『街とその不確かな壁』を読む

村上春樹の『街とその不確かな壁』について書く。

この本は別段面白くはないし感動的でもない。文章そのものにもこれといった刺激や独特の味はないから、読者としては最初から最後まで同じ味のコース料理を食べさせられているような気持ちになる。

それは仕方がない。これは生を謳歌する物語ではなく、災いや老いを穏やかに受け止めるということを語った話だからだ。そこには激しい物語のうねりもなく、熱い感動と呼べるものも存在しない。淡泊なお話なのである。精進料理みたいな小説だと思っておけば間違いないだろう。読み終えた後、しばらくしてから穏やかに心の大事な部分が温められるような小説だと僕は思った。

さて、主人公は運命の相手だと思った女の子を十代の時に失う。そこにはなんの説明もなく理由もなく、しかも「ひょっとしたら少女が戻って来るかもしれない」というわずかな希望が残されているので、主人公が受ける傷はかえって深刻なものになる。この傷をどう癒していくかがこの本の中心的な課題である。

第一部で主人公は自身の心の内部にある街へといき、そこで夢読みと呼ばれる仕事につく。そこで彼は探し求めていた少女とよく似た娘に出会える。彼女に心を開いてもらえるわけではないが、ともかく一定の時間を共にすごすことができるので、主人公はその生活に満ち足りたものを感じる。

その後の主人公は現実生活を送る実際的な自分と、心の内部の街にひきこもる自分の二者に分かれる。この引き裂かれた二者の統合が小説のめざすべきゴール地点である。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではこれらの二者は統合されず、分割されたまま終わったので、やり直しが図られたのだろう。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と違うのは、外側の現実世界の自分に多くの文章量が割かれていることだ。彼はそこでさまざまな出来事を体験することで、壁を通り越して内側の自分に働きかける。仕事を誠実に勤め、体を鍛え、健康的な食事をとること。図書館長を務めることや、子易さんのエピソードを追体験することや、イエローサブマリンの少年を導くことなどを通じて、彼は徐々に内側の自分を引っ張り出す準備をととのえる。そして最後にそれは達成される、というのが小説の筋書きになっている。

だからこの小説を読解する上でやるべきことは単純で、ともかく第二部でどのような「準備」がなされたのかに着目すればいい。

子易さんが妻子を失うエピソードは分かりやすく悲劇的である。そこに非現実性は存在せず、どこまでも具体的だ。主人公にとっての少女が戻ってこない事態とは対照的と言っていい。この挿話には、主人公にとって茫漠とした存在である少女に肉付けをおこなって、さらにとどめを刺して死を確定させるといった働きがある。これにより主人公の意識は強制的に前を向くようになる。彼女が戻ってくるかもしれないという希望が剥奪されるのだ。

主人公は図書館長に収まる。内側の世界においては、彼は図書館内で本を読む役割だったのが、外側の世界においては、彼は人々が本を読める環境を提供する側に回るのである。一心不乱に本を読む役目の者として、イエローサブマリンの少年も出てくる。これは内側の世界における自分に相当する。

こうした役割の反転には、物事の全体像を明らかにして見るという機能がみとめられる。人はなぜか物事を俯瞰して眺めると、心が癒されるのである。主人公が、本を読む役割から、本を読む人を眺める役割に移行しているのが、物事の俯瞰ということである。

主人公はさらに、コーヒーショップの女性と交際を始めたり、イエローサブマリンの少年と交流を始めたりする。そこで主人公は彼らを癒し、成長させる役割を担っている。じつはそれこそが主人公が自身の心の傷を真に癒すということに他ならないのである。

なお、こうした役割の反転性は、本書内で執拗に言及されている、本体と影の交換性ということと関連が深い。不思議なことに立ち位置の交換は、物事を正の方向へと推し進めていく力を持っているのである。ふりかえってみると子易さんとその妻も、子供を妊娠するまえはお互いの住居を行き来していた。つまりある意味においては寝る場所を「交換」していたということは、興味深い。村上春樹はおそらく『古事記』に触発されて、こうした交換性について考えを推し進めたのではないだろうか。子易さんが異性装を行うのは、たとえばアマテラスなどが男装をするのに対応しているのではないかと思われるし、『古事記』では実に多くのペアが持ち物や歌の交換をおこなう。しかしこのことの熟考はまた別の機会におこなっていきたいと思う。

さて、役割の反転は、イエローサブマリンの少年を通じて、世代交代や継承といったテーマにも繋がっていく。子易さんは世代交代に失敗したのだが、それは物語のうえでの必要な犠牲であり、主人公はある意味においては世代交代に成功しているわけである。ただ、このことはあまり深く掘り下げられているように思えない。あくまでもこの物語は主人公が中心なのであって、継承された側のことはそれほど掘り下げられないのである。

本作では序盤で運命の相手と思しき女の子との交際や主人公の想いが語られる。その後特にこの女の子は登場しないし、終盤で出てくるコーヒーショップの女性との仲もそこまで深掘りされないので、読者はとまどう。つまり恋愛が中心的な位置にある話なのかと思ったら、そうでない話運びになるので困惑した、という人は少なからずいるはずである。

これは、じつは序盤で語られているのは恋愛ではないと解釈することで読解できる。この小説が語っている中心的なテーマは「もうひとりの自分」なのである。主人公は絶えずそれを求める。そうした「もうひとりの自分」の具体的な在り方として「きみ」がおり、また壁の内側で暮らす「私」がいるのだと捉えられる。これは本ブログで何度も語っている「影と鏡像」というテーマに接続している。前者との融合には失敗し、後者との融合には成功したと読み解くと、物語の展開は単純になる。すなわちこの小説は最初に主人公の失敗を語り、最後に主人公の成功を語っているのである。

以上で『街とその不確かな壁』の読解を終える。なかなか興味深い小説だと思った。