コスタリカ307

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卵を温めることについて書いた小説

 卵を温めるための自律的なルール

村上春樹は『1Q84』において、一定の型をもった表現をくりかえし書いた。その型とは、一つの容器が与えられた時に人はその中身に対してどのように振る舞うべきか、ということに焦点を合わせたものだ。

はじめ容器の中身は空であるか、あるいは傷ついていたり未熟なものだったりする。その状態から出発して、我々は丁寧に外側を取り巻くようなかたちで保護膜を作りあげる。それは時に強固な壁となって侵入者から「中身」を守り、また時に適切な栄養と刺激を「中身」に送ることで成長を促進する。中身は何であっても構わない。それは意欲かもしれないし、愛情かもしれないし、赤ん坊かもしれない。きっと何か「正しい」ものだ。

このことを置き換えて言うならば、卵を温めることについて語っている、と言えるだろう。その表現には作者の倫理観が反映されている。

そしてそれを達成するためには、いくつかのルールを守らなければならない。我々が我々の意志で、自分自身に課すルールだ。

そのような規律の一つに、タイミングがある。内側にあるものが外側に出て行く時には適切な時期を待たなければならない。人が紅茶を淹れるときには、ポットにお湯を注いだあとに「蓋をしてしかるべき時間が経過する」のを待つべきであり、小説を書いているならば、「最後まで書き上げて、しっかり書き直してからじゃないと、原稿を人に見せないことにしている」のが正しい姿勢であり、首都高速道路の非常階段を逆に上れば1Q84の世界から元の世界に帰還できるという可能性に気がつき、「今すぐここから駆けだして三軒茶屋まで行き、その可能性を試したく」なったとしても、青豆はぐっとこらえなければならない。牛河や偽集金人が彼女に害をなすかもしれないからである。時が満ちて中身が成長を遂げたら、あるいは外側にいる支援者と連絡を取りあって自分を助けてくれると分かった時にだけ、彼・彼女は外へと出るべきなのだ。

もう一つのルールは、危害を加えようとする者を拒否しなければならない、容器の中に入れてはならないということだ。偽集金人がどれだけ執拗にドアを叩き独特の口上で扉を開けるように要求してきても、青豆は開けてはならない。壁を固くし、しっかりと戸締まりをしなければならない。もしも隙間があれば悪意はしずかに忍び寄ってくるだろう。だから天吾はテレビを置かない。テレビは電波が侵入してくる口となるからだ。また青豆は「セックスをするときには、相手がコンドームをつけていることを必ず確認」している。子宮という部屋は、愛する人とのあいだの子供のために取っておかれなければならないからだ。

だが守るだけでは「中身」は成長しない。まだ曖昧で未熟な、空気のように不確かなものが輪郭を得るためには、十分な栄養と刺激とが与えられるべきだ。

栄養とは、この場合は正しい「生活」を指す。優れた音楽を聞き、運動とセックスをし、食生活や服装に気を遣うようなことだ。電子レンジを置くのは避けるべきだろう。料理とは自身の手を動かして作るものだからだ。またカップラーメンのように手間暇をかけずに作れてしまうものは、遠ざけるのが正しい。その意味で、天吾と牛河の生活は対極にあると言える。特に牛河が監視をおこなっている間の生活はまさしく極北だ。彼が殺人者の侵入を許してしまうのは、その結果なのである。

刺激の方について述べると、これは主に質問や疑問を指す。タマルは青豆に対して、先生やふかえりは天吾に対して何度も問いかけをおこなう。それはどちらかというと正解が決まっていないものが多い。いずれにせよ重要なのは、彼らはあくまでも自分の頭で物を考えて行動しなければならないということだ。

「それで、川奈さんが何を解き放ったかというご質問でしたね?」
 そうだと天吾は言った。
「私はなんとなく思うんですがね、川奈さん、それは『はい、こういうもんですよ』って他人が簡単に解答を差し出せるものではないんじゃないでしょうか。それは川奈さん自身が自分で出かけていって、額に汗して発見しなくちゃならんことじゃないでしょうか。」

村上春樹著『1Q84』)

そのような問いかけが善であるとすれば、悪とは、正解を他人が押し付けるような類いの問いだ。「2+2はいくつか?」の答えを他人に強いてはならない。それがここで主張されている道徳なのだ。

