『ダブリナーズ』の構造を読み解く

前回の記事からの続きである。

基調とカウンター

次のような大きな三つの力が作中で働いている。

  • 金銭による取引は上手く行かない。あるいは下劣な結果となる。
  • 男女関係は上手く行かない。あるいは下劣な結果となる。
  • 暗い結末が多い。

ただし例外もそれなりに存在し、これらの基調の力に対するカウンターとして働いている。

ジョイスがカウンターを存在させた狙いはかなり明白で、前回書いたように、物語の消化不可能性を高め、それそのものを生の形で差し出すことにある。そうすることにより、かけがえのない生命の一回性、個別性というものが強調されるからだ。こうした細工は読了後に大きな効果をもたらす。読者は本を閉じた後にそれまでの短編で起きたことを想起することになるが、そこで味わう生命の儚さ、脆さ、そして美しさが高まるのである。

年齢構成

主人公の年齢を順に挙げていく。

  1. 姉妹 - 若い
  2. 出会い - 子供
  3. アラビー - 子供
  4. エブリン - 若い
  5. カーレースが終って - 若い
  6. 二人の伊達男 - 若い
  7. 下宿屋 - 中年
  8. 小さな雲 - 青年(三十二歳)
  9. 写し - おそらく中年。五人の子供の親だから。
  10. 土くれ - 年齢不詳。
  11. 痛ましい事故 - 年齢不詳。シニコウ夫人が死亡時点で四十三歳なので、それに近い年齢と思われる
  12. 委員会室の蔦の日 - 老年
  13. 母親 - おそらく中年。演奏会に有償で出演できるほどの年齢の娘がいるから。
  14. 恩寵 - 中年
  15. 死せるものたち - 青年

1-6まで主人公は明確に若く、7の下宿屋から若い人は主人公でなくなる。ただ下宿屋は、話題の中心であるカップルは若い。したがって明確に中年である層が主人公に据えられると取れるのは、9の写しからだろう。ちょうど真ん中あたりで変わり、より死へと近づいていくことになる。

テーマと結論

テーマは三つある。三本の葛藤が柱であり、その内もっとも主要なものが死である。

  • 死を受け入れるか、受け入れないか
  • 男女関係が上手く行かないことを受け入れるか、受け入れないか
  • 金銭による取引がむなしい結果に終わることを受け入れるか、受け入れないか

これらのテーマを統合して、物語の中心に据えられた葛藤をあらわすと、次のようになる。

主人公はこの世のすべてが虚しくなり滅び去ることを、諦めて受け入れるか、それとも受け入れないかの、二つの方向性に引き裂かれている。彼は楽な道である生の方向へ進もうと試みるが失敗し、引き返して、より困難な道、すなわち死を受け入れる道を突き進む。するとその自己犠牲的決心によって、主人公は葛藤を解消するばかりでなく、生命の儚い美しさを識るという、かけがえのない宝を得ることになる。

ストーリー構成を概観する

先頭の1「姉妹」で死というテーマが提示される。フリン司祭が死ぬが、それは若い主人公にとってかなりのインパクトがある出来事だった。人々を導く司祭という立場の人間が死ぬことによって、若い主人公は取り残され、道に迷う。彼が作中で怒っていることは見逃せないポイントだ。彼が怒っている本当の理由は、司祭の死を受け入れられないからである。キューブラー・ロスの唱える死の受容の五段階で言うと、彼は否認の次の怒りの段階にとどまっていることになる。

また聖杯がこわれたことが終盤で宣告される。これが物語のはじまりである。聖杯の修復が物語の目標であると言い換えてもいいかもしれない。

2の「出会い」では少年たちが冒険に出る。1は家の中が舞台だったのに、こちらは家の外で物語が進行するわけだ。

でも本物の冒険は、と僕は考えた、家に引っこんでる者には起らない。外へ出て探さなければならないんだ。

『ダブリナーズ』という長い旅の始まりが上記の箇所で告げられる。しばらくは少年たちはいい気分に浸る。しかし奇妙な男に出会い、その気持ちはくじかれる。この短編は『ダブリナーズ』全体と相似形になっていると言えるだろう。どんな力にも必ずカウンターが存在するのである。題が「encounter」であることも示唆的だ。

変な男の話によって男女関係というテーマが示唆される。

3の「アラビー」では片思いの恋と無駄に終わった買い物が語られる。この話は2で示唆された男女関係というバトンを受け取りつつ、金銭が本来の役割を果たせないという結末が提示される。ここまでで主要なテーマがすべて示されたことになる。スタートを切る準備が完了したという訳だ。

4の「エブリン」で、はじめて物語らしい物語がかたられる。明確に本編が始まると言っていいだろう。死も男女関係も金銭もすべてのテーマが顔を出す。男女関係は上手くいかずに話が終わる。暗い基調である。

5, 7は明確なカウンターであり、本筋とおぼしき流れが完全に否定されるので読者は面食らう。

6も男女関係がテーマであり、こちらは下劣な結果で終わる。ただし暗い雰囲気はない。

8では出世や結婚生活が否定される。暗い雰囲気。

9は暗い基調の話であり、罰や金銭の話が強調される。年齢層の変化を考慮するとここからがおそらく後半戦である。

10もカウンターであり、微笑ましい話だが、金銭の取り引きが上手くいってないことは注目に値する。

11は重要な短編である。ここで惜しげもなくメインテーマと解決の方向性が開陳される。この作品は最後の『死せるものたち』の準備であり予告になっている。「思い出」がキーワードである。

