コスタリカ307

よいブログ。

『海辺のカフカ』の読解メモ・下巻

別記事からの続き。

  • P6 「星野青年」。
  • P61 ナカタさんと星野青年も図書館に行き着く。主人公の泊まっている図書館とは別だが、図書館であることに変わりはない。そこで彼らは調べ物をする。
  • P66 入り口の石を探していると、カーネル・サンダースが星野青年の前に現れて、女の子を紹介する。石をどかして別世界の入り口に進んでいくにあたって、性欲が障害として立ちふさがっているということを、このシーケンスは示唆している。まずは性欲をどかさなければならない。ナカタさんは自己を失っており、性欲がない。そこに若さを持った星野青年が助けとなってペアを組み、「性欲の解消」という必要不可欠な行為に参与する。
  • P73 27章。2時47分。時刻のなかに章番号の数字がすべて含まれている。
  • P84 「課題」。すでに別記事で解説済み
  • P91 星野青年は長い距離を歩く。石を手に入れるためには、体力を消耗し、性欲を解消しなければならない。そうした様々なエネルギーを使い切ることで、はじめて我々は虚心坦懐に自分の内なる世界と向かい合えるようになる。
  • P109 幽霊の佐伯さんとカフカ少年はセックスをする。「そのせいで現実と夢が混じりあってしまったのだ。」という一文。上巻P43の「現実のありかたと心のありかたを区別することもまた難しい。」と同じことを意味している。
  • P114 「石のように硬直した」ペニス。入り口の石との関連性。
  • P114 「君にはなにかを選ぶことができない。」 星野青年はみずからの性欲を自分の意志で行使するが、カフカ少年は完全に受け身であり、性欲を消費させられる。彼は行為の最中に没我的になれない。乗り気になれないという意味ではなく、自己が分裂している。性欲に乗っかって快楽を味わっている自分と、それを突き放して見ている自分とに分かたれている。
  • P115,116 「僕の耳に届くのはかすかな床の軋みと、休みなく吹きつづける風の音だけだ。吐息をつく部屋と、そっと身を震わせるガラス窓。それだけが僕の背後に控えているコロスだ。」「そこにある窓は僕の心の窓であり、そこにあるドアは僕の心のドアだ。」 やはりここでも、比喩が現実と重なっていることが強調されている。心で起こっていることは、現実での出来事と同じ重要性があるのだ。だからこそ、心にアクセスし、課題を解決することが可能になるのだ。より心と現実の二つの世界をつなぎ合わせなければならない。このシーンでもだいぶ近づいているが、まだそれでは足りない。入り口の石をどかす必要がある。
  • P144 「仮説」。「なにもかもが二重の意味をもっているみたいに見えるんです」。メタファ―の説明。「ゼロ・パーセントか百パーセントか、そのどちらかもしれない」と佐伯さんは答える。主人公が「そのどちらなのか、あなたにはわかっている」と聞き、佐伯さんはそれに頷く。しかし佐伯さんは答えを言わない。このやり取りは重要で、P470の佐伯さんとの対話につながっていく。
  • P145 特別な音楽を見つけた「とても遠くにある古い部屋」。心の奥の部屋。石を除かない限り、入っていけない場所である。
  • P146 大島さんの「スペイン戦争に参加するんだ」。後のシーケンスの予告。すでに何十年も前に終わってしまった過去の悲惨な出来事に、現代の自分もコミットしていきたいという気持ちの表れ。佐伯さんの過去の恋にコミットしていきたいというカフカ少年による意思表明の、前フリとなっている。
  • P153 主人公の一人称が“僕”から“君”に切り替わる。これは、カフカ少年が佐伯さんの過去の恋人に見立てられている時に起こる現象である。このシーンはP115の場面よりもさらに心と現実が重なり合っている。
  • P165 雷が鳴る。次の章の、佐伯さんが雷に打たれた人の本を書いたというシーケンスと、遠い重なりがある。連想が働くというていどの婉曲的なつながりである。二つの異なる立場の間に、強い共感、共時性のようなものが働いていることが感じられる。(すでに数章前に)物理的な距離も近くなっている。