オブライエンは手の甲をウィンストンの方に向けながら、左手を上げてみせた。親指を折り、他の指四本は伸ばしている。
「わたしは指を何本出しているかね、ウィンストン?」
「四本です」
「もし党が四本ではなく五本だと言ったとしたら――さて何本だ?」
「四本」
 その答えの最後には激痛が走った。針の目盛りは強度五十まで急上昇していた。ウィンストンの全身から汗が噴き出ている。肺に穴をあける勢いで空気が吸い込まれ、深い呻き声となって吐き出される。どれほど歯をくいしばっても、呻き声を止めることはできなかった。

ジョージ・オーウェル著 高橋和久訳『1984年』)

箱の中身はあくまでも自分自身で作り出し、育て上げなければならない。他人から与えられるのは正しい在り方ではない。次の引用中の二つ目の台詞は青豆のものなのだが、この何気ない一言は、実は相手に向けられた非難になっている。しかし坊主頭はそれに気づけない。

「多くの人が集まるわけですから、ある程度の規律はもちろん必要になります。しかし固定された形式に目が向かいすぎると、本来の目的が見失われかねません。戒律や教義はあくまでも便宜的なものです。大事なのは枠ではなく、その中にあるものです」
「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」
「そうです。」

青豆はむしろ正反対の意見を持っている。面白いことに、彼女も中身を重視する点では一致している。ただし同意できない点が二つあって、一つは中身は自分で作るものであり、他人から与えられるべきではないということ。そしてもうひとつは、人はまず外側を念入りに作り上げることに全力をあげるべきなのだ、という点だ。

肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺らぎなき信念だった。

ここには「未来に現れるであろう中身は、今は正体が分からない物として存在している」という考え方が前提としてある。自分はやがて深い所から力を汲みだして、それを生み出すだろう。だからこそまずは中身を守る囲いを築くことに集中するべきなのだ。それには苦痛と自律が求められる。しかし差し出した分だけ、確かな手応えがある。

このような構造が理解できると、青豆がリーダーを暗殺した後にタマルが青豆に電話で語ったエピソードの意味も、おのずと了解されてくる。タマルはサヴァン症候群の男の子を守った。その黒人との混血である男の子は、木からネズミを彫り出した。この話には容器の入れ子構造が認められる。そのもっとも外側にいるのがタマルであり、内側に男の子がいる訳だが、さらにその内側にネズミが存在していると言える。しかしネズミは、彫り出される前は存在しないかのように思われるものだ。男の子は、まさに無から有を作り出していた。タマルは、そのような行為――子供を産む――をしようとしている青豆を、守るということを語っているのである。この時点ではタマルは青豆の妊娠を知らないのだから、不思議といえば不思議だが、それが暗喩のもつ力なのだろう。暗喩は、ときに予言的な作用を持つ。

しかし守護者こそが害をなす、という場合もありうる。守護者は守る対象を安全な箱に入れて愛情を注いでいるつもりでいるが、実はその箱こそが牢獄であり、相手を苦しめることもある。

「タカシマはたのしかった」とふかえりは言った。
 先生は微笑んだ。「小さな子供にとってはきっと楽しいところなんだろう。でも成長してある年齢になり、自我が生まれてくると、多くの子供たちにとってタカシマでの生活は生き地獄に近いものになってくる。自分の頭でものを考えようとする自然な欲求が、上からの力で押しつぶされていくわけだからな。」

老婦人は青豆を守るために、彼女の顔を奪いとろうとしている。しかしそうなってしまえば天吾には会えなくなるだろうと、青豆は考えている。青豆は老婦人が用意した新築マンションの部屋という容器にすっぽりと包まれ、守られている訳だが、同時にそこは心からの願いが消される瞬間へのカウントダウンを過ごす場所でもあるのだ。小説の前半に老婦人が温室で特別な蝶を飼っている場面が描かれるが、よく反省してみれば、この話は単に母性を感じさせるだけでない。蝶の死までが語られている。彼女は対象を生かして育てるという面だけでなく、死に至らしめるという面も持ち合わせているようだ。
 青豆が金魚鉢ではなくゴムの木を買うのは、老婦人の影響から逃れようとする気持ちを暗示するものなのだろう。すっぽりと金魚を包み込んで閉じ込めるものではなく、植木鉢から外に半分顔を出している植物の方が、その時の青豆には好ましいものとして目に映った。

したがって我々は、適切な時期に自分を守ってくれる者を拒否して、その暖かな部屋を出ていかなければならない。そして出て行く時には、共に生きていくパートナーが必要になる。物語はその二人の出会いのところで終わりを迎えている。そのようにして個人が自らの意欲を育てるということの過程を綿密に描いているのが、『1Q84』という小説なのだろう。

 固有の暗喩表現がなす効果

さて冒頭で述べたことを繰り返すが、この小説のもっとも大事なポイントは、非常に多種多様な方法によって一つのことを暗示する表現がなされている、ということだ。内容においても文章の長さにおいてもそのバリエーションはとても豊かである。

たとえば短いものは単に紅茶を温める二行だったりするし、ちょろっと纏足について言及した部分だったりする。

天吾は沸騰した湯をポットに注いだ。蓋をしてしかるべき時間が経過するのを待った。

     

「テンソク」とふかえりは尋ねた。
「昔の中国で、幼い女の子の足を小さな靴に無理矢理はめて、大きくならないようにした」と天吾は説明した。

猫が無心に自分のふくらんだ腹をなめている箇所や、おそらくその後に生まれた子猫の描写も、非常にさりげなく置かれている。青豆が便秘を嫌うのも、容器の内外という構造を感じさせるが、この箇所もやはり短い。

もう少し長いものの例を次に挙げよう。

 赤いスズキ・アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの? どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。

引用しにくい長さを持ったものの例としては、老婦人がセーフハウスに傷ついた女性たちを匿っているところが挙げられる。セーフハウスはいくつかの章にまたがって登場している。青豆が手に入れる銃も同様に、かなり長い期間にわたって登場する。銃という容器は、しかし最後まで弾丸を放たない。それはこの小説において、倫理の限界を越えてしまう行為なのだろう。これから子供を産もうとしている女性にとって、銃を撃つというのは、道を踏み外すレベルの暴力なのだ。

それでは、なぜ作者はこのような暗示的な書き方をしたのだろう? どうしてもっと直接的な書き方をしなかったのだろうか?

この問いに対する答えを、我々はもうすでに持っていると言ってよいと思う。

個々の読者の前にある人生は、個々人によって異なる。それぞれの人生には、それぞれのふさわしい答えがあってしかるべきだ。我々は、自分自身の目で物を見て、自分自身の頭で物を考えるべきだ。そうしてかつて心の底に封じ込めてしまった意欲をもう一度掘り起こし、自分の人生に取り組んでいかなければならない。『1Q84』という小説は、そのような力を目覚めさせるための教本なのである。だから敢えて暗喩というハードルが設定されているのだ。この小説の随所に登場する暗喩は我々読者にとっても、成長を促すための「刺激」に相当するものだと受け取れる。

それは青豆にとっては、人の生死を賭けたきわめて実際的な物語なのだ。マニュアル・ブックなのだ。彼女はそこから必要な知識とノウハウを得なくてはならない。彼女が紛れ込んでしまった世界の意味を少しでも詳しく、具体的に読み取らなくてはならない。

マルセル・プルーストという作家は、マルセル・プルースト固有の物の見方について語った。しかし村上春樹はそれだけでは飽き足りない。むしろ物の見方や、あるいは意欲といったものを、どのように育てればいいのかについて語りたい。マルセル・プルースト固有の物の見方は、マルセル・プルーストという特定の人物一人にしかあてはまらないからだ。そこに普遍性はない。

とすれば、これらの要素、私たちが自分自身のためにとっておかなければならない現実的ないっさいの残留物、友だち同士、師弟同士、恋人同士の会話でも伝えられないもの、各人が感じたことを質的に区別し、しかも各人が言葉の入口で放棄せざるをえないこの言うに言われぬもの――というのは、万人共通のなんの興味もない外面的なところに自己を限定せぬかぎり、言葉による他人との意思疎通はありえないからだ――これを芸術は、たとえばヴァントゥイユやエルスチールの芸術は、個人と呼ばれる世界――芸術なしでは絶対に知りえないこの世界――の内的構造をスペクトルの色として外部に示すことによって出現させるのだろうか? たとえ私たちが翼を持ち、べつな呼吸器官を備え、広大な宇宙空間を横切れるようになっても、なんの役にも立ちはすまい。なぜならたとえ私たちが火星や金星に行ったにしても、もし同じ感覚を維持していれば、その感覚は、私たちがそこで見るいっさいのものに地球上の物と同じ外観を与えてしまうだろうから。ただ一つの本当の旅行、若返りの泉に浴する唯一の方法、それは新たな風景を求めに行くことではなく、別な目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙を眺めること、彼ら各人の眺める百の世界、彼ら自身である百の世界を眺めることだろう。そして私たちは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。私たちは文字どおり星から星へと飛びまわるのだ。

