『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み解くにあたってまず心がけておかないといけないことは、この作品はハードボイルドのスタイルで書かれた「ハードボイルド・ワンダーランド」の側が主で、「世界の終り」の側は従であるということである。本書はそのように均衡を取らない構成になっている。おそらく村上春樹は当初自分なりのハードボイルドのスタイルを確立させようとして本書を書き始めたのだが、上手くいかなかったのだろう。そこでハードボイルドの側からこぼれて落ちてしまうものを補償するものとして、もう一つのパートを並行させて進めようと思い立ったのではないだろうか。それが「世界の終り」である。ではその「こぼれ落ちてしまうもの」とは一体何なのか。それは本作の次の個所に明示してある。

 私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。
 もっと若い頃、私はそんな哀しみをなんとか言葉に変えてみようと試みたことがあった。しかしどれだけ言葉を尽してみても、それを誰かに伝えることはできないし、自分自身にさえ伝えることはできないのだと思って、私はそうすることをあきらめた。そのようにして私は私の言葉を閉ざし、私の心を閉ざしていった。深い哀しみというのは涙という形をとることさえできないものなのだ。

言葉にできない"哀しみ"を表現するにあたって、ハードボイルドの側だけでは不十分だったのである。正確には、ハードボイルドの側だけでもそのような哀しみは充分表れているのだが、それだけを描き続けるという行為は作者に異様な緊張を強要するものだったので、書き切るための補助器具として「世界の終り」が必要とされたのだろう。完全な世界など存在しない、ということが繰り返し「世界の終り」のパートで主張されるが、これを「ハードボイルド・ワンダーランド」の側に置き換えて話せば、完全なハードボイルドの文体など存在しないということになるだろう。それは必ず歪みを生み出す。この場合の歪みとは、すなわち「世界の終り」のパートということになる。

ただ、それは単なる補助器具としてだけに終わるものではない。哀しみとは何なのかということと向き合い、心を取り戻すための出発点ともなりうる場所なのである。主人公は結局消滅してしまうわけだが、そのラストがどこかでポジティブな姿勢に通じているのは、ハードボイルドのスタイルだけでは得られなかったものに違いない。

なお本書を読み解くにあたって一番参考になるのはヘミングウェイの『武器よさらば』だろう。これこそ「涙を流すことのできない哀しみ」を十分に表現した「完全」なハードボイルド・スタイルの作品である。同作では最後にヒロインとその赤ん坊が死に、主人公はただ立ち去っていく。それは何も残らない虚無的なラストだ。村上作品と比較すると面白いだろう。

両パートの比較メモ

世界の終りハードボイルド・ワンダーランド
一人称が<僕>一人称が<私>
夢読み計算
最後のパートを務める最初のパートを務める
上75北の広場と南の広場上68右脳と左脳
上80<僕>が視覚を一部失う。サングラス上71聴覚を失う現象、音抜きが描かれる。
上83コーヒーがポッドごと出てくる。飲む。上70コーヒーをポッド一杯分飲む。
上122<僕>は頭骨に光を見出す。上161<私>は頭骨を叩いて音を聞く。
上122野菜の煮込みとパンを食べる。上94ハムとチーズときゅうりのサンドウィッチを食べる。
上304風邪をひく上316ナイフで腹を傷つけられる。
上302壁の持つ魔力的な威圧感が語られる。上329「おそらくその壁は私の限定された人生を暗示しているのに違いない」
町を囲む壁上389感情的な殻がとても固い
下14様々な鳥たちがパン屑のまかれた窓辺にやってくる上465くすの木に鳥がやってくる話
下212シャベルの扁平な音が続き、それは<僕>の中で空白を大きくしていく。ハードボイルド側のやみくろの音のあらわれか下208光で涙をこぼす。世界の終りでの記憶が逆流している
手風琴ハーモニカ
下338ダニー・ボーイを弾く下331ダニー・ボーイを唄う
下340頭骨が光る下344頭骨が光る
図書館の彼女によりそって心を取り戻すことを決意する下3845,6年前に妻が出て行った
図書館の彼女と寝ないピンクの太った娘と寝ない。図書館の司書と寝る。

その他

以上

村上春樹流の死と復活

文學界』の2018年7月号と2019年8月号に掲載された村上春樹の短編『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』と『ウィズ・ザ・ビートルズ』について考察する。両者に共通しているのは死と復活というテーマである。

どちらの短編も他者にかつがれるという点が共通しており、その結果、主人公は特に何の意味や目的も持たない空白の時間帯に身を置くことになる。『チャーリー・パーカー』ではレコードを探すが無為に終わり、レコード店の店主と話をする。『ウィズ・ザ・ビートルズ』ではサヨコと会えず、その兄と会話をすることになる。そしてそのような空白地帯で体験したことや言葉が、長い時間が経過して忘れ去られたのちに、特別な形をとってふたたび姿を現す、というのがどちらの物語においても基本的な構造になっている。

上記の「空白」の働きを説明しているのが、次に引用した『石のまくらに』の一節だ。「小ぶりな穴」というのがここで私が言っている空白を指している。

それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の嵐をうまく先に送りやってしまう。そして夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。

空白に埋め込まれた体験や言葉は、いずれ「地表に密やかに顔を出す」。具体的にはボサノヴァを演奏するバード、そしてLPを抱えた少女の姿のイメージとして復活するのである。それは人の心の中にのみ宿って永遠に生き続ける、確固とした像だ。現実に姿を見せるようなものではないが、それゆえにイメージとして、不変の生命を手にしている。

特に『ウィズ・ザ・ビートルズ』の場合はサヨコの死が犠牲となって働き、LPを抱えた少女の姿として昇華されて見事な復活を遂げている。この短編は、一度目に読んだ時はサヨコの自殺の方に印象が残るのだが、二度目に読んだ時はそれよりもレコードの少女の方にあざやかな印象が残るので、実に不思議な物語だと思った。

なお前述の引用には次のような言葉がすぐに続く。村上春樹は「復活には犠牲が必要だ」とあらかじめ明記しているのである。

しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。

キョン子と読むノルウェイの森

やる夫スレの短編『キョン子と読むノルウェイの森』を公開しました。

以下のまとめスレで読むことができます。

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yaruoislife.jp

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より詳細な内容を以下の記事で解説しております。

riktoh.hatenablog.com

(1~3まで続く)