コスタリカ307

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『海辺のカフカ』の読解メモ・上巻

以前『海辺のカフカ』を読んだ時にメタファーについて説明する記事を書いた。

そのまま一回しか読まずに置いていたので、最近再読を初めた。以下は頭から読んでいった時のメモである。ページ数は文庫版に準拠している。この記事では上巻を扱う。

  • P43 主人公があるバンドのメンバーに似ていると、さくらが言う。これは本作を貫いているメタファーを予告するような効果がある。
  • P46 さくらが「私はコクゴが昔から弱いの」と言う。本作はかなり易しい語彙によって綴られている。同じ作者の『1Q84』などと比べてみるとそれは明らかだ。そのことを読者に示唆する台詞のようである。
  • P49 さくらは自分の姉ではないかと主人公は疑う。これもP43と同じ。
  • P49 「現実のありかたと心のありかたを区別することもまた難しい。」 本作のメタファーの性格を説明している一文。心の中で起こっていることも現実で起こっていることも、本人に体験されているという点はまったく等しく、同じ価値がある。だからこそメタファーによって体験される自己の記憶やその記憶の抱えている問題の解決は、はっきりとした現実の一部であり、確かにあり得ることになる。
  • P72 大島さんが登場する。彼は物語のなかで主人公のことを助ける役割を担っている。しかし彼は主人公に対してコミットしない。主人公のドラマに決定的な役割を果たさない。そのような離れた距離を保つために、彼には肉体は女性でありながら性同一性障害であり、なおかつ……というややこしい性質が付与されている。彼は物語にコミットしないよう、ニュートラルな立場であり続ける。
  • P80 佐伯さんが登場する。主人公は彼女を母親かもしれないと思う。
  • P100 ナカタさんの章で、性欲の話が出て来る。ナカタさんには性欲がない。これは後にナカタさんが“石”を動かすエピソードと関連している。星野青年は女性を買って性欲を解消する。このことと、ナカタさんには性欲がないということとが合せ技になって、石を動かすことが出来た。このことは後で詳しく書く。『1Q84』でふかえりとセックスをした天吾が自分の「中心」を見出すというエピソードとも関連がある。
  • P106 ナカタさんの影が薄い。半身がどこかにはぐれてしまっている。
  • P119 カフカの『流刑地にて』の処刑機械は現実に存在したのだ、と強調される。比喩ではない、と。やはりこれも本作独特のメタファーへの言及である。心の内で起こっていることと現実は等価である。
  • P116 主人公が『千夜一夜物語』を読む。「ずっと生き生きと迫ってくる。」 これはすぐ後のページ(一つ上の項目)で言及される、メタファーの現実性と関連がある。『失われた時を求めて』は作中何度も『千夜一夜物語』に言及する。このおとぎ話の中では、色んな登場人物や魔人が別の物に変身する。それは作中では現実に起こったこととして扱われている。そのような変身があるいっぽう、『失われた時を求めて』においては、主人公の心の内側で起こっていることとして比喩が活用されている。文章の冒頭に差し出されたものが、比喩によって次から次へと変身させられていき、末尾でそのような変化の帰結を語るというパターンがくりかえし現れている。ここで、「なぜ作者は『時』ではなく『千夜一夜』の方を取り上げたのか?」という疑問が浮かび上がってくる。もちろん答えは決まっている。『千夜一夜』を選ぶことで、彼は『海辺のカフカ』独自のメタファーを主張しているのである。
  • P123 8という数字が最後に提示されて7章が締められる。ページをめくると、また8という数字が目に飛び込んでくる。第8章に移ったのである。
  • P139 「逆トリガー」がナカタさん自らの血であることが示される。本作において、血がふりかかるということには重要な意味が込められている。
  • P144 主人公にも血がふりかかる。時空間や文脈を超えて、血という現象がつながりを持っている。
  • P163 猫のミミが猫のカワムラさんをはたく。カワムラは会話がろくにできず、ミミから差別されている。ここでは言葉の弱さ、無力さというものが強調されている。実際同じ作者の他の作品と比べてみると、『海辺のカフカ』には華麗な比喩や言い回しが見られない。村上は敢えてそれを避けたのである。彼はむしろ意識して国語力とでも言うべきものを落としているようだ。それがP46のさくらの台詞に表れている。
  • P199 女教師のエピソード。ナカタさんの中身が破壊され、虚ろになってしまったことを説明している。『海辺のカフカ』の最初の山場。読者を物語の世界に引っぱり込む、力のあるエピソード。