 そうして座ったまま、彼女との日々を思い起し、今抱く女の二つの面影を交互に呼び起しながら、彼は女が死んだことを、もはや存在しないことを、一つの思い出となってしまったことを理解した。不安で落着かない気分になる。ほかになにかできなかっただろうかと自問した。女と欺瞞の喜劇を演じつづけることはできなかったろう。公然といっしょに暮らすこともできなかった。自分は自分で最善と思われることをした。なにを責められることがあろうか? 女がいなくなった今、女が毎晩毎晩、あの部屋で独りきりで過した人生がいかに孤独であったかが分る。自分の人生も孤独なものとなっていき、ついには自分もまた、死んで、存在しなくなって、一つの思い出となる――もし思い出してくれる者がいるなら。

12は混沌とした内容である。物語に一貫性がない。一応締めに詩の朗読があるので形にはなっている。これは言わば5の変奏だろう。ただし5と比べると浮ついた雰囲気がじゃっかん抑えられている。

13には物語がある。母親であるカーニー夫人は「ロマンチックな夢」を持った女である。それは結婚によってかなえられなかったので、かわりに娘に託している。娘を音楽会に出させて、出演料をもらおうとするのだがそれは無為に終わる。

14の「恩寵」はクライマックスの15の前に置かれている。13中の音楽会出演の契約もそうだが、ともかくこの短編集ではいたるところに金の話が出てきて、しかも具体的な金額が提示される。こうした記述は次の箇所で大きな効果をもたらす。

こういう比喩を使ってよければ、と神父は続けた。自分は精神の会計係である。自分の願うのは、聴衆のそれぞれが一人残らず己の会計簿を、己の精神生活の会計簿を開いてみて、それが良心と勘定が合っているかどうか調べてみることである。

こうした説教の後に最終話の15が続く。こうした劇的なつながりがクライマックスの効果を引き立てる。

15の「死せるものたち」が最後である。一番長い話なので、最も力がこめられていると誰でも分かる。

ある家でパーティが開かれてその親戚一同がつどい、歌やスピーチが披露され、ご馳走が食べられる。次のような記述がまずある。

生活は質素だけれども、三人とも食生活を高級にするという主義だった。なんでも最高級品、極上の骨付きサーロイン、三シリングの紅茶、瓶入りの最高のスタウト。

そしてのちに大量の料理がならべられて、大いに飲み食いがなされる。

一羽の太った焦茶の鵞鳥がテーブルの端で横になり、もう一方の端には、パセリを茎ごとちらした皺紙の上に豚腿がどでんと置かれ、これは皮をむいてパンくずをふりかけ、脛には上手に仕上げた紙の襞飾りが巻きつけてあり、その脇には薬味の載った牛の腿肉がある。この張り合う両端の中間に、添え料理がずらりと平行に整列していた。赤と黄色のゼリーの二つの小さな教会堂、真っ赤なジャムの掛ったブラマンジェの塊があふれんばかりの浅い盛皿、茎形の柄がついた大きな緑の葉形の盛皿もあって、これには紫色のレーズンと皮をむいたアーモンドがごっそり積まれ、それと対の盛皿にはスミルナ無花果のぎっしり詰った矩形、下ろしナツメッグをトッピングにしたカスタードの載る盛皿、金紙や銀紙にくるまれたチョコレートやキャンディが山盛りの小さな器、そして長いセロリの何本か突っ立つガラス壺。

こうした豪勢さには、これまでの短編のなかで基調として働いていた、「金のからむ取引きが無為に終わる」という力を退散させ、くじかれていた願いを成就させるという働きがある。我々読者は長いマラソンを走ってきた終わりに、ようやく休憩と安らぎの水を与えられたというわけである。酒についても同じで、これまでは暗い方向にばかり力を貸していた酒という存在が、やっと明るい存在としてあらわれてくれたことに、我々は率直な喜びと解放感をおぼえるのである。

その後、主人公のゲイブリエルは妻の美しさを再発見し、彼女との情事に期待をつのらせる。

彼女が自分のものであることが嬉しくて、優雅さと妻らしい身のこなしが誇らしかった。ところが今、あれやこれやの思い出に再び火が付いてしまった今、妻の肉体の最初の感触が、楽の音にも似た未知の芳しいその感触が、欲情の烈しい疼きを全身に走らせた。妻の無言に乗じて、彼は妻の腕をぴったり脇腹に引き寄せた。そしてホテルの入口に立ったとき、彼は自分たちが生活や義務から逃れてきたような気がした。家庭や友人たちから逃れて、荒々しい晴れやかな心を躍らせて新たな冒険へと出奔するのだという気がした。

ここで我々読者は主人公と同じ期待を持つ。これまでの短編で働いていた「男女関係がむなしく終わる」という基調の力についに物語が反旗をひるがえすのだと捉え、主人公の願いが成就される瞬間を見たいと思うのだ。

しかしゲイブリエルを待っていたのは妻の過去の打ち明け話であり、初恋の男の話だった。彼はそれに衝撃を受け、落胆する。情事のないまま彼はベッドに横たわる。これはじつは2の「出会い」の話と同じ構造である。「出会い」の主人公の少年たちは冒険にでかけ、いい気分に浸るのだが、変な男がカウンターとしてあらわれて、嫌な気持ちになるわけである。それと同様の展開がゲイブリエルを待ち受けていた。

これまでの短編と違うのは、ゲイブリエルが卓見に到達し、すべての物語を相対化することにある。その卓見とは、思い出としてのみ存在している死者と、現実に地上で暮らしている生者との間に、いっさいの線引きをしないことにある。彼は何百年、あるいは何千年という遠い未来から現在を「ふりかえる」。そうした視点に立てば、いま生きている者もじつは死者と変わらない存在であり、儚く脆いものなのだということを彼は識る。それこそがじつは生命の美しさを本当に実感するということに他ならないのだ。

雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった。