かりそめの目標

物語は序盤で主人公になんらかの目標を示す。ただしそれは他者から与えられた、かりそめの目標であり、達成したとしても真の問題解決にはならない。主人公は物語の途中で目標を検証し直し、自己の本当の課題が何であるかを定義しなおさなければならない。それが上手く行くと課題は解決に導かれる。主人公は己に勝利するのだ。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、リックは上司から犯罪者であるアンドロイドを狩ることを依頼される。『エヴァンゲリオン新劇場版』では碇シンジは父親からエヴァに乗って使徒を倒すように命じられる。『金閣寺』では溝口は父親から金閣寺を愛でる態度を受け継いで、ひたすら金閣寺を鑑賞して賛美する。

上記三作品をすべて読んだ・観た者は理解できるだろうが、もしも彼ら主人公が他者から言われるままに動き、何らの悩みも抱くことがないまま課題を達成してしまったら、物語は成立しないであろう。そうなった場合はドラマと呼べるものは何もなくなってしまうのだ。無価値な作品ができあがり、それに金を払いたいと思う者はいなくなり、作者は世間から忘れ去られるに違いあるまい。

実際には、リックはアンドロイドを狩る仕事を通じて、生命とは何か、憐れみとは何かを探究する。本物と偽物の区別に意味はあるのか苦悩し、物語の最後にひとつの結論をくだす。他者から貼られる本物・偽物のラベルに意味はない。対象が本物かどうかはまったく問題にならない。重要なのは自分の態度ひとつだけなのだ。生命を憐れみ、尊重することを彼は身につける。そうした優れた知恵を獲得した報酬として、妻との不和は解消される。

碇シンジはエヴァに乗れと言われ、使徒を倒せと命じられる。だが物語の結末はこれとは完全に真逆になっている。シンジは使徒ではなく父親を打倒し、エヴァが消えた世界を実現する。彼は物語の序盤においてはまったく未熟な子供であった。だから「エヴァに乗る」ことによって下駄を履かせてもらい、子供でありながらも大人社会に参与した。しかし彼は物語の経過によって父性と母性を身につけ、その証としてエヴァの力なしで、人間性のみで父親を打倒することに成功する。これにより彼はエヴァを必要としなくなる。そして報酬として、結末部では大人の姿に成長し、異性のパートナーを獲得することになる。

溝口は父親から金閣寺を愛でることを受け継ぐ。空襲にあって金閣寺とともに死にたいと願う。しかしこの作品も結末部は前半と真逆に展開する。彼は金閣寺を焼き払い、なおかつ生きることを決意する。溝口は母親を軽蔑している。母親を軽蔑することを通して女全体を軽蔑しており、父親および父親的なものに寄りかかって生きている。その象徴が金閣寺である。金閣寺は美であると同時に富を象徴しており、彼にとっては絶対の権威だ。彼は物語の経過とともに苦悩し、そこから離れることを決意する。金閣寺の破壊と精神的な自立を達成した報酬として、彼は生きる活力を手に入れる。

物語の途中で課題は変化するのだ。では、なぜこのような現象が起きるのだろうか。

それは我々人間が弱いからだ。にもかかわらず、成長したいと願っているからである。

物語の主人公は運命的に何か大事なものが欠けている。彼はそれに苦しみ、脱却したいと願っている。しかし彼は自分が何に苦しんでいるのか、それを克服するためにはどうすればいいのかを知らない。彼はまったくの無知である。けれども、ともかく自分は成長しなければならないという予感だけは持っている。

それで物語はスタートを切る。しかしその時点では主人公は無知だから、誤った目標が与えられる。彼は現状に甘えたいという気持ちも持っており、それが間違った課題を引き寄せてしまうのだ。我々は絶望的なまでに弱いのである。

だから多くの助力者があらわれて彼を手助けする。自然や老人や異性の手助けなしにやっていくことは不可能だ。もちろん妨害者もあらわれる。しかしいかなる障害も、結局は主人公を正しい方向へと導く。障害はじつは助力者の異なる表現にすぎないのだ。主人公は現状に甘え、逃避する道を断たれる。彼は楽な道から困難な道へと、進むレールを切り替えなければならない。こう考えてみると、なぜ物語に障害が必要とされるのかも理解できる。

このように、苦闘の中で、真の課題は徐々に姿をあらわす。それが物語の序盤において、かりそめの目標が他者から与えられる理由である。