  • P217 「そして私の魂の一部はまだあの森の中にとどまっております。」 別記事ですでに解説したが、終盤における佐伯と主人公の対話は、この女教師のエピソードを踏まえたものになっている。そのことをあらかじめ宣言したのがこの一文である。
  • P280 さくらにしてもらったことを振り返って、主人公はこう思う。「僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。」 自分の中に眠っている、普段は抑圧している欲望を我々は自覚しなければならない。そしてそれと対決していくべきだ。抑圧していても問題は解決しない。それを何らかの方法で叶えていくべきだ。あるいは、別の課題へと変換していかなければならない。カフカ少年の場合は、佐伯さんとの対話によって母親という問題を解決することができた。このポイントはもちろんメタファーと密接に関連している。メタファーによって人は自分の切実な記憶と向かい合うことになるからだ。
  • P278 「人々が僕を非難し、責任を追求している。みんなが僕の顔をにらみ、指をつきつける。記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う、「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなければならない。」」 この文章には複数の意味がある。ひとつは、まずさくらとのこと。性欲の問題である。次に、父親への憎しみである。ナカタさんがカフカ少年の父親を殺害した。もちろん(作中の)現実のレベルにおいては、これにカフカ少年は関わっていない。しかし本作が言ってるのは、自分がやっていないことについても、起きたことに注目して、自分がやったことなのかもしれないと積極的に受け止めていく姿勢なのだ。現実を利用して、逆に、自分の内面を探り、それと対決していく態度こそが我々には必要なんだ、という主張なのである。この主張は太平洋戦争ともつながりがある。
  • P345
    • ナカタさんは怒りを炸裂させてジョニー・ウォーカーを殺害した。その結果、彼は猫と会話ができなくなる。彼は自己を取り戻しつつある。そのため猫との親和性がなくなり、話せなくなった。そしてナカタさんはその後、色んな人と会話するようになる。警察官。女性の会社員。男性の会社員。トラックの運転手などである。
    • 大島さんがこの次の章で、海と猫に関連性があることを指摘する。『1Q84』の猫の町のエピソードまで考慮に入れると、猫と海は、自己を失うという意味において共通した性質を持っていることが言えそうである。猫と海に近づくと、人は自己を失い透明になり、他人の記憶を受け入れやすい状態になる。河合隼雄が解説したユング集合的無意識に近づく。それは自己を更新する機会であるとともに、危険な状態でもある。ナカタさんはそこに行ったっきり、不運にも戻れなくなってしまった人に分類される。
    • ナカタさんは移動を開始する。かたや主人公は次の章で移動をやめる。主人公は図書館に泊まり込むことになる。移動と停滞の役割交換がなされる。
  • P380 大島さんの台詞。「長く置いておくと、近所の猫が来て(昼食を)食べてしまうかもしれない。このへんは猫がずいぶん多いんです。海岸の松林に子猫を捨てていく人が多いものですから。」 なんの関係もない話題のさなかに組み込まれているので見落としがちだが、意味がある。一つ上の項で解説済み。
  • P384 「うつろな連中」。大島の非難するうつろな連中、想像力を欠いた人間とは、この作品の中でカフカ少年がおこなっているような、自分の想像や秘められた欲望を自覚して積極的に責任を取ろうとする態度のない人たちのことである。彼らは己の課題に取り組もうとせず、その代償として、他人を攻撃する。
  • P385 「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」 リトル・ピープルと似た概念。
  • P399 トラックの運転手とナカタさんが、関係性について議論する。これは比喩と関連がある。ナカタさんが黒い犬と知事を重ね合わせる文があるので、それと分かる。比喩は、本人の好き嫌いと関係がある。食べ物の好みの話が出て来るのは、そのような性質を説明しているのである。
  • P409 星野青年が登場する。ここでは彼を意味する主語は、まだ「運転手」である。本作の特徴として、登場人物を指す主語が次々と変化していくことが挙げられる。したがって、主語にはつねに注目しておかなければならない。
  • P435 「青年」。
  • P437 「星野さん」。
  • P451 ナカタさんの半生が語られる。自分が失われるということは、猫に近づいていくこと・親密さを覚えることと関連があると分かる。そこで人は安らぐことが出来るのだが、長い間とどまっていると、戻れなくなる。『1Q84』においても猫の街が出て来る。
  • P459 佐伯さんの幽霊と会う。分裂した自己。『1Q84』でも繰り返されたテーマ。

