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コスタリカ307

よいブログ。

指の多義性

本稿では『多崎つくる』の異なる三つの項目について書いた。これまでの記事はこちら。

 二重の自己

『多崎つくる』の作中では、自己との解離、分裂、あるいは二重性という現象について繰り返し言及がなされている。

前回の記事で語ったように、主人公は自分の内奥にある意欲や願望に気付いていない。そのことを端的に表しているのが序盤の次の文章である。

眠るべき時間が来ると、ウィスキーをまるで薬のように、小さなグラスに一杯だけ飲んだ。ありがたいことにアルコールに強くなかったせいで、少量のウィスキーが彼を簡単に眠りの世界に運んでくれた。当時の彼は夢ひとつ見なかった。もし見たとしても、それらは浮かぶ端から、手がかりのないつるりとした意識の斜面を虚無の領域に向けて滑り落ちていった。

つくるはつくる自身とつくるの夢に分裂しているのだが、彼はそのことを自覚できていない。または自覚しようという態度が欠けている。そのようにもう一つの自己を遊離させておくことが、『多崎つくる』や『1Q84』における“論理”においては、災いを引き起こすきっかけであるとされている。

文庫版のP120で、沙羅はつくるに「あなたに抱かれているとき、あなたはどこかよそにいるみたいに私には感じられた。」と告げる。ここでは上記の解離が問題になっている。それを解消しない限り、自分はあなたと一緒にいられないと沙羅は主張しているのだ。

また漢字の二重性を通して、自己の二重性が指摘されている。漢字には視覚(字面)と聴覚(読み)の二つの面があり、また一つの漢字に複数の音が割り当てられることが多い。『1Q84』ではふかえりの障害を通して文章の聴覚の面が強調されているので、日本語の持っているこの分離の性格について、作家はかなり意識的であると分かる。

すなわち「作」という名前を、母親や姉は「さくちゃん」と呼ぶ。「つくる」という読み方と異なる読み方が並列して存在している訳で、そこでは自己のアイデンティティが二重になっている。「作」が本名であるにも関わらずつくる本人は自分の名前を積極的にひらがなで書いているので、ここでは音の二重性だけでなく、視覚(字面)と聴覚(読み)の二重性についても言及されていると理解できる。

なお灰田との会話で“駅”について同じ音を持つ別の漢字(液体の“液”)が取り上げられている。ちなみに三島由紀夫の本名は「公威(きみたけ)」だが、「コーイ」と呼ばれることもあったらしい。

 指の多義性

1Q84』における月は、『多崎つくる』ではおそらく“指”が相当するのだろう。

  • アオによって、5人組は5本指に喩えられている。
  • ピアノの鍵盤を叩く「十本の指」。終盤の白黒の夢において出て来る。
  • 六本の指を持つ黒衣の女性。終盤の白黒の夢において出て来る。
  • フランツ・リスト。技巧があまりにも優れていたため6本指を持つと評された。
  • つくるの背中を「匿名の指先」がタッチし、沙羅に特別な好感を持たせる。
  • エリは実物の指をつくるの背中に回す。「彼の背中に回された彼女の指は、どこまでも強く現実的だった。」
  • 駅で多指症の話と、切断された指のエピソードを聞く。

六本目の指は、夢や性欲、あるいはアカの言う「本来の自分」とイメージ的な繋がりがある。またそれとは別に、捨てられた過去、目を背けていた古い傷、歴史上の悲惨な出来事とも繋がりがある。そしてこの二つは、密接な関係性を持っているのである。

作品全体を振り返ると“指”の意味するところは多様であり、まとまりがない。つまり指そのものには、実は意味がない。中身がないのだ。それよりも重要なのは、指の形象がある場所から別の場所へと作家を連れて行ってくれることだ。指は、架け橋になっている。作家は指を用いた表現を行うことで、物語を推し進めたり、あるシーンで必要とされる表現を作り出すことができる。それはハブ空港のようなものだと言ってもいいかもしれない。あるいは乗り物だとも捉えられる。

