村上春樹の『ウィズ・ザ・ビートルズ』について

村上春樹の短編『ウィズ・ザ・ビートルズ』は、内容が優れていることはもちろんだが、何より見るべきなのはその文体である。それは読みやすさというものに全てを懸けた文章だ。彼がそのような文体を作る理由は簡単で、良い言い方をすれば平易な書き方をすることで多くの人に届けたいからということになるのだが、それは見方を変えれば読者の美意識を信用していないということにも繋がる。

村上春樹は『ウィズ・ザ・ビートルズ』を書くことによって、現在の日本人には一切文章の美しさを見て取る能力がないことを宣言しているのである。そして僕には、その判断は完璧に正しいように思われる。彼は難しいところや誤読の可能性というものを排除して、平易さを目指した。現代日本においては、それが美しいということなのだ。

この短編は今を生きる作家にとってひとつの指標となりうる作品である。今後どのような文体を目指そうとも、作家は『ウィズ・ザ・ビートルズ』からは目を逸らすことができない。

この短編は内容に対する読者の反応にも興味をそそられるところがある。『ウィズ・ザ・ビートルズ』はある女性の自殺を犠牲として利用し、女生徒のイメージが鮮やかな復活を遂げるところに本当の面白さが存在しているのだが、ネット上の反応を見ると、自殺というショッキングな出来事に囚われてそこから先に進めない人々が散見されるのである。彼らには犠牲ということの意味や価値が分からない。言い方を変えれば、この短編は面白さのハードルを読者に課しているのである。文体はどこまでも平易なのだが、内容に関してはそうでもないというところも、『ウィズ・ザ・ビートルズ』の特徴のひとつであり、クリエイターとしては色々と考えさせられる作品である。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを抱えていたあの美しい少女とも、あれ以来出会っていない。彼女はまだ、一九六四年のあの薄暗い高校の廊下を、スカートの裾を翻しながら歩き続けているのだろうか? 今でも十六歳のまま、ジョンとポールとジョージとリンゴの、ハーフシャドウの写真をあしらった素敵なジャケットを、しっかり大事に胸に抱きしめたまま。

話を元に戻すと、読者の美意識があてにならないというのは、作家にとっては取っ掛かりがない壁を登っていくようなものである。それは一切でこぼこのないツルツルとした壁で、なかなか攻略が難しい。村上春樹はそのようなチャレンジングな目標を自分自身に課した。成功するプロジェクトというのは大抵問いかけが深く、それゆえ設定している障害も大きいものだが、『ウィズ・ザ・ビートルズ』の成功にはそのような背景があると言えるだろう。