非対称な一対の存在

1Q84』を読んでいてつくづく思うのは、この作品は論理の構築物であるということだ。これほど理路整然としたパズルも他にない。この記事では、本作の随所に顔を出す「非対称な一対の存在」について言及していく。

 不揃いのペア

1Q84』には“海”を軸にした直喩が頻繁に登場する。これは“二つの月”と対になっており、二つの月は青豆と天吾、青豆の不揃いな乳房、母親と娘などの暗喩になっている。つまり海と月は、直喩と暗喩というペアになっている。それは潮の満ち引きが月の引力の影響下にあるということと、イメージ的な繋がりがある。

作品を隈なく見ていくと、実はこのような「不揃いのペア」と言うべきものがあちこちに登場していることが判明する。

たとえば大塚環と青豆は親友だが、環は美人であり、生まれながらにして人に好かれる性格だった。青豆は整った顔をしているものの、美人とは呼べず、人から好かれない女性だ。環は自分の怒りを思うままに表現することができず自殺するが、青豆は彼女に代わってそれを自らの怒りとなして、行動に移す。彼女たちは異なった性質を持った、しかし仲の良い一対の存在だった。

青豆と天吾もまた非対称な一対の存在としてとらえることができる。Book1から2にかけて、青豆は常に移動する存在としてある。対して天吾は移動量が少なく、彼の大切な仕事は自室で行われる。これは青豆の仕事が出先で行われるのとは異なる。さらに二人は名前の扱われ方まで違う。青豆は主に名字で呼ばれるが、天吾は名前で呼ばれる。いや、そもそも彼らは性別だって別ではなかろうか。そのようなさまざまな相違にも関わらず、彼らが本作においてもっとも重要なペアであることに異論をとなえる人はまずいないだろう。

このようにして、二つの月の色と大きさが異なっているように、性質に差異があるが、それゆえに惹かれ合う一対の存在というのが、作中での“正しい”存在なのである。この倫理は空気さなぎのエピソードにおいても確認できる。ふかえりは空気さなぎを紡いでドウタを産みだすが、出てきたのは自分自身だった。この話は作中では否定的に扱われている。それに対して天吾の産みだした空気さなぎは、青豆をその場に具現した。つまり自分とまったく同じものを作り出してそれと向かい合うのは間違っており、異なる存在を希求して向かい合う姿勢こそが正しいのだ、という価値判断がここでは提示されているのである。

 影響力の方向について

このようなペアの性質を深く掘り下げていこう。

“海”を軸にした直喩には、見逃せない大きな特徴がひとつある。それは、あらゆる登場人物が海の直喩を口にしているという点だ。しかもそれと知らないまま口にしている。天吾の小学校の女教師は「岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かない」という台詞を言うし、タマルも牛河を拷問する際には「海の底を歩く」という言葉を使う。彼らは二つの月を見ていないにも関わらず、月の引力の影響下にあるようだ。