なお、このことは『1Q84』の二つの月においても同様である。二つの月そのものには意味がなく、多義性を表現できる道具として、あるいは色んな物を詰めることができる箱としての機能性に意義がある。二つの月は直接的には隠喩として働き、青豆と天吾という二人の主人公を表したり、青豆のアンバランスな乳房を示唆したり、親と子供を表現したり、隠喩という現象を暗示したりする。また間接的には月と潮の満干の関係性を通じて、海を軸にした直喩という形をとって、作品の至る所に姿をあらわす。月という場所は至る所に道を伸ばしており、作家はそこからさまざまな場所に顔を出すことが出来る訳だ。

この事が理解できると、“駅”が“指”とイメージ的な繋がりがあるということがおのずと了解されてくるだろう。作家の視点から見ると、文章を書くという行為において、指は出発点の働きをなしてくれている。そこから移動して別の場所に行く、という意味において、指は作家にとって非常に“駅”的なのである。

そしてこの作品において主張されていることの一つは、指の比喩だけではなく、『多崎つくる』や『1Q84』といった作品そのものもまた読者にとっては駅であるということだ。すなわち村上春樹は中身が空であるものを人々に提供する。だがその“空”性には、空でありながらも積極的な働きが、呼びかけが認められる。人々はそこで身を休めるかもしれないし、自己の意欲に目覚めて育て直すきっかけを掴むかもしれない。終盤でエリが言っているのはそのような主張であり、作品そのものについて言及したメタ的なメッセージとなっている。

「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」

次の主人公の台詞も同じ事を伝えている。

「単純なことだよ。もし駅がなければ、電車はそこに停まれない。僕がやらなくちゃならないのは、まずその駅を頭に思い浮かべ、具体的な色と形をそこに与えていくことだ。それが最初に来る。何か不備があったとしても、あとで直していけばいい。そして僕はそういう作業に慣れている」
「あなたは優れたエンジニアだから」
「そうありたいと思っている」

最初に来る」というのがポイントだ。村上春樹はまず自分の心の泉の底から、何かが浮かび上がってくるのを待つ。今回は、たまたまそれが指だった。彼はそれをただ受け取る。目的なしに受け取る。そこに意味を見出そうとすることもないし、利用しようという思いもない。疑問なしに受け取るのである。その後に、少しずつ、さまざまな方向からそれに触ってみる。形を確かめていく。そして作家はそれを活用できる場面が来たら、積極的に使っていく。比喩として。時には直喩として、隠喩として。また物語中のエピソードのキーとして。それがどのような意味を為すのか、意義があるのかについては、考えない。電車に乗り、また降りてゆく人達が、どこから来てどこへ行くのかは、つくるの関知するところではない。それはその人達が決定し責任を担うべき問題なのであって、つくるには何も出来ないし、またするべきではないのだ。作家も同じことだ。彼は優れた文学を作り上げる。しかし、それはあくまでも読む人にとっては道具や機能、あるいは通過点としての場所にすぎない。村上春樹は、そのようなものを作ることに自分は全身全霊を傾ける、と言っているのである。

 記憶の引き継ぎ

記憶の引き継ぎというテーマは『海辺のカフカ』で中心的に取り上げられたテーマだが、『多崎つくる』においても色んな箇所に見受けられる。

たとえば灰田が話したピアニストの箱のエピソードを、つくるは長い間覚えている。彼はまた父親の形見として時計を譲り受け、それを使い続ける。姉が以前使っていた部屋に住み、そこで灰田の残していったレコードを用いて、シロの弾いていた「ル・マル・デュ・ペイ」を聴き続ける。そし てエリは「あの子(ユズ)は本当にいろんなところに生き続けているのよ」と語る。

また、つくるは比喩表現も友人から引き継ぐ。

つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

上記の引用において、村上春樹は巧みに複数の技術を組み合わせていると言える。以前の記事でも述べた「海を軸にした直喩」と、記憶の引き継ぎという二つのテーマである。『多崎つくる』は全体的にすっきりとした印象を与える文体であり、かつそれほど長くない小説だが、実際には非常に多くのテクニックやテーマが詰め込まれている。それはおそらく複数の異なる要素を一つの場所に詰め込むという、畳込みの技によって可能になったのだろう。

さらに指摘しておくと、「地面に血を流さない赦しはない」というフレーズは自身が訳した『心臓を貫かれて』から。そしてエリの語る鳥の鳴き方の挿話はおそらく、やはり村上春樹が訳した『ロング・グッバイ』に由来するものなので、メタ的なレベルからも記憶の引き継ぎというものに注意が払われていると分かる。

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