  • P168 ナカタさんが自分がからっぽであることを星野青年に告白する。女教師に頬を叩かれて以来、彼はからっぽになってしまった。それはどのような状態なのか。
    • からっぽであるということは、自分の考えと意味を失くした状態のことである。意欲がわかない。性欲さえない。
    • そのようなからっぽの状態は、悪を呼び寄せやすい。ナカタさんはジョニー・ウォーカーの影響を受けて、彼を殺してしまった。しかしそれはまた、自己を取り戻す方向へと進んでいく出発点でもあった。そこでは怒りが鍵となっている。
    • 特殊な能力が身につく。猫と話す。空からものを降らせる。それは危険なことを引き起こしかねない力でもある。
  • P172 「ナカタは出入りをした人間だからです」。ナカタさんは昔、自分自身の肉体から心を引き離して逃げ出した。あまりにも辛いことがあったからである。肉体は箱であり、心はその中身である。逃げ出した時、彼は中身を半分失ってしまった。半分しか身体に戻ってこなかったのである。そのような状態が、“からっぽ”である。
  • P195 カフカ少年の父親は、ゴルフ場でキャディーのアルバイトをしているときに雷に打たれた。これはフィッツジェラルドの『冬の夢』という短編からの形を変えた引用と思われる。主人公のデクスターはゴルフ場でキャディーのアルバイトをしているさなかにジュディー・ジョーンズという美しい少女と出会い、「強い感情的なショック」を受ける。恋に落ちることと雷に打たれることとの間のイメージ的なつながり。
  • P201 雷が鳴る。「まるで失われた道義を隅々まで糺すかのように、落とせるだけの稲妻を矢継ぎ早に落としたが、やがては東の空から届くかすかな怒りの残響へと減衰していった。」「目に映るすべての建物が雨に濡れ、ところどころの壁に走ったひびは年老いた人の静脈のように黒ずんでいた。」 ナカタさんの怒りが雷に反映されていることを示唆している描写。何度も読みたくなる、優れた、力のある表現。
  • P221 35章の冒頭。「洞窟の入り口に向けて歩きはじめる。そして「もう少しでみつかるところだったのにな」と思う。でも同時に、それがみつからなかったことに内心ほっとしてもいる。」 ナカタさんが入り口の石をひっくり返したことの影響がここに表れている。カフカ少年はより心の深い領域へと進んでいく。
  • P253 海の匂いがするとナカタさんが言う。星野青年には匂いが分からない。ここでも海と猫が共通した性質を持っていることが示されている。からっぽであるナカタさんは海と猫に距離が近い。星野青年には未来があり、ナカタさんとは違ってからっぽではない。
  • P284 ナカタさんが文字が読めないことの辛さを告白する。星野青年はベートヴェンの説明をする。すなわち耳の聞こえない作曲家の辛さについて語る。我々はここで、言葉が無力であることを心底感じている小説家について、考えずにはいられない。『海辺のカフカ』はそのようなレベルから、これよりも下がないというゼロの地点から物語が立ち上げられていると言っていい。この傾向は『1Q84』においてさらに顕著になる。
  • P285 ナカタさんが夢の中の出来事について語る。字が読めるようになり、図書館に行ってたくさんの本を読む。しかし途中で急に暗くなり、本が読めなくなってしまう。この箇所はカフカ少年が図書館でたくさんの本を読むことと対比されている。カフカ少年は正しいコースを進んで成長しているのに対し、ナカタさんはそのような道を歩めないまま歳を経て、老人になってしまった。もはや人生を取り戻せない。それは、悲しいことだ。
  • P287 ニュースという形で、カフカ少年の父の芸術家としての功績が語られる。上巻でも強調された。これは星野青年の章で言うと、ベートーヴェンのエピソードに相当する。ベートーヴェンの大公トリオの素晴らしさや、葬式に大勢の人が列席したことに当たる。