次に環と青豆について分析を試みると、まず目がいくのは青豆の激しい怒りである。その怒りは環に由来している。環が夫から受けた深い悲しみや傷は、彼女の隠れた所に蓄積していった。それは決して分かりやすい形としては顕れなかった。表に現れたのは、自殺という形を取った時だった。青豆はその目に見えない悲しみや傷を正確に知覚し、影響を受けて、怒りという形に変換して行動に移した。つまり、環が青豆に影響を与えているということが分かる。

これら二つのペアに共通しているのは、影響の方向性だ。すなわち月→海のように、環→青豆という一方的な影響力のベクトルが存在している。しかも影響を及ぼす側は隠れており、影響を及ぼされる側は露わになっているという点も同じである。また影響元の力は、別の形に変換されて影響される側に現れている。

このような構造は、電波とテレビ、パシヴァとレシヴァという関係性によっても暗示されているようだ。

ところで、「月が見ている」という表現がたびたび作中に出て来るので、影響力の方向性というものが登場人物たちにもたびたび意識されていることが分かる。次のパートでは、影響を及ぼされていることへの自覚について述べている。なお「見られている」ということを知覚できるかどうかという題材は、牛河の覗きをふかえりが察知するというシーケンスとも関連があるのだが、本記事では扱わない。

 影響力の自覚、そして双方向の力

さらにこの影響力の在り方について仔細に見ていく。すると、作中にはさまざまな影響力の在り方が描かれていることが理解されてくる。

環の時には、青豆はその怒りがどこに由来しているのかという自覚がなかった。彼女は自分の意志であると思いながらも、なかば操られているようでもあった。一方、老婦人に従って仕事をしている時には、影響を受けていることの自覚が彼女の中に徐々に現れてきているように私には思われる。

それは、最初は無自覚なものだった。しかし老婦人が青豆に向かって、あなたが自分の娘であるように思うと繰り返し伝える場面においては、青豆の中に少しずつ老婦人への反感が募ってきているようである。典型的な小説の技巧として、同じことの繰り返しによって読者の心理を逆方向に導くというものがあるのだが、この手法が適用されていると受け取ると、前述の場面は二人の別れを暗示していると捉えることが可能である。(この手法については以前別記事で解説した。) 青豆はのちに老婦人からの要請、すなわち顔を変えることを拒み、精神的に完全な自立を果たす。つまり彼女は影響元を自己の中から排除したことになる。

次にふかえりと天吾について見ていこう。彼らもまた非対称な一対の存在だ。ただし、ふかえりはあくまでも青豆の仲介者にすぎず、一時的な存在である。だからBook3では存在感が薄くなっている。

天吾はふかえりがどのようなメッセージを送っているのか理解できずに悩む。彼は、影響を受けていることは自覚しているのだが、その正体を正確に掴むことができていないのである。ただし天吾はふかえりと交わった夜に、自分の「中心」にあるものを発見する。それは青豆だった。青豆こそが自分に力を及ぼしている発信源であることを彼は突き止めたのである。

このような段階を経ることで、彼はBook2の終盤で青豆に呼びかけることに成功するのである。それは功を奏し、Book3の青豆の生存へと繋がっていく。「遠い声」が彼女を拳銃自殺から救った。

以上の分析から、さまざまな影響力の在り方、影響力との付き合い方があるということが分かってくる。そのもっとも典型的な発展の段階は、次のようになると私は考えている。

  1. 影響元が存在しているが、影響を受けている自覚がない。
  2. 影響を受けていることを自覚する。
  3. 影響元が何なのか分からないが、それを突き止めようと努めている。
  4. 影響元を突き止めた。
  5. 影響元に対して、逆に、自分から働きかけようとしている。
  6. 影響元と出会った。

そして、このような複数の成長段階をお互いに引き合っている二人の男女が同時並行的に上っていき、双方向に呼びかける場合に、その力はもっとも強いものとなり、あらゆる悪運をはねつけて奇跡さえ引き起こすのである。その帰結が二人の再会であり、元の世界への帰還なのだろう。二つになった月が元通り一つに戻る意味が、我々には今ようやく理解できる。月が二つに分かれていることは遠い昔に失った片割れを思い出す予兆であり、それが一つに統合されることは、再会を意味しているのである。

