コスタリカ307

よいブログ。

『城』と『1Q84』

以前、『1Q84』とカフカの『城』の関連を指摘したことがある。

riktoh.hatenablog.com

1Q84』はカフカのテーマと深い関連を持っているように私には思われる。この小説の印象的な場面のひとつに、天吾が父親から「あなたは何ものでもない」と告げられる箇所がある。「何者でもない」という言葉は、実は原田義人訳の『城』においてこれでもかというほど繰り返される表現なのである。主人公Kはいちおう測量士という職で食ってきた人で、城に来たのもその仕事をするためだったのだが、なぜかいつまでも仕事に取り掛かれない。そこで彼はいろんな人から「何者でもない」と言われ続けることになる。

私はカフカカフカ以前の文学を読み、彼の手法を研究したい。それはきっと1Q84の理解を深めてくれるだろう。今そういう予感を抱いているのだが、時間と気力がなく、K同様まったく取り掛かれていない。

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『ノルウェイの森』を読む 3

次の記事からの続きとなっている。

riktoh.hatenablog.com

 言いたいことを言葉に出来ないというテーマ

最後に「言いたいことを言葉に出来ない」というテーマを取り上げる。この主題は上巻P45で初めて直子の口を通して宣言される。

「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

次はP62から。

 たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。

「彼女は僕に何かを伝えたがっている」という部分は大事である。それは伝えられることによって初めて形を獲得するたぐいのものなのだ。上手な受け取り手・聞き手がいて初めて話し手もその正体を把握し、伝えることができるようになる。話し手だけが存在していても上手く行かないのである。

しかしこの説明では分かりにくいであろうから、実際に成功している例を見てみよう。そうすれば腑に落ちてくる。実は緑は「うまくしゃべることができない」ことをどうにかして上手く伝える天才である。

上巻の半ばで主人公は初めて小林書店、つまり緑の家に行き、そこで昼食をごちそうしてもらう。そこで緑は父親について話すときに、本当のことを言うのを避け、ウルグァイに行っていると「僕」に言う。事実としては、父親は病院で死に瀕している。そして緑はその看病で疲れているのである。この箇所をよく読むと、緑は家族について話すときに父親の話を最後に持っていき、かつ間を置いていることが分かる。

「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど」
 緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。
「そう」
「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。

つまり緑は父の死が目前にせまっているのが辛く、はっきりと言葉にしにくいのである。直子であれば、ここで何も言うことができずに静止してしまうだろう。しかし緑はわがままを言うこと、相手に嘘をついて振り回すことによって己の鬱憤を発散しつつ、真実への第一歩を踏み出していくのである。なるほど、ウルグァイに行ったというのは嘘であろう。しかし簡単に手が届かないところに行ったという点においてはそれもまた真実なのだ。緑は聞き手である「僕」がそのような嘘に付き合ってくれるからこそ、初めて「うまくしゃべることができない」ことを伝えられるのだ。このようなステップを踏まずに緑が主人公を病院に連れていくことは、おそらくなかったと思われる。病院で昼食を食べているあいだ、緑は看病の苦労を主人公に率直に吐露する。長いステップを通過して、ようやく緑はそのような苦しみを主人公に伝えることに成功するのである。

さて、昼食のあと緑と「僕」は火事をながめながら歌を歌いビールを飲む。そこでは母が死んだときの気持ちが緑の口から語られる。緑は悲しくなかった。彼女の心の奥ではなにかが複雑に絡まり合っていて、素直に悲しめないのである。注目すべきなのはその時の煙の描写だ。

「(略) べつに嬉しかないわよ、お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」
 なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。

緑は涙一滴「出ない」。しかしすぐ目の前では煙がいっぱい「出てくる」。この対応性から、どうやら煙の描写に緑の心情が表れているらしいと分かる。緑は何を言うためにこんなにも饒舌にしゃべりつづけているのだろう。「いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろう」? その疑問はつづく緑の言葉によって解かれることになる。母も父も自分に充分なだけの愛情を注いでくれなかったという不満が、自然な感情の発露を妨げているらしいと分かってくるのだ。ところでこの小説は一人称で書かれており、この煙の描写も当然緑の話の聞き手である僕によるものだ。このことについて考えてみると、相手が「うまくしゃべる」ためには、聞き手の姿勢が重要であるということが明らかになってくるのではないだろうか。

