岩明均における母というテーマ

この記事では岩明均の作品に見られる母親というテーマを確認する。

二つの大きなエピソード

まずは『寄生獣』のプロットを見ていく。この物語の中で一番大きな位置を占めている事件は、母親の身体を乗っ取った寄生生物に主人公が心臓を破られて、殺されかけることである。この事件をきっかけに彼は文字通り生まれ変わる。身体能力も強化され、寄生生物を始末したあとは容姿も変わる。この事件に対応する形で置かれているのが、終盤の田村玲子の死である。この対となる二つのエピソードが本作の要であり、事実もっとも作品の力が表れている箇所だ。

それ以降の話というのは、言わば清算にすぎない。異物として出現し語られた寄生生物は、結局のところ人類によって駆逐される。集団としての人間、すなわち“社会”を代表するのが自衛隊であり、彼らは市役所を囲んでほぼすべての寄生生物を倒す。一方“個”を代表するのが主人公・泉新一だ。彼は右手の寄生生物を失くした状態、つまり完全に人間の状態で最強の寄生生物である後藤と戦い、勝利を収める。そして作品の終わりでは生命がどうとか生き物としての尊厳がどうとかいう話が出てきて、何やら哲学的なことが語られたりするが、実のところこの部分は割りとどうでもいい。あまり面白くない。それよりもやはり前述の二つのエピソード、特に後者の田村玲子の話の方が圧倒的に面白い。そこで我々は物語を通じてしか受け取ることのできない、特別な体験をする。言葉で表現をするのが難しい、ある種の心の動きを、我々はみずからの内に感じることになる。

母親の自己犠牲

主人公の母親はかつて彼をかばい、右手にやけどを負った。その跡はいまだにくっきりと残っており、主人公の罪悪感の象徴として存在し続けている。いっぽうで彼女は寄生生物という悪を身にまとって、子供の生命を奪う役割も果たしている。その後主人公は母親と戦い――正確には母親の身体を乗っ取った寄生生物と戦い――殺すことになる。

したがって主人公にとって母親とは、自己を犠牲にして子供を守る母性愛の体現者であると同時に、我が子を殺そうとする憎むべき存在であるという、矛盾した性質を持ち合わせていることになる。無論人間には親を愛する気持ちと憎む気持ちの両方が存在しているのが普通であるが、泉新一のようにあまりにも極端な矛盾を背負うのは、やはり苦しいものがある。

そのような複雑なもつれを解消するのが田村玲子である。

田村玲子は寄生生物の身でありながら、まるで人間のように、自分の子供をかばって殺される。その結果、彼女は主人公の内部でせめぎあう二つの課題を解決することに成功する。

  • 一児の母である田村玲子が人間の手によって殺されるため、前述の「母親を憎む」主人公の気持ちは解消される。寄生生物は人類にとっての敵であるから、主人公はそこに倫理的な葛藤を抱かずに済む。
  • 田村玲子は圧倒的な暴力を前にしても自分の身を呈して子供を守るため、それを目撃した主人公の胸の内では、「自己を犠牲にして子供をかばう母親」という理想像がすんなりと納得され、葛藤が解消される。

このような奇跡的な二重性は、偽物が本物に近づくという、いわば演技やフィクションの物語に通じる構造によって支えられていると言えるだろう。

人間ではない寄生生物がゼロベースから感情を学び、母性愛の萌芽を知ってそれを実践した。“つくりもの”の土台が、かえってその上に築かれたものの純粋性を担保しているのだ。これは我々が小説や漫画をつくりものと知りながら読んで、本気で涙を流すことと似た構造になっている。黙って攻撃に耐え、子供を守り、死を受け容れる女性の姿を前にして、ようやく主人公は自分の中にあった怒りや憎しみの感情を赦すことができた。

影の成長

田村玲子は初め教師として主人公の前に姿をあらわす、寄生生物のひとりである。彼女は本作の第二の主人公と言ってもよいぐらい重要な位置を占めている。物語は進行するにつれて、主人公同様に彼女の「成長」を語っていくことになる。