代替わりというテーマ

本稿では漫画『ドラゴンボール』のセル編の物語について解説する。セル編は単行本の28巻から35巻までに収録されている。

 親子のヴァリエーション

セル編にはさまざまな親子の組が登場する。まず冒頭にフリーザ親子が出てくる。次いでトランクスとベジータ人造人間20号と17・18号(前者はドクター・ゲロで、後者を造った)などが現れる。彼らはそれぞれに異なった多様な顔を読者に見せる。そしてこれら親子のヴァリエーションは、物語の最終目標である孫悟空から孫悟飯への主人公の代替わりのために用意された、布石のようなものであると捉えることができる。次にそれらのペアをすべて挙げてみよう。

セルは物語の形式上はゲロと別の人物だが、物語の実質という観点から見ると、ゲロと同一人物だとみなせる。セルもゲロも登場時の外見は老人のそれだ。また、敵のエネルギーを吸収することや、17・18号と敵対しているという共通項がある。したがって<ゲロ - 17・18号>の組は、<ゲロ=セル - 17・18号>の組であると捉えることができる。

 孫親子とベジータ親子の対比

では、これらのペアをつぶさに見ていこう。

フリーザ親は息子であるフリーザが殺されてもまったく動揺しない。それどころか殺した相手であるトランクスに「私の息子にならないか」ともちかける始末である。このような情のなさは、理想的でない親子の例として持ち出されているのだろう。

逆に、子が親を無残にあつかうケースもある。17号・18号がゲロを殺す際、クリリンが「自分の親を殺すなんて」という旨の発言をする。(30巻 P17) いずれにせよ、どちらのペアも親子の縁というものが機能していない。

神様からデンデへの交代はさらっと描かれているが重要なことだ。これは親子とは違うが、代替わりというテーマと密接に関係している。まず神様が消えて、ドラゴンボールがなくなる。作品のタイトルにもなっているものが失われるのだから、これはかなりの大事だ。それが、セルとの最終決戦の直前になってデンデがやって来て、新しい神様として就任し、ドラゴンボールを復活させる。このエピソードは、孫悟飯が悟空の代わりに地球の平和を担う新しい戦士の立場になることを予兆している。こういう小さいエピソードをラストの前に設けておくのは優れたストーリーテリングだ。

ベジータとトランクスは常に孫親子と対照的に書かれる。トランクスはベジータに対して、親としての責任がないと責める。単行本29巻では、ゲロが放ったエネルギー波から、トランクスがブルマを救う。その時トランクスは助けようとしなかったベジータを責めるが、ベジータはそれを一蹴したので、トランクスは絶句してしまうのである。このようなぎこちのなさは孫親子にはない。それどころか、孫悟飯は父に対して疑問を抱かなさすぎるとさえ言えるだろう。

彼らの対照性が際立っているのは最終決戦のシーンだ。セルが自爆し、悟空が死ぬ。その後復活したセルにトランクスが殺されてしまう。つまり孫親子は親の方が死ぬのに対し、ベジータ親子の方は子供が死ぬのである。そのままもつれ込むように最終決戦に入り、かめはめ波かめはめ波がぶつかり合う。この時、ベジータもセルを倒す一助となるのは見逃せないポイントだ。つまり孫親子が主役としてセルを倒すのだが、そこには影のようにベジータ親子も参与している訳である。

親が犠牲になるのと子供が犠牲になるのとでは、やはり前者の方が正しい。理由は二つある。まず、新しい生命が死んでしまっては社会が存在できない。そして個人という観点から見ても、長く生きてきた人間は重い罪悪感を蓄積している訳だから、思い切って正しい目的のために自分を犠牲にした方が、すっきりする。罪悪感を解消できるという良さがある。死んだ悟空が明るいのに対して、生き残ったベジータはずいぶんと暗い様子だ。意気消沈として、俺はもう戦わないとまで言うのである。彼は負けてしまったのだ。

