第三の道

僕はこれまでさまざまな文体の小説を読んできた。その中でもっともエンターテイメント的な文体だと思ったのは三島由紀夫の『豊饒の海』だ。次に娯楽として強いと思ったのはガルシア・マルケスの『百年の孤独』である。僕はこれらの小説を読んで、興奮のあまり頭がおかしくなってしまうんじゃないかと思ったぐらいだ。面白いとはどういうことか、人を楽しませるとはどういうことかを僕はこれらの小説から徹底的に学んだ。以前に別の記事で述べたが、これら二つの小説には共通項が多いということからもさまざまな示唆や学びを得た。

同時に、僕はそれらの小説の物語面にすさまじい衝撃を受けた。残念なことにそれは正ではなく負の衝撃だった。特に大きな打撃を受けたのは『豊饒の海』の方だ。僕はこの小説を読んで以来、ずっと深甚な呪いを受けている。この小説の恐ろしい結末が僕の心から離れたことは一時もない。まさにそれは呪詛だった。特に創作をしているときは『豊饒の海』のラストシーンが心のどこかに位置して、じっと僕の所作を監視してくるのを感じる。お前はまだ俺の問いに答えていないぞ、と脅しをかけてくるのを感じる。

実のところ僕の創作上の関心のほとんどは、『豊饒の海』に応えること、この小説の結末の先を描くことにある。それで僕は破滅的なこの小説を避けるために自分の文体を無に寄せてきた。面白い文体、個性的な文体を書くのを避けてきた。そういった文体を取っても三島を凌駕できないと思ったからだ。僕の見立てでは村上春樹も『豊饒の海』に取りつかれてしまった人間である。だから僕は先達の村上春樹を熟読し、彼の作品から多くのことを学びとってきた。ニヒリズムの極致ともいうべき三島との戦い方を学習してきた。

ただ、最近では僕は村上春樹的な文体にも見切りをつけつつある。さらに個性を切り捨て、誰でも書けるような、ごく普通の文体に寄せつつある。僕は自分の思考が深いところで一段階進んだのを感じている。

僕は最終的には、人を楽しませる個性的・独自な文体と、無の文体とを合体した作品をつくりたい。その融合が僕にはできると思っている。それの鍵になるのが以前から研究を続けている影と鏡像のテーマだ。このテーマはまさに異なる二者の融合を中心的な課題に据えている。早く研究と実作を進めなければと焦っている。