コスタリカ307

よいブログ。

時折開く本について

旧約聖書を10年近く読み続けている。といっても読み込んでいる訳ではない。適当にページを開いて、出てきた所をすこし読むだけのことだ。それも一ヶ月に一度ぐらいの頻度である。

なんでそんなことをするのかというと、あまりにも理解できないので、かえって興味を惹かれるからである。この本にはいたる所に激しい怒りが表現されている。どこをとっても呪詛や嘆き、攻撃の言葉が吐かれており、どうしてこの人達はこんなに怒っているんだろうと疑問に思ってしまう。そして簡単に分かってしまうものよりも、難しいもの・分からないものに取り組んだ方が、理解できたときの喜びは大きい。そんなわけで、手元に置き続けている。

 作品と怒り

遅い足取りだが、それでもいくつか進展はあった。旧約を読むことによって分かったことがある。たとえば怒りと物語の関係性だ。

失われた時を求めて』の定型として、主人公ひとりだけが周囲にいる普通の人達には理解できない貴い世界を体験する、というものがある。こちらの記事で引用した「給仕をするボーイたちは……」で始まる文章だが、実はこの直後に次のような文が続くのである。

 ところで私は、こうしたすべての夕食客にいささか憐れみをもよおした。夕食客たちが、丸テーブルを惑星とは考えず、事物の慣習的外観をとり払ってさまざまな類似に気づかせてくれる区分けを目の前の事物には適用していないと感じられたからある。客たちが考えていることといえばせいぜい、これこれの人と夕食をしているとか、食事の費用はおよそいくらになるだろうかとか、……
 
マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』)

プルーストは自身の感受性を優れているものとして讃え、それが理解できない「普通の人達」を徹底的に軽蔑する。この型はスワンがカトレアにさんざん振り回された後に体験する音楽会においても見られるものであり、優れた文学や芸術を理解できない者たちに対する怒りから生まれてきたものだ。

また別の記事では『ドン・キホーテ』における怒りを解説した。やはりここでも自分の文学を批判する者たちに対する抗議が強い怒りの念とともに示されている。

では怒りとは何だろうか。それは、相手が間違っていて自分が正しいと感じることだ。それも傲慢な感情が伴っている。「いい気になる」ことだ。特に文学における怒りとは、ほとんど差別に等しいものである。そこでは優れた価値観だけがクローズアップされ、あらゆる角度で検証され、押し出される。それに反するものは醜く歪んだものとして描かれ、最後には容赦なく裁かれる。だからもし我々がある作品を理解しようと思うならば、まずはその作品が持つ価値観を理解することだ。これを一言で置き換えるならば、「どうしてこの人は怒っているのか」ということになるだろう。

『ハンター・ハンター』という漫画の冒頭に、「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ」という言葉が出てくる。これはつまり、以上のような議論を踏まえた言葉なのだと私は捉えている。

そして旧約聖書の怒りはとてつもなく凄まじいもので、内容から言って現代の日本人(私だ)には壁が高く、容易には理解できない。そのためかえって「知ろう」という意欲が湧いてくるのである。作品とは、つまり怒りの事なのだ。事実、この本を読んでいる最中に「分かった」と思える瞬間は、いつでもそこに記されている怒りが実感として把握できた時に限られる。

優れた芸術が多くの場合、他者から笑われること、軽蔑されること、謗られることと無縁でないことには、理由があるのだろう。

 ゲド戦記との関連

他にも読んで良かったと思うことがある。例えばゲド戦記の1巻『影との戦い』には旧約聖書のパロディと思しき場面がいくつも出てくるので、知っていたおかげで読解が深まった。

冒頭の「ことばは沈黙に……」という箇所は、創世記の「光あれ。」に反対しているのだろう。まず言葉があって、事物があとからそれに従う。そういう人間の傲慢な考え方にル・グウィンは抗議しているのだ。この考えは至るところに顔を出している。次の引用は、ゲドがロークの学院に初めてやってきて、大賢人ネマールと会うところ。

 ふたりの目が合った。と、木の枝にいた小鳥がさえずりを始めた。その瞬間、ゲドはすべてを理解した。小鳥の歌も、噴水の池に落ちる水のことばも、雲の形も、そして木の葉をそよがす風がどこから来てどこへ行くのかということも、彼にはすべてのことが明らかになった。自分自身が日の光の語ることばのひとつであるように彼には思われた。
  (ル・グゥイン著 清水真砂子訳『影との戦い』)

「自分自身が日の光の語ることばのひとつである」。つまり、ここでは人間が太陽を作ったのではなく、太陽が人間を作ったのだ、ということが語られているのである。「光あれ」という言葉が太陽を作ったのではない。むしろこちらこそが太陽の「ことば」なのであって、人間とはそのような小さな存在なのだ。

次は同じことを語っている場面。親友カラスノエンドウの妹がゲド(ハイタカ)に質問をする。

「だけどね、ハイタカさん、わたしにはもひとつわからないの。わたしは、兄が、いえ、兄だけじゃなくて、お弟子さんだって、暗闇でひとこと言うだけで灯をともすのを何回も見てきたの。ちゃんと、明るくね。道を照らすのはことばじゃなくて、あかりでしょ? あかりだからこそ、見えるんじゃないの。」

「その通りだよ。」ゲドは答えた。「光は力だ。偉大な力だ。われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。だけど、光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の進行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合とはちがうんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。だから、いろいろ出てきたとしても、それはみんな目くらましにすぎないんだ。」 

映画・ダンケルク

ネタバレがあります。

クリストファー・ノーランの『ダンケルク』を観た。ともかく、終始誰かから何かを貰いっぱなしという映画だった。主に戦地にいる兵士たちの視点で物語が進んでいくのだが、彼らは死んだ兵士から靴を貰い、水筒を同僚の兵士に分けてもらい、撤退する船では温かい紅茶やパンを手渡しで受け取り、民間人から私有の船を出してもらってそのスペースに座らせてもらう。またスピットファイアに撤退を助けてもらった上にそのパイロットには代わりの犠牲として敵軍の捕虜になってもらう。そして命からがらイギリスにたどり着くと、兵士の一人であるトミー二等兵はそこで目の見えない老人から毛布を与えられることになる。老人は目が見えないので、トミーの顔に手でさわって、それを確かめた。帰りの列車の中でトミーは子供から新聞をもらう。そこには英首相が撤退を称える演説が載っていた。トミーは負けた兵として自国の民間人から罵られるに違いないと思っていたが、それは裏切られ、歓迎を受けることになるのである。

徹頭徹尾、人から何かを恵んでもらう、それも犠牲の上に成り立つものを受け取るというお話だった。このような物語の軸を支えているのは兵士たちの疲れきった姿である。トミー二等兵やその周囲の兵士たちの疲弊した様子、恐怖、沢山の死、早く帰りたいという気持ちが描かれることによって犠牲というものの正当性が保障される。そのため物語が成立するのである。

この映画を後から振り返ったとき、物を受け取るというのはこういう事なんだなと非常に実感させられた。よくよく思い出してみると、兵士たちは特に感謝の念を表してはいなかった。安堵の表情を浮かべていたのは間違いないが、与えた者への感謝の念というのはない。彼らは打ちのめされて、ひたすら空っぽになっているのだろう。受け取るとは、そのような大きな穴を埋めたてるだけの行為に過ぎない。よく通る道に深い穴が開いていたので、土砂を持ってきて埋め立てなければならなかった。そういった物理的な出来事にも等しいものだ。
 だが人の心にはバランス感覚というものがあり、受け取りすぎると罪悪感が生じるようなメカニズムになっている。その吐露がつまりトミーの民間人から罵られるのではないかという予測なのだが、この物語はそれすらも赦し、肯定していく。

劇というよりは、夢を観ているような感じだった。すべてはリズム良く、連続的に流れていった。ストーリーは複数の線に別れて並行して進んでいくのだが、それらはバラバラになっているようでありながら、異なる二つの溺れているシーンが連結されて別のストーリーラインに移っていくところなどに、脈絡のない、しかし説得力のある夢の連想力を感じた。常に鳴り続ける不吉な低音が、それらバラバラの話をつなぎ合わせているようでもあった。

やはり現代の人間は、犠牲というものに興味があるのだなと思った。それも犠牲を良いものとして素直に肯定することに今は力点が置かれている。そういえば『騎士団長殺し』もそういう小説だった。

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冒頭に置かれた矛盾

冒頭に矛盾した表現を置いている小説は数多い。それらはしばしば小説のテーマと関わりがあり、新しい作品世界を立ち上げるための起爆力にもなっている。次に例を挙げる。

 長いこと私は早めに寝むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。
 
マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』)

解説すると、『失われた時を求めて』は語り手の受ける感覚や印象に忠実にしたがって綴られた作品であるから、意識のない睡眠の間には何も文章が書かれず、その前後がすなおに連結される。そして目が覚めた瞬間も眠りに落ちる前の意識が持続し、そのため「眠らなくては」と思い続けている、という訳である。これは単なる表層の論理だけを見て取ると、矛盾した表現になっている。すでに眠っていたのにそのようなことを思うのはおかしいからだ。しかし作品世界が持つ独自のルールと照らし合わせて読むかぎりにおいては、まったく矛盾にならないのである。むしろ矛盾によってそのようなルールが浮かび上がってきているとさえ言えるだろう。

ドン・キホーテの前篇の最初の章には次のような記述がある。主人公の食事の献立だ。

羊肉よりは牛肉の多く入った煮込み、たいていの夜に出される挽き肉の玉ねぎあえ、金曜日のレンズ豆、土曜日の塩豚と卵のいためもの、そして日曜日に添えられる子鳩といったところが通常の食事で、彼の実入りの四分の三はこれで消えた。
 
セルバンテス著 牛島信明訳『ドン・キホーテ 前篇(一)』)

荻内勝之の『ドン・キホーテの食卓』という本によると、金曜日はイスラム教、土曜日はユダヤ教、日曜日はキリスト教安息日で、食事の献立はそれぞれの宗教に対応した内容らしい。

 スペインには多くのユダヤ教徒イスラム教徒がいた。全土がキリスト教圏になってからそれらの人々のある者は追放され、ある者は自分の意志でスペインを出たが、キリスト教に改宗してスペインに残留した者のほうが多かった。時代を代表するほど敬虔で活動的な信者が改宗者やその子孫である例も少なくない。
  しかし、その血筋はスペインの地に容易に溶けこまなかった。溶け込んだかに思われた血も国家や世間の手で執拗に掘り返されて、モリスコ、あるいは改宗者の烙印を押された。
 
(荻内勝之著 『ドン・キホーテの食卓』)

ここで重要なのは、ドン・キホーテの素性が曖昧にされているということだ。複数の異なる方向性が同時に示されており、それらは矛盾している。そしてこのことはドン・キホーテという本に含まれている差別というテーマと関連がある。子供に羊の番をさせて搾取する農夫、ガレー船の漕手として酷使されるために護送されている最中の囚人など、さまざまな差別の場面がドン・キホーテには登場する。最終的にこのテーマは、ドン・キホーテのようなユーモアに満ち溢れた小説が一級の文学として認められず、軽蔑されているという事態と関わっていることが、『後篇』で開示される。作中で執拗に騎士道物語のパロディが繰り返されることには、このような背景がある。

最後の例として『1Q84』の初めの二行を挙げる。

 タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。
 
村上春樹著『1Q84』)

ぱっと見では論理的な矛盾と言えるようなものは何もない。少なくとも最初に読んだ時にそのような印象を受ける人はいないだろう。だが作品全体を貫いている箱の暗喩について理解が進んでから冒頭を読み直すと、また違った感想を抱くのではないだろうか。箱の暗喩については過去の記事で説明してきた。(, )

解説すると、タクシーは箱でありながら移動している物だが、このこと自体がすでに一つの矛盾だとも言えるだろう。

もうひとつは、“内”が閉じられた箱でありながらも、そこに“外”から啓示と言うべきものが送り届けられたということだ。タクシーの中は居心地がよく、そこに留まっていれば安全である。確かにドアも窓ガラスもあり、外からは遮断されている。しかしそのような青豆のもとに、奇跡的に優れた音楽が届けられる。それは外から内へと入り込んでくる。『1Q84』の箱の暗喩の構造が、この矛盾を意味あるものに強めている。

この記事で挙げた例は、いずれも矛盾によって言葉の持つ表層的な意味を破壊し、独自のルールを打ち立てるものだ。それは言わば爆発や卵が割れることにも喩えられる。破壊と創造のための第一歩なのだ。

また、予言的であるということも見逃せないポイントだろう。作品の持つ独自の性格は、やはり奥まで読み進めていかなければ読者には理解されないものだ。そのような独自性が最初に持ち出されるのが「冒頭に置かれた矛盾」であるため、それは作品全体を予言するような位置につくことになる。  物語は冒頭において後に起こるさまざまなことを予言しておかなければならない。そうでなければ書き手自身が道を見失ってしまうことだろう。『百年の孤独』では大佐があとに銃殺隊の前に立つことが予言されている。形式的には回想だが、よくよく物語の流れの大筋を考えてみると、実は予言的な働きをしていると捉えた方が正確であると分かる。『失われた時を求めて』では語り手が住んだ部屋について描写がなされ、『風と共に去りぬ』ではパーティの場面において主人公が後で結婚することになる異性たちが登場するのである。