで作家が読んできた、そして書いてきたすべてが混ざり合った混沌とした思考の海から奇跡的に誕生したものであって、何か一つに元ネタを絞るのは難しいだろう。

しかしそれでも敢えて一つ挙げるとするならば、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッバイ』がそれに当たると思われる。次の記事でも解説したように、同小説の主人公はさまざまなものに評価を下している。

riktoh.hatenablog.com

また、この小説では次のような型を持った文章や挿話が随所に姿を見せる。それも様々な長さで表現されている。

  • 二人一組である。
  • ペアの内一方が一方を守る役割を担っている。
  • 守護者は自らを犠牲にして、その役割を達成する。

親鳥が子供を庇護する場面がある。人間が姿を見せているので、親鳥は危険だからと、子供の鳥に注意をおこなって鳴くのを止めさせる。このような短いシーケンスの中にも、上記の型は表れている。もう少し長いエピソードの例としては、三人の医者を順に訪ねていく場面が挙げられる。そこでは一部の医者が悪と弾劾されている。より長い主要なエピソードとしては、作家であるロジャーが妻のために秘密を隠したまま苦しむことや、マーロウが友人であるテリー・レノックスをかばって牢に入ったことなどが挙げられる。最後にレノックスとマーロウが袂を分かつのは、結局レノックスは自己犠牲を完遂することができなかったからである。むしろ庇ったはずの相手は最後に死んでしまった。そのようなことをマーロウの道徳は許容できない。彼の倫理観は厳しいのだ。

さらにもう一点根拠を提出するならば、このような倫理的な結論の導出をチャンドラーは「漸進的」に行っているということだ。闇である地形の中を一歩ずつ確かめながら前へと進み、時には横道や行き止まりに入りつつ、マッピングを行う。そうして最後には目的地にたどり着く。このような足取りも『1Q84』の隠喩の性格と共通しているように思われる。