  • P324,P327,P360 ベートーヴェンの伝記を星野青年が読む。ベートーヴェンの優れた能力と、気難しい性格が強調される。星野青年はベートーヴェンを批判する。「だいたいは本人の責任なんだよな。ベートーヴェンってのは、もともと協調性というようなものはほとんどなくて、自分のことしか考えてない。」 ここは非常に大事な部分である。この文章に村上春樹の考え方が開陳されているからだ。古い、典型的な芸術家の生き方を彼は否定している。優れた作品を作ろうとして無理に自己の内部の部屋のドアを開けても、善き結果は訪れない。その分だけ、正確に周りの人間に毒が投げつけられることになる。「自分のことと、自分の音楽のことしか頭にない。そのためには何を犠牲にしたってかまわないと思っている。」 ここも『海辺のカフカ』を読み解くにあたって避けては通れない箇所だ。作家は、他の物を犠牲にして、自己を目的として芸術作品を作ろうとしても、結局は不幸に陥るだけだと主張しているのである。佐伯さんがP360で、『海辺のカフカ』という曲を作ったことを語る。彼女は「そのような侵入や流出を防ぐために」と語る。つまり、『海辺のカフカ』の作曲は自分のために行ったことである。結局のところそれは悪しき結果しか呼ばなかった。以上の議論を念頭に置いて、今度はP326の星野青年の台詞に戻ってみよう。「あの人(ナカタさん)ならひょっとして偉人になれるかもしれないね」。ナカタさんは自分自身を目的としない。彼は自己を犠牲にしてカフカ少年を助ける。
  • P362 佐伯さんが自分の書いたものを燃やしてくれとナカタさんに頼む。カフカは原稿を焼いてくれと友人に頼んでから亡くなったが、友人はそれに逆らって原稿を刊行した。しかしナカタさんは本当に佐伯さんの書いたものを燃やしてしまう。ここにも芸術作品を尊重しない作家の考え方が表れている。重要なのは人の方であって、作品ではない。佐伯さんは森の深部で、カフカ少年に向かって自分を覚えていて欲しいと訴える。そのような記憶の引き継ぎにこそ意味があるのだ。それによって若い世代は癒され、また過去の世代の罪を赦すことができ、物の見方にも幅が出て、人間性が成長する。もしもそのような人格の発展に寄与しないのであれば、“作品”には価値などない。
  • P370 ここからカフカ少年は異世界に入る。森の深部。ガイドとして姿を現す二人の兵隊は戦争という遠い傷の記憶と結びついている。カフカ少年はスプレーや鉈や食料などを置いていく。無防備にならない限り、心の深い所に到達することはかなわない。イシュタルの冥界下りのように、自分の身を守るものが剥がされていく。
  • P373 「僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?」 これがカフカ少年の課題であることが明快に宣言される。課題は後で、佐伯さんとの対話によって解決を見る。
  • P397 ナカタさんが死ぬ。入り口を閉じる仕事が星野青年に引き継がれる。
  • P422 『サウンド・オブ・ミュージック』がテレビで放映されている。上巻の女教師の引率のエピソードを想起させる描写。森に女教師の魂はまだ留まっている。実際にあった現実とは裏返しの光景がテレビに映されていることになる。このような婉曲的なつながりの描写は、村上春樹の持つ優れた技術のひとつだ。反転がおこなわれている所に彼の技術の巧みさがある。『サウンド・オブ・ミュージック』からさらに連想の手が伸びていき、カフカ少年はこう考える。「もし僕の少年時代にマリアのような人がそばにいてくれたら、僕の人生はもっとちがったものになっていたことだろう(はじめてその映画を見たときにもそう思った)。でも言うまでもないことだけど、そんな人は僕の前には現れなかった。」 彼の持つ課題がくりかえし強調されている訳だが、同時にその嘆きはナカタさんの過去とも重なりあっている。読者の視点ではそのように見える。 
  • P439 星野青年が石に向かって語りかける。自分の人生を語る。彼は石を介することで、自分自身に向かって語りかけている。このシーンは『1Q84』でさらに発展を見せ、Book2終盤において、天吾が意識の戻らない父に向かって話す場面へと繋がっていく。
  • P455 47章が始まる。森の深部でカフカ少年が佐伯さんと対話する。本作でもっとも重要な章。
  • P470 以前こちらの記事で解説した場面。