このようにセルとの最後の戦いを振り返ってみると、孫親子は正しい道を選んだので主役としてセルを倒す立場になったのだが、ベジータ親子の方は間違った道を読者へ示す役割を背負わされたので、主役には就けなかったと受け取れる。しかし彼らがそのような形でドラマに貢献したということもまた事実だ。その表れがベジータのセルへの攻撃なのだろう。それをきっかけにして御飯はかめはめ波に力を込めて、セルを倒す。つまりベジータは一定の貢献を果たしている。言い換えれば、影としての貢献にも価値があるということを作者は認めているのだ。

 セル

17・18号がゲロを殺した後は、さまざまな話の経過を挟んでから、今度は復讐するような形でセルが17・18号を吸収する。

セルは興味深い存在である。彼は登場時は老人の外見をしている。次に17号を飲み込んで中年の男性へと姿を変える。そして18号を吸収すると、最終的には青年の容姿に変化するのである。つまり若返っていく。この変化は32巻の巻末にある扉絵ではっきりと確認できる。

この若返りという観点から言っても、ゲロとセルが物語の役割として同一人物をなしているということが理解できるだろう。ゲロは死にたくないので自分を人造人間に改造した。それは若返りの欲望と似ている。つまり前項で確認した「親が犠牲になって子供を活かす」という正しい方向性とは、まったく逆の方向に彼らは向かっている。だからこそセルは絶対の悪として戦士たちの前に立ちはだかるのである。

考えてみれば、セルは吸血鬼のように人間を吸い取り、力を増大させていく。そして生意気な若者、という感じの容姿をした17・18号さえ吸収してしまう。つまり老いた者が若い者を殺して奪い取っている。このような事実は前述の方向性と一致している。したがって、セルは社会を完全に滅ぼす。古い生命が新しい生命を根絶やしにするようなコミュニティが、続いていく道理がない。セルはテレビで、セルゲームで人間側が負けた場合は世界中のすべての人間を殺すと発言しているが、ここまでの議論が理解できていれば、これはまったくうなずける話である。振り返ってみると、フリーザというキャラクターにはけっこう個性があった。ネット上でも時折ネタになっている。一方セルには人気がない。フリーザには実にさまざまな部下がいたのに対して、セルは一人である。彼は一人のまま完成している。なぜなら彼は人類の破滅と同義であり、それ以上先には何もないからである。無味乾燥な存在なのだ。

 怒り

孫悟飯がセルに勝つためには、怒らなくてはならない。しかし御飯は怒ることが出来ずに苦しむ。そこにはかなりのページが割かれている。これは注目すべきポイントだと思う。

孫親子のあいだには不和がない。色々と示されている他の親子のペアと比べると特に不和のなさが際立っているのだが、どうやらそれが怒りのなさと結びついているらしい。ピッコロが御飯の胸の内を推測して、御飯は怒ることが出来ないと悟空に抗議するのだが、その発言内容は親子の仲の良さと関連している。仲が良いというよりは、仲が悪くなるきっかけがないと言った方がより的確だろうか。御飯は良い子なので、親に逆らうという気持ちが薄く、それが怒れない遠因となっているのである。

16号と孫悟空の二つの犠牲によって、ようやく御飯は怒りを正しい形で解放し、コントロールした上でセルを倒すことに成功する。

 その他

セル編のプロットは綿密に計算されているように思われる。例えば孫悟空が別の未来では心臓の病で死んでいることが物語の序盤で示されるのは、彼の老いを暗示している。また複雑な物語を楽に動かすために、悟空に瞬間移動の技を習得させておいたのは賢明なやり方だ。タイムトラベルという複雑な話を週刊連載でやるのもなかなか大変だったのではないだろうか。

セル編を読解することで、我々は優れた物語の組み方を学ぶことができる。

ところで、ハンターハンターでも今は代替わりというテーマが取り上げられている。この漫画はドラゴンボールを如実に意識しているので、冨樫義博鳥山明とどのように異なる結論を導き出すのか、興味が尽きない。