マルセル・プルースト著 鈴木道彦訳『失われた時を求めて』 囚われの女II)

なるほど、それはとても素晴らしい。けれども、ヴァントゥイユでない人間はどうなるのだろうか。エルスチールやベルゴットでない人間は、マルセル・プルーストでない人間はどうなるのだろうか。彼らは「言葉の入口で放棄せざるをえない」のだろうか。私は一生私自身の感性を作り上げることが出来ないのだろうか。

ところで、この小説で起こる不思議な出来事の一つに、月が二つ見えるということがある。これは何を意味しているのだろう。作中でも言及されている通りその意味は多義的であるため、一つに定まるものではない。たとえば青豆の左右の耳の大きさの違いを暗示しているのかもしれないし、一般的な母と娘を意味しているのかもしれない。

しかし二つの月が『1Q84』固有の比喩表現を表したものだということは、確実に言えると思う。

それは「喩えるもの」と「喩えられるもの」の内、「喩えられるもの」が文中に明示されておらず、ただ「喩えるもの」だけが無造作にポンと置かれているような形の比喩のことである。この場合「喩えるもの」とは、前述の纏足についての言及や、金魚鉢ではなくゴムの木を買ったという選択のエピソードなどが相当する。
 そこには「沈黙とともに」倫理的な評価が付与されている。たとえば纏足の例は、やってはいけないこととして暗黙のうちに評価されている。そして金魚鉢ではなくゴムの木を買ったことは、良い選択である。我々は注意深くその判定を読み取っていかなければならない。なぜなら見落としやすいからである。ゴムの木の話はタマルによって「良い選択」と明言されているが、すでに述べた「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」といった青豆の非難はまったくさりげなく為されているので、見落としやすい。
 そして「喩えられるもの」とは「自分の中にある固有の願いを時間をかけて育てていく行為」を指すのだが、これではすこし分かりにくいので言い換えよう。願いの具体的な内容は人によって異なる。それはメタファーを目撃した本人が、無意識の中で真摯に望んでいる何物かのことだ。それはかつて深く傷ついた経験とともに諦めてしまった願いであるから、肝心の本人には正体が自覚できないものとして存在している。知覚することは痛みやリスクをともなうので意識はどうしても避けてしまう。そのような願いに再び息を吹き込むということ。それも、じっくりと少しずつ熱を送り、温めるということ。そのような「行為」が、この小説では喩えられているのである。この運動をもっと簡単に置き換えるなら、「卵を温めること」だと言えるだろう。

だから月が二つに見えるという現象は、おそらく人間の秘められた願いがふたたび呼吸を始めた時に出現する。「自分だけに見えて他の人には見えない」というのは、無意味な設定ではない。あくまでも自分の中にあるもの、他人とは共有できない、個人の願いが原因で事物が二重に見えているのだ。小説中の登場人物は何か外部の力によって物を二重に見せられているような印象を受けているが、実のところはそうではないのだ。真実は、自分の側に課題があるということなのだ。

そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。

このようにとらえると、月が二つ見えることを軽々しく他人に話すべきでないと、登場人物が自然に了解しているのにも納得が行く。それを他人に話してしまうような行為は、『象の消滅』で言えば「僕」が「彼女」に象のことをうっかり話してしまうことと似ていると言えるだろう。「中身」を外に出すタイミングを誤っているのだ。

我々読者は『1Q84』をくりかえし読むことによって、独特の暗喩を感じ取り、読み取ることができるようになっていく。次の引用中の「見えなかったものが見えるようになる」という言葉は、おそらくそのことを示しているのである。

天吾は肯いた。「そうですね。あの仕事をやったおかげで、小説についていくつかの大事なことを学べた気がします。これまで見えなかったものが見えるようにもなってきた」

1Q84』を読む時に我々が覚える感動は、「美しさ」に対するそれではない。同じ体験を他の書から得ることは決して、ない。特別な種類の力がこの身に湧いてくる、そうとしか言いようがないものだ。それは今ここにいる世界とは異なる世界からやって来た物、もっと深いところに由来する何ものかだ。それは一体何だろう? 小説の作者が与えてくれたものなのだろうか?

私は違うと思う。

それは、我々がもともと持っていた力なのだ。自らの魂の深いところから自らの手で汲み出してきたものなのである。そこに作家は関与しない。彼はただ道を教えてくれるだけだ。実際に水源まで行き水を汲んでくるのは、我々の側に、それも「個人」に課されている仕事なのだ。