「あなたは僕のお母さんなんですか?」、僕はやっとそう尋ねる。
「その答えはあなたにはもうわかっているはずよ」と佐伯さんは言う。
 そう、僕にはその答えはわかっている。でも僕にも彼女にも、それを言葉にすることはできない。言葉にすれば、その答えは意味を失ってしまうことになる。

答えとはつまり、佐伯さんはカフカ少年の母親ではない、という事である。それが事実だ。だがそれを言葉にすれば、メタファーは失われてしまう。だからP144においてもここにおいても、佐伯さんは明言を避けているのである。彼女はカフカ少年のメタファーを受け入れたかった。それには理由がある。まず、彼女はカフカ少年の魂の孤独を見抜き、その解決を手助けしてやりたかった。佐伯さんが母親役を引き受けてくれたからこそ、カフカ少年は自分を捨てた母親を赦すことができた。次に佐伯さんはおのれの死を前にして、カフカ少年をメタファーにすることで過去の恋人ともう一度抱き合いたかった。そうすることで最後に自分の課題を清算したかったのである。それは自己を犠牲にして若い世代を助けるという行為によって決着がなされるものだった。

  • P484 星野青年は悪しき者を殺す使命を授かる。石によって“入り口”が開かれた。その先には異世界が広がっており、自分の心のみならず無数の他者の記憶が入り混じっている。入った者次第では、その人が持つ心の課題を解決するための重大なきっかけが得られることだろう。だがそこは悪が侵入しやすい、あるいはもともと奥で眠っていた悪が目覚めて、逆流しやすい場所でもある。誰かが入り口の外に立って、悪しき記憶の逆流を監視し、出てこようとした者を抹殺しなければならない。星野青年はカフカ少年とは異なり、とうとうナカタさんの過去の詳細を知らないままだったが、そのような過去との微妙な距離のとり方こそがむしろ彼の力となっており、現実の秩序を守っていくために役立っているのである。なお、古い、傷ついた記憶と怒りの逆流というテーマは、『騎士団長殺し』でも扱われた。

 その他

事物があり、その後に、過去の記憶をもとにして比喩が現れてくる。それがプルーストの比喩である。それに対して、本作はまったく逆の方向を向いている。事物は、逃れようとしてきた辛い過去に決着をつけ、未来に向かっていくための起点である。すなわちメタファーの開始点である。人はメタファーを梃子にして、むしろ事物の方を動かす。そのような力強い意志が表れているのが本作である。このような“逆方向の意志”は『1Q84』に繋がっていくテーマである。『海辺のカフカ』なしに『1Q84』はなかっただろう。

また、プルーストが芸術作品に至上の価値を置きそれを目的としたのに対して、『海辺のカフカ』は人間の方に重きを置いた。芸術の価値もむろん認め、積極的に賛美しているが、それを一番の位置につけてはいない。芸術を賛美する際も、大島さんが星野青年に向かって語りかける時の台詞を注意して読んでみると、自己を高めることに力点が置かれていることが分かる。芸術はあくまでもそのような場所に到達するための通路に過ぎない。

海辺のカフカ』は、絵であり、曲であり、また小説でもある。プルーストの『失われた時を求めて』には三人の芸術家が登場するが、これらの三つに対応している。画家のエルスチール、作曲家のヴァントゥイユ、作家のベルゴットである。

