『1Q84』の隠喩表現に関する補足

今までこのブログは二回に渡って『1Q84』の解説をおこなってきた。

本稿ではこれまで議論してきた『1Q84』の隠喩表現について整理をおこない、また補完をおこなう。その性質は次のように一覧できる。

  • 容器、すなわち壁が存在し、その内側と外側という空間構造が文脈の中に立ち現れる。
  • その容器の中身は現在は未熟であるが、育てることによって成長し、いずれは外へと出ていく。それには時間が必要とされる。
  • 下記の要項を満たしたり、促進したりするものが善である。
    • 邪悪な者の侵入を拒む。
    • 適切な滋養を外側から取り込んで内側へ送る
    • 質問をおこない、考えることを促す。
    • 正しい生活。自己を律する。
    • 必要なら守護者の助けを借りるが、適切なタイミングで守護者との縁を切り、外へ出ていく。
  • その反対が悪とみなされる。
  • 暗黙のうちに倫理的な評価がおこなわれる。

伸縮自在の道具

改めて振り返ると、この表現形式が非常に強力であることに気付かされる。というのも空間と時間が含まれているため、作家はありとあらゆる現実の運動や構造物を対象にこの隠喩表現を行使できるからだ。紅茶を入れるためにお湯を入れた後しばらく待つというだけの動作――たったの二行だけで表されている――や、赤いスズキ・アルトに乗った女の子が車の外へ出たいと言って母親を困らせる場面や、あるいは老婦人が温室で蝶を育てる場面、そして青豆が避難先のマンションの一室で外へ出るタイミングを待ち続けるといった複数章にまたがる文章でさえ、実はこの型で表現されている。

さらに言えば、作品冒頭で青豆が一人でタクシーを降りたことと、最後に天吾と共にタクシーに乗り込んだことも、やはり型に沿っていることが分かる。彼女はある容器から別の容器へと、すなわちより望ましい部屋へと移ったのである。したがってこの表現形式は数行程度の文章から、作品全体にまたがる長さの文章にも適用可能であると分かる。

倫理的評価がなす効果

倫理的な評価をおこなっていることもポイントの一つだ。すると意味内容の「反転」が可能になるので、比喩の適用範囲が増す。どういうことかと言うと、本来悪であるはずの内容でさえ倫理的な評価によって「悪」と弾劾されるため、その批判的な姿勢そのものは「善」となり、結局すべての隠喩表現が同じ方向性を指し示すことになる。その結果全体としては矛盾が起きない、ということだ。

これにより作家が描くことのできる対象は広くなる。金魚と金魚鉢を買わずにゴムの木の植木鉢を買うのは善だが、幼い女の子に纏足をはめるのは悪である。しかし文面においては、後者は単に纏足の説明をするだけで事足りる。なぜなら倫理的な評価が行われているので、文面上で纏足をはめた女の子を解放するようなことを表現したり、あるいは女の子に自由を与えるようなことは書かなくてもよいことになるからだ。この道徳性の批判という機能によって、作家は首を右へ向けることも左へ向けることも可能になる。前項と加えて、さらに自由度が増すのだ。

省略がなす効果

前述の評価は暗黙のうちにおこなわれている。つまり善か悪かという判断の結果が文面には表れていないということだ。このような省略によって引き起こされる効果は大きい。

まず、文章のリズムが良くなる。音楽の演奏は途切れることなく続けられなければならない。いちいち立ち止まって「今の演奏はこういう意味や効果があるんです」と指揮者が聴衆に向けて説明をしていたら、しらけてしまう。あえて評価を省くことによって、作家は事実だけを続けて書くことが可能になる。それにより物語は立ち止まらずに進行していくことだろう。

もうひとつは、読者の参加が求められるということだ。それはハードルでもあり、自由なスペースでもあると言えよう。イエスが自分の喩え話が分かる人と分からない人を区別したように、『1Q84』もまた隠喩が理解できる者とそうでない者を区別する。読者はそのハードルを乗り越えることによって、達成感が得られる。『1Q84』は再読することによって理解が進み、それにつれて喜びが深まる小説なのだ。また自由なスペースというのは、つまり読者が物を考えたり感じたりすることを許す、奨励するということだ。

このハードルというものを象徴している場面がある。青豆が『空気さなぎ』を読む箇所だ。

それは青豆にとっては、人の生死を賭けたきわめて実際的な物語なのだ。マニュアル・ブックなのだ。彼女はそこから必要な知識とノウハウを得なくてはならない。彼女が紛れ込んでしまった世界の意味を少しでも詳しく、具体的に読み取らなくてはならない。

(村上春樹著『1Q84』)

あとに青豆が高速道路の非常階段を逆向きに上がっていくことを思いつく場面があるが、そこには発想の理由が書かれていない。これもまた一種の「省略」である。じつは彼女は『空気さなぎ』を読むことによってそのようなアイデアを思いついたのだ。

また最後にタクシーの運転手が語った挿話は作品全体の要約になっているのだが、そのことの説明はなされない。青豆が即座に「信じられる」と返したのは、ルールを学び把握していたからだ。無論そのことの説明も省かれている。

ところでここまで「省略」という言葉を使ってきたが、この言葉ははたして適切と言えるだろうか。村上春樹は言葉を捨てているのだろうか。小説という文字の行列から不要なものを選別して捨てて、闇に葬っているのだろうか。いや、そうではないだろう。彼はむしろ小説という世界を、沈黙の領域と言葉の領域の二つから構成されるものとして、新たに造り直したのだ。彼は固有の隠喩を使う際、倫理的な評価のみを沈黙の領域に「配置」しているのである。つまり、それはどこまでも有的な無なのだ。彼は言葉を捨てていない。より効果的で特殊な置き方をしているに過ぎないのである。

まとめ

『1Q84』固有の隠喩はあらゆるところに顔を出し、以上の機能によって読者に効果を及ぼす。読者自身の眠った意欲へと働きかけるのである。それは必ずしも良いこととは言い切れず、危険なことでもあるから、ハードルが設定されているのかもしれない。

発想のみなもとは何か

この隠喩は村上春樹のオリジナルな表現技法だ。今まで作家が読んできた、そして書いてきたすべてが混ざり合った混沌とした思考の海から誕生したものであって、何か一つに元ネタを絞るのは難しいだろう。

しかしそれでも敢えて一つ影響元を挙げるとするならば、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』がそれに当たると思われる。

riktoh.hatenablog.com

根拠としては、上記の記事で解説をおこなっているように、一つの型を変形させて随所に登場させていること。そしてその変形には必ず倫理的な評価が帯同していることが挙げられる。『ロング・グッドバイ』も『1Q84』も、一つの型を変形させながら多様な事物を評価していき、その結論として、最後に主人公が決断をくだしている。彼らは「漸進的」に進んでいく。闇である地形の中を一歩ずつ確かめながら前へと進み、時には横道や行き止まりに入りつつ、マッピングを行う。そうして最後には目的地にたどり着く。このような足取りも『1Q84』の隠喩の性格と共通しているように思われる。