田村玲子はさまざまな実験を行い、人間と寄生生物について研究をおこなう。セックスをして妊娠し、子供を産み、みずから育てる。一つの市を寄生生物のコロニーにしようとする政治家と寄生生物の集団に協力し、後藤という名の強力な寄生生物を作り出す。

次第に彼女は人間の心に興味を持ち、演技ではなく、自然に笑うことも覚える。そして死の間際に母性愛に近い何かを見せる。

河合隼雄はユング心理学の"影"という概念について解説している。次は、日本軍の捕虜収容所を体験した英国人の小説『影さす牢格子』を解説した文章である。

 一般の西洋人にとって「黄色い獣」としか思われないハラに対して、ロレンスは対話を試みる。しかし、日本人のハラが主導権を握っていた捕虜収容所における「対話」は、主として身体的なことによって行われた。つまり、そのほとんどはハラのロレンスに対する殴打であり、拷問である。あるいは捕虜の中でロレンスのみが認めたハラの瞳の輝きである。これらの非言語的な行為を、ロレンスはひとつのコミュニケーションとして受けとめ、その中に深い意味を読みとることができた。
(中略)
 終戦を境にして彼らの立場は一変する。死刑囚となったハラと、ロレンスとのあいだのコミュニケーションは、もっぱら言語的になされる。ここで、死を恐れないハラが「なぜ?」と問いかけるのは意義が深い。ハラがまったく日本人的な人生観によって行動するならば、すべては「仕方がない」こととして受け容れるべきではなかったか。死刑の宣告をチャンピオンのように受けとめた彼は、死の間際になって、「なぜ」ということを問題にしているが、それこそは西洋人が発する問いではなかっただろうか。正しいとか正しくないとかは問題でなく、負けたのだから仕方がないと彼は考えなかった。正しいことをした自分がなぜ罪人として死なねばならないのか、と彼は合理的な問いを発する。そして、それに対するロレンスの答えは、まったく日本的なものであった。
 ここに影との対話の特性がみごとに描きだされている。影と真剣に対話するとき、われわれは影の世界へ半歩踏みこんでゆかねばならない。それは自分と関係のない悪の世界ではなく、自分もそれを持っていることを認めばならない世界であり、それはそれなりの輝きをさえ蔵している。

(河合隼雄『影の現象学』)

田村玲子は人間の"影"である。彼女が撃たれて死ぬ場面は、見事に上記の引用の特性を満たしている。つまり『寄生獣』という作品において、前半では寄生生物たちの殺人と人食いが残酷に描かれて強調されているのだが、いま問題にしている場面ではむしろ人間たちの方がその残酷さを発揮している。多数でもって一方的に一つの個体を武器で攻撃しているからである。そして寄生生物である田村玲子は、むしろ自分の子供を護るという「人間性」を発揮している。つまり両者はそれぞれの立ち位置のまま、お互いの性質を部分的に交換していると言っていい。彼らはたしかに「影の世界へ半歩踏みこんで」いる。

『寄生獣』という作品の偉大さは、このような影の存在を徹底的に滅ぼしたりせず、将来どうなるのか興味深く見守って、その成長を確認したところにある。つまり懐が深いと言ってよいと思う。よくよく反省してみると、この作品には老人が出てきて物を言う場面がけっこう多い。この点もそのような「懐の深さ」と関連があるのではないかと考えると、得心がいく。

例をいくつか挙げておくと、通りがかりのおじいさんがヒロインの里美に向かって、「だめだって! 若い嬢ちゃんがでっけ声で「くっそ~~」なんて言っちゃあ!」と窘める箇所がある。また、市役所から移動させられる老人たちが、自衛隊の装備を見て「犯人が可哀想だ」と言う場面がある。もちろん後藤との戦いの前に主人公に知恵を授ける美津代という老婆の存在は、言うまでもなく非常に重要である。

怒れる神としての母

"母"というテーマは『ヒストリエ』にも引き継がれており、主要な柱となっている。主人公・エウメネスの実の母親は彼をかばって剣を持って戦い、敵を斬りまくったうえで殺される。それも田村玲子のように、大勢の手によって嬲り殺しにされる。自分に代わって敵と戦い、災いを引き受けて死んでくれるもの。それがエウメネスにとっての母である。

アレクサンドロス王子はエウメネスの対となる存在であり、彼にも対応する"母"のエピソードがある。幼い頃彼は母親の寝室に侵入し、男と交合している姿を目撃する。男はアレクサンドロスを殺そうとするのだが、母親オリュンピアスは剣でもってその者を殺し、首を切断して床に転がす。王子が王位を継ぐことを熱望しているオリュンピアスは、その場で彼にまじないのようなものをかける。まじないによって王子は二重人格者になってしまう。

この二つのエピソードには共通している点と対照的な点がある。それらをこまかく検討していこう。

まず、両方とも"母"が外敵を殺している。それも子供を守るために剣を振るっている。その点は同じなのだが、エウメネスの母が曇りのない愛によって自らを完全に犠牲に捧げるのに対して、アレクサンドロスの場合は逆で、むしろオリュンピアスは子供を自分の思い通りに動かそうとしている。エウメネスの母は命を失うのだが、アレクサンドロスの母は元気に生きている。

二人の少年はこのエピソードを通して特殊な罪悪感を植え付けられることになる。エウメネスには自分のために母を死なせてしまったという罪悪感が、まず基礎としてある。さらに彼は、自らを守るために涙を流さないような心理状態に自分自身を持っていったのだが、その結果育ての父となるヒエロニュモスの歓心を買うことになり、命が助かるどころか都市カルディアで贅沢な暮らしまで送ることになる。エウメネスは母の気高い行為からずいぶん離れた地点まで移動してしまった訳である。そのような複雑な心理の経緯が、彼にはある。

アレクサンドロスの方は「自分の本当の父親は誰なのか」という疑問を植え付けられることになった。一匹の蛇が彼の代わりに、疑問を表象する男の生首を飲み込んでくれた訳だが、果たして蛇はそれを無事に“消化”できたであろうか。それはむしろ見えない所に移動し、深い場所でアレクサンドロスの精神をむしばんではいないだろうか。

"怒り"という点も見逃せない。どちらのエピソードでも母親は怒り狂っている。彼女たちは嵐のように思うままに暴力を振るっており、圧倒的な力で外敵をなぎ倒している。これは『寄生獣』では見られなかった要素だ。

誰かが自分の代わりに、心の底から、本気で怒ってくれる。

そのような心象風景を強烈に刷り込まれたエウメネスとアレクサンドロスは、しかし自分自身の怒りを存分に発揮することができない。エウメネスは奴隷として生家を離れる際に「よくもだましてくれたな」と雄叫びをあげるのだが、現在の最新刊である10巻まででは、どうやらそれが唯一の率直な怒りの表現のようだ。他の怒りのようなものは、どれも叩きつけるべき相手に率直にぶつけられてはいない。その唯一の怒りの声でさえ、後に彼がカルディアに戻ってきた時には、罪悪感を告白するという形で後悔されているのである。

留保のない暴力的なもの。それも自分自身が発祥であるような“勝手な”怒り、"思うがまま"の怒りというものを、彼らは掴めないのである。アレクサンドロスの場合その怒りは、みずからを呑み込まんばかりに巨大な母親から、逃げようとする焦燥に他ならない。したがって必然、それは自己破滅的なものになる。もっともそれは物語の妙というか、歴史に名を残す神憑り的な人物であるから、周りの人間が代わりにその破滅をかぶってくれている。学友のハルパロスが大怪我を負うエピソードにはそのような意味がある。よく読むと、王子が馬で岸を飛び越えたのは、前述の母のエピソードと関連性があると記されているのが分かる。

最後に、夢という点を挙げたい。両者のエピソードは共に、夢そのものであったり、あるいは夢のような雰囲気を持っている。霧がかかった風景のように、明確でない点がある。日常生活のなかで、時に断片的な何かが思い出されることもある。そのあやふやさが記憶に神話的なスケールを付与し、彼らの母に、神にも等しい圧倒的な偉大さを身につけさせることとなった。まったく、この母親たちは巨人のように力強いのだ。

 二者の交流

今後、物語はどのような方向に進んでいくのだろうか。アレクサンドロスとエウメネスの交流には、とても興味が惹かれる。なお怒りというテーマは、個人の自由というテーマと結びつきがあるように思われる。それはまた機会があれば書きたい。