『海辺のカフカ』の読解メモ・上巻

以前『海辺のカフカ』を読んだ時にメタファーについて説明する記事を書いた。

そのまま一回しか読まずに置いていたので、最近再読を初めた。以下は頭から読んでいった時のメモである。ページ数は文庫版に準拠している。この記事では上巻を扱う。

  • P43 主人公があるバンドのメンバーに似ていると、さくらが言う。これは本作を貫いているメタファーを予告するような効果がある。
  • P46 さくらが「私はコクゴが昔から弱いの」と言う。本作はかなり易しい語彙によって綴られている。同じ作者の『1Q84』などと比べてみるとそれは明らかだ。そのことを読者に示唆する台詞のようである。
  • P49 さくらは自分の姉ではないかと主人公は疑う。これもP43と同じ。
  • P49 「現実のありかたと心のありかたを区別することもまた難しい。」 本作のメタファーの性格を説明している一文。心の中で起こっていることも現実で起こっていることも、本人に体験されているという点はまったく等しく、同じ価値がある。だからこそメタファーによって体験される自己の記憶やその記憶の抱えている問題の解決は、はっきりとした現実の一部であり、確かにあり得ることになる。
  • P72 大島さんが登場する。彼は物語のなかで主人公のことを助ける役割を担っている。しかし彼は主人公に対してコミットしない。主人公のドラマに決定的な役割を果たさない。そのような離れた距離を保つために、彼には肉体は女性でありながら性同一性障害であり、なおかつ……というややこしい性質が付与されている。彼は物語にコミットしないよう、ニュートラルな立場であり続ける。
  • P80 佐伯さんが登場する。主人公は彼女を母親かもしれないと思う。
  • P100 ナカタさんの章で、性欲の話が出て来る。ナカタさんには性欲がない。これは後にナカタさんが“石”を動かすエピソードと関連している。星野青年は女性を買って性欲を解消する。このことと、ナカタさんには性欲がないということとが合せ技になって、石を動かすことが出来た。このことは後で詳しく書く。『1Q84』でふかえりとセックスをした天吾が自分の「中心」を見出すというエピソードとも関連がある。
  • P106 ナカタさんの影が薄い。半身がどこかにはぐれてしまっている。
  • P119 カフカの『流刑地にて』の処刑機械は現実に存在したのだ、と強調される。比喩ではない、と。やはりこれも本作独特のメタファーへの言及である。心の内で起こっていることと現実は等価である。
  • P116 主人公が『千夜一夜物語』を読む。「ずっと生き生きと迫ってくる。」 これはすぐ後のページ(一つ上の項目)で言及される、メタファーの現実性と関連がある。『失われた時を求めて』は作中何度も『千夜一夜物語』に言及する。このおとぎ話の中では、色んな登場人物や魔人が別の物に変身する。それは作中では現実に起こったこととして扱われている。そのような変身があるいっぽう、『失われた時を求めて』においては、主人公の心の内側で起こっていることとして比喩が活用されている。文章の冒頭に差し出されたものが、比喩によって次から次へと変身させられていき、末尾でそのような変化の帰結を語るというパターンがくりかえし現れている。ここで、「なぜ作者は『時』ではなく『千夜一夜』の方を取り上げたのか?」という疑問が浮かび上がってくる。もちろん答えは決まっている。『千夜一夜』を選ぶことで、彼は『海辺のカフカ』独自のメタファーを主張しているのである。
  • P123 8という数字が最後に提示されて7章が締められる。ページをめくると、また8という数字が目に飛び込んでくる。第8章に移ったのである。
  • P139 「逆トリガー」がナカタさん自らの血であることが示される。本作において、血がふりかかるということには重要な意味が込められている。
  • P144 主人公にも血がふりかかる。時空間や文脈を超えて、血という現象がつながりを持っている。
  • P163 猫のミミが猫のカワムラさんをはたく。カワムラは会話がろくにできず、ミミから差別されている。ここでは言葉の弱さ、無力さというものが強調されている。実際同じ作者の他の作品と比べてみると、『海辺のカフカ』には華麗な比喩や言い回しが見られない。村上は敢えてそれを避けたのである。彼はむしろ意識して国語力とでも言うべきものを落としているようだ。それがP46のさくらの台詞に表れている。
  • P199 女教師のエピソード。ナカタさんの中身が破壊され、虚ろになってしまったことを説明している。『海辺のカフカ』の最初の山場。読者を物語の世界に引っぱり込む、力のあるエピソード。
  • P217 「そして私の魂の一部はまだあの森の中にとどまっております。」 別記事ですでに解説したが、終盤における佐伯と主人公の対話は、この女教師のエピソードを踏まえたものになっている。そのことをあらかじめ宣言したのがこの一文である。
  • P280 さくらにしてもらったことを振り返って、主人公はこう思う。「僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。」 自分の中に眠っている、普段は抑圧している欲望を我々は自覚しなければならない。そしてそれと対決していくべきだ。抑圧していても問題は解決しない。それを何らかの方法で叶えていくべきだ。あるいは、別の課題へと変換していかなければならない。カフカ少年の場合は、佐伯さんとの対話によって母親という問題を解決することができた。このポイントはもちろんメタファーと密接に関連している。メタファーによって人は自分の切実な記憶と向かい合うことになるからだ。
  • P278 「人々が僕を非難し、責任を追求している。みんなが僕の顔をにらみ、指をつきつける。記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う、「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなければならない。」」 この文章には複数の意味がある。ひとつは、まずさくらとのこと。性欲の問題である。次に、父親への憎しみである。ナカタさんがカフカ少年の父親を殺害した。もちろん(作中の)現実のレベルにおいては、これにカフカ少年は関わっていない。しかし本作が言ってるのは、自分がやっていないことについても、起きたことに注目して、自分がやったことなのかもしれないと積極的に受け止めていく姿勢なのだ。現実を利用して、逆に、自分の内面を探り、それと対決していく態度こそが我々には必要なんだ、という主張なのである。この主張は太平洋戦争ともつながりがある。
  • P345
    • ナカタさんは怒りを炸裂させてジョニー・ウォーカーを殺害した。その結果、彼は猫と会話ができなくなる。彼は自己を取り戻しつつある。そのため猫との親和性がなくなり、話せなくなった。そしてナカタさんはその後、色んな人と会話するようになる。警察官。女性の会社員。男性の会社員。トラックの運転手などである。
    • 大島さんがこの次の章で、海と猫に関連性があることを指摘する。『1Q84』の猫の町のエピソードまで考慮に入れると、猫と海は、自己を失うという意味において共通した性質を持っていることが言えそうである。猫と海に近づくと、人は自己を失い透明になり、他人の記憶を受け入れやすい状態になる。河合隼雄が解説したユング集合的無意識に近づく。それは自己を更新する機会であるとともに、危険な状態でもある。ナカタさんはそこに行ったっきり、不運にも戻れなくなってしまった人に分類される。
    • ナカタさんは移動を開始する。かたや主人公は次の章で移動をやめる。主人公は図書館に泊まり込むことになる。移動と停滞の役割交換がなされる。
  • P380 大島さんの台詞。「長く置いておくと、近所の猫が来て(昼食を)食べてしまうかもしれない。このへんは猫がずいぶん多いんです。海岸の松林に子猫を捨てていく人が多いものですから。」 なんの関係もない話題のさなかに組み込まれているので見落としがちだが、意味がある。一つ上の項で解説済み。
  • P384 「うつろな連中」。大島の非難するうつろな連中、想像力を欠いた人間とは、この作品の中でカフカ少年がおこなっているような、自分の想像や秘められた欲望を自覚して積極的に責任を取ろうとする態度のない人たちのことである。彼らは己の課題に取り組もうとせず、その代償として、他人を攻撃する。
  • P385 「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」 リトル・ピープルと似た概念。
  • P399 トラックの運転手とナカタさんが、関係性について議論する。これは比喩と関連がある。ナカタさんが黒い犬と知事を重ね合わせる文があるので、それと分かる。比喩は、本人の好き嫌いと関係がある。食べ物の好みの話が出て来るのは、そのような性質を説明しているのである。
  • P409 星野青年が登場する。ここでは彼を意味する主語は、まだ「運転手」である。本作の特徴として、登場人物を指す主語が次々と変化していくことが挙げられる。したがって、主語にはつねに注目しておかなければならない。
  • P412 「へえ、どの戦争?」 星野青年が過去と切り離されたまま生きていることを表した台詞。過去、特に人が傷ついた過去について何も知らない、接点や、受け取るためのチャンネルがないことが示されている。
  • P413 新聞の紙面。カフカ少年の父が刺殺されたことが載っている。彼の芸術家としての功績が語られている。「優れた芸術家が死ぬ」というのは『騎士団長殺し』においても語られるシーケンスであり、物語の中で重みを持っている。
  • P428 カフカ少年が父を批判する。「そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。」 これは下巻のナカタさんの側の章で、星野青年がベートーヴェンについて知ることと関連がある。優れているものの、傲慢な芸術家によって周りの人間が損なわれるということ。
  • P435 「青年」。
  • P437 「星野さん」。
  • P451 ナカタさんの半生が語られる。自分が失われるということは、猫に近づいていくこと・親密さを覚えることと関連があると分かる。そこで人は安らぐことが出来るのだが、長い間とどまっていると、戻れなくなる。『1Q84』においても猫の街が出て来る。
  • P459 佐伯さんの幽霊と会う。分裂した自己。『1Q84』でも繰り返されたテーマ。

非対称な一対の存在

1Q84』を読んでいてつくづく思うのは、この作品は論理の構築物であるということだ。これほど理路整然としたパズルも他にない。この記事では、本作の随所に顔を出す「非対称な一対の存在」について言及していく。

 不揃いのペア

1Q84』には“海”を軸にした直喩が頻繁に登場する。これは“二つの月”と対になっており、二つの月は青豆と天吾、青豆の不揃いな乳房、母親と娘などの暗喩になっている。つまり海と月は、直喩と暗喩というペアになっている。それは潮の満ち引きが月の引力の影響下にあるということと、イメージ的な繋がりがある。

作品を隈なく見ていくと、実はこのような「不揃いのペア」と言うべきものがあちこちに登場していることが判明する。

たとえば大塚環と青豆は親友だが、環は美人であり、生まれながらにして人に好かれる性格だった。青豆は整った顔をしているものの、美人とは呼べず、人から好かれない女性だ。環は自分の怒りを思うままに表現することができず自殺するが、青豆は彼女に代わってそれを自らの怒りとなして、行動に移す。彼女たちは異なった性質を持った、しかし仲の良い一対の存在だった。

青豆と天吾もまた非対称な一対の存在としてとらえることができる。Book1から2にかけて、青豆は常に移動する存在としてある。対して天吾は移動量が少なく、彼の大切な仕事は自室で行われる。これは青豆の仕事が出先で行われるのとは異なる。さらに二人は名前の扱われ方まで違う。青豆は主に名字で呼ばれるが、天吾は名前で呼ばれる。いや、そもそも彼らは性別だって別ではなかろうか。そのようなさまざまな相違にも関わらず、彼らが本作においてもっとも重要なペアであることに異論をとなえる人はまずいないだろう。

このようにして、二つの月の色と大きさが異なっているように、性質に差異があるが、それゆえに惹かれ合う一対の存在というのが、作中での“正しい”存在なのである。この倫理は空気さなぎのエピソードにおいても確認できる。ふかえりは空気さなぎを紡いでドウタを産みだすが、出てきたのは自分自身だった。この話は作中では否定的に扱われている。それに対して天吾の産みだした空気さなぎは、青豆をその場に具現した。つまり自分とまったく同じものを作り出してそれと向かい合うのは間違っており、異なる存在を希求して向かい合う姿勢こそが正しいのだ、という価値判断がここでは提示されているのである。

 影響力の方向について

このようなペアの性質を深く掘り下げていこう。

“海”を軸にした直喩には、見逃せない大きな特徴がひとつある。それは、あらゆる登場人物が海の直喩を口にしているという点だ。しかもそれと知らないまま口にしている。天吾の小学校の女教師は「岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かない」という台詞を言うし、タマルも牛河を拷問する際には「海の底を歩く」という言葉を使う。彼らは二つの月を見ていないにも関わらず、月の引力の影響下にあるようだ。

