『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読む

フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。それについて書く。

物語は妻との不和で幕を開ける。物語中に主人公と妻の関係性は徐々に改善されていき、最後は妻が夫に示す誠実な愛によって幕となる。

リックとイーランの関係の進展をもうすこし掘り下げてまとめると次のようになる。リックは序盤ではイーランと離婚してやろうかとすら考えるのだが、ミッドポイントであるルーバ・ラフトの殺害によってその態度が変化する。きっかけはアンドロイドへの憐れみを覚えたことだ。そのために彼は社会から与えられた仕事であるバウンティハンターへの自信を失くし、救いとして山羊を購入する。また、妻に自分の心境の変化を告白する。妻に助けを求めるわけだ。しかし妻は理解を示してくれない。それでも最終的に無人の荒野から帰還すると妻は心を開き、彼を歓待してくれる。ヒキガエルの一件を通じて、リックが成長したことを確認したからである。リックの成長の度合いによって妻は態度を変えるわけだ。

物語は、事実レベルではアンドロイド狩りが中心軸になって進む。リックがその仕事に励むのは、生きた動物を飼いたいという素朴な望みを持っているからだ。序盤でその切実な様子が示されるので我々読者は興味を持つ。彼の置かれた状況は都会生活者によく似ている。我々現代人は自然から切り離されている。仕事は清潔なオフィスでコンピュータを相棒におこなわれる。仕事相手はリモートに存在しており、息遣いは感じられず、英語で会議をする。彼は母国語から疎外されている。家に帰っても彼が自然に触れる機会はない。仕事で家を空けないといけないから動物を飼うことはできないのだ。彼はYoutubeの中に表示される犬や猫の動画を見て心の飢えをしのぐ。リックはそのような我々にそっくりなのだ。

生きた動物を求める心は、生命を憐れむ思いと遠いところで繋がっている。ミッドポイントを通過すると彼はその心に目覚めて、窮地に追い込まれてしまう。同情はアンドロイド狩りに支障をきたすからだ。この物語における主人公の真の課題は、現実と板挟みになりながらも、そのような尊い心を発展させられるかどうかにある。

ミッドポイントに行く前にくりかえし本物と偽物の区別というテーマが語られる。リックも含めて、一体誰が本物で誰がアンドロイドなのか分からなくなってしまうのだ。このような混乱に読者は恐怖する。これは言ってみれば、結末部分への大事な伏線となっている。結末でリックは、他者が貼る本物・偽物のラベルには意味がないと喝破する。対象を愛するかどうか、憐れむかどうか、生命を尊重するかどうかは、相手の属性によって決まるのではなく、自分の態度のみで決定すべきものだ。とすると上記の混乱は、リック自身がアンドロイド化を経験するということに意味があると思われる。狩られる側の立場になることは、彼の憐れみの心の発展に寄与していると想像されるのである。

マーサーの物語上の意味を考える。融合体験は弱者にとっての救いである。そこで人々はマーサーを中心として他者と気持ちをわかりあえる。イジドアとイーランは融合が好きだ。しかしリックはそれを拒む。リックは弱者でいたくない。彼は成長したいので融合体験を好かないのである。物語はそのような弱者の救いとしての融合の在り方をおとしめる。バスター・フレンドリーがマーサー教はイカサマであると主張し、多くの人がそれを信じるのだ。しかしリックにその効力はおよばない。彼は廃墟ビルでアンドロイドにつけねらわれた時に、マーサーの助言に救われている。このことは注目に値する。さらに彼は終盤の無人の荒野で、自身がマーサー的な存在になる。彼にとって重要なのはマーサーから救いを与えられることではないのだ。むしろ、他者に救いを与えられる存在に成長することを希望する。それがリックという男の在り方なのだ。

イジドアは弱いリックである。リックがレイチェルというアンドロイドとペアであるのに対し、イジドアはプリスというアンドロイドとペアだ。そしてこの二人のアンドロイドは顔がそっくりであるという形で繋がっているので、これらのペアに物語上の関係性があることは容易に分かるであろう。リックは成長して憐れみの心を獲得するために、対象であるアンドロイドと、何らかの意味で同じ立場にならなければならない。その象徴的なおこないとして彼はレイチェルと性交する。リックはレイチェルを通して何事かを得る。しかしイジドアは逆である。彼はアンドロイドに協力を申し出るので、ある意味においてはアンドロイドと対等の立場になるのだが、それは「弱い」対等の在り方である。本作の倫理観はそれを断罪する。イジドアはプリスと結合できず、彼女や住居を失ってしまうのだ。