次に環と青豆について分析を試みると、まず目がいくのは青豆の激しい怒りである。その怒りは環に由来している。環が夫から受けた深い悲しみや傷は、彼女の隠れた所に蓄積していった。それは決して分かりやすい形としては顕れなかった。表に現れたのは、自殺という形を取った時だった。青豆はその目に見えない悲しみや傷を正確に知覚し、影響を受けて、怒りという形に変換して行動に移した。つまり、環が青豆に影響を与えているということが分かる。

これら二つのペアに共通しているのは、影響の方向性だ。すなわち月→海のように、環→青豆という一方的な影響力のベクトルが存在している。しかも影響を及ぼす側は隠れており、影響を及ぼされる側は露わになっているという点も同じである。また影響元の力は、別の形に変換されて影響される側に現れている。

このような構造は、電波とテレビ、パシヴァとレシヴァという関係性によっても暗示されているようだ。

ところで、「月が見ている」という表現がたびたび作中に出て来るので、影響力の方向性というものが登場人物たちにもたびたび意識されていることが分かる。次のパートでは、影響を及ぼされていることへの自覚について述べている。なお「見られている」ということを知覚できるかどうかという題材は、牛河の覗きをふかえりが察知するというシーケンスとも関連があるのだが、本記事では扱わない。

 影響力の自覚、そして双方向の力

さらにこの影響力の在り方について仔細に見ていく。すると、作中にはさまざまな影響力の在り方が描かれていることが理解されてくる。

環の時には、青豆はその怒りがどこに由来しているのかという自覚がなかった。彼女は自分の意志であると思いながらも、なかば操られているようでもあった。一方、老婦人に従って仕事をしている時には、影響を受けていることの自覚が彼女の中に徐々に現れてきているように私には思われる。

それは、最初は無自覚なものだった。しかし老婦人が青豆に向かって、あなたが自分の娘であるように思うと繰り返し伝える場面においては、青豆の中に少しずつ老婦人への反感が募ってきているようである。典型的な小説の技巧として、同じことの繰り返しによって読者の心理を逆方向に導くというものがあるのだが、この手法が適用されていると受け取ると、前述の場面は二人の別れを暗示していると捉えることが可能である。(この手法については以前別記事で解説した。) 青豆はのちに老婦人からの要請、すなわち顔を変えることを拒み、精神的に完全な自立を果たす。つまり彼女は影響元を自己の中から排除したことになる。

次にふかえりと天吾について見ていこう。彼らもまた非対称な一対の存在だ。ただし、ふかえりはあくまでも青豆の仲介者にすぎず、一時的な存在である。だからBook3では存在感が薄くなっている。

天吾はふかえりがどのようなメッセージを送っているのか理解できずに悩む。彼は、影響を受けていることは自覚しているのだが、その正体を正確に掴むことができていないのである。ただし天吾はふかえりと交わった夜に、自分の「中心」にあるものを発見する。それは青豆だった。青豆こそが自分に力を及ぼしている発信源であることを彼は突き止めたのである。

このような段階を経ることで、彼はBook2の終盤で青豆に呼びかけることに成功するのである。それは功を奏し、Book3の青豆の生存へと繋がっていく。「遠い声」が彼女を拳銃自殺から救った。

以上の分析から、さまざまな影響力の在り方、影響力との付き合い方があるということが分かってくる。そのもっとも典型的な発展の段階は、次のようになると私は考えている。

  1. 影響元が存在しているが、影響を受けている自覚がない。
  2. 影響を受けていることを自覚する。
  3. 影響元が何なのか分からないが、それを突き止めようと努めている。
  4. 影響元を突き止めた。
  5. 影響元に対して、逆に、自分から働きかけようとしている。
  6. 影響元と出会った。

そして、このような複数の成長段階をお互いに引き合っている二人の男女が同時並行的に上っていき、双方向に呼びかける場合に、その力はもっとも強いものとなり、あらゆる悪運をはねつけて奇跡さえ引き起こすのである。その帰結が二人の再会であり、元の世界への帰還なのだろう。二つになった月が元通り一つに戻る意味が、我々には今ようやく理解できる。月が二つに分かれていることは遠い昔に失った片割れを思い出す予兆であり、それが一つに統合されることは、再会を意味しているのである。