主人公は相手が黙っているときでも、上手に言葉を引き出すことができる。緑の父親は病気のために喋ることも難しく、手術のために頭痛がして気力もない。何も食べようとしない。「僕」はそういう人を前に、自分の生活について話を始める。つまり、目の前の事態とは何の関係もない話をする。曲がったものを直すアイロンがけや、複雑にこんがらかった状況を整理するデウス・エクス・マキナについて喋る。そしておいしそうにきゅうりを食べる。それがきっかけで緑の父にも食欲がわき、きゅうりを食べるのである。そして主人公に緑のことを託そうとする。

以上の議論から、物語が緑の側にあるときは、難しいことを伝達すること・受け取ることが上手く行くらしいと分かる。しかし直子においてはそうではない。

直子は最後まで「うまくしゃべる」ことができないままその生涯を終える。読者の中には「何だかよく分からない話だった」という感想を抱く人も少なくないだろう。『ノルウェイの森』はそういうことを意図して作られた物語なのである。分からないまま相手が去ってしまうという話なのだ。残された側はただ苦しむしかない。鶴になった妻が逃げていく話や、月に行ってしまったかぐや姫の話と同じである。

今後、「僕」にはより根源的な「聞く」姿勢が求められるであろう。その姿勢は『1Q84』において明らかになる。

また直子の側も、より強くならなければならない。エネルギーが弱すぎては伝えることができないからだ。『海辺のカフカ』や『1Q84』においてその在り方は明らかになる。

なお類似したテーマを河合隼雄岩波現代文庫の『定本 昔話と日本人の心』で扱っている。あまりにも簡単に男と女が結合してしまうときは、それは悲劇的な結末を迎えやすい。それを乗り越えるためには、女性の側が「意志する女性」に変貌しなければならない。この結論はほとんど『1Q84』にあてはまっているように私には思われる。

『ノルウェイの森』を読む 2

次の記事からの続きとなっている。 riktoh.hatenablog.com

 生と死の包含関係

あるものが別のものを内に含むという構造が所々で顔を見せるが、これは本作を読み解く鍵となっている。このような包含関係には二種類のものがある。一つは生が死を含む、あるいは死が生を含むといった構造をしており、もう一つは庇護を意味している。重きが置かれているのは前者の方だ。

それでは重要なエピソードからさらっていこう。

まず、作品の冒頭で直子の口から不吉な井戸の存在が語られる。自分たちが今いる草原のどこかに危険な井戸が含まれており、その穴に落ち込んでしまった人は二度と這い上がれず、少しずつ弱っていって死んでしまう。この話には読むべきポイントが詰まっている。ひとつには、包含関係が語られているということがある。井戸が生者を飲み込み、死に至らしめる。よく読むと数ページ前に「まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。」とあるので、「緑が赤を含む」という構造の予兆が語られていると分かる。

また直子自身の口から死の予感が語られており、これが作品全体の方向性を冒頭で決定している。似たような挿話として「僕」が寮の屋上で螢を放すというのがある。瓶は直子の肉体、螢が魂を指している。いずれ直子は死んで魂が体から離れていくのである。

 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。(略)
 螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
 (略)
 螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

上記はすべて生-死の包含関係に分類される。この種の包含関係の例は上巻P54にも見つかる。「ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。」 そして忘れてはいけないのは、やはり次の一文だろう。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

話を井戸の方に戻そう。さて、そのような死の予感を語る直子に対して、主人公は「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」と呼びかける。包含関係を用いて彼は直子を守ろうとするのである。このことが分かると、後に登場する類型の表現も理解される。上巻のP279において、急な坂道をレイコと直子と主人公が登っていく様子がえがかれているが、このとき彼らは弱い存在である直子を真ん中に置いている。そしてその背中を見守ることができる最後尾という位置に、主人公はついているのだ。もっと分かりやすい場面はその少し前のP233で、「僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。」とある。また「僕」は緑に対して「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」と言う。これらが庇護の包含関係にあたる。

井戸のエピソードについて最後に指摘すべきポイントは、最終的に主人公がこのような「井戸」にはまりこんでしまうということだ。彼はキズキと直子を通じて死の世界へと踏み込んでいくのだが、長くそこに留まりすぎた結果として、抜け出せなくなってしまう。つまり周囲が現実の世界=生=緑、そして中心が異界=死=赤という構図の中で、「僕」はその中心にはまってしまい、脱出が不可能な状態におちいってしまうのである。以上の了解があると小説の最後の一文がよく理解される。「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」 どこでもない場所とは赤色の場所、異界を指している。

ところで主人公は小説の序盤において「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」と言っている。これは緑が周縁で赤が中心という構図において、主人公は緑の側にいながらも赤い場所からの信号を、すなわち異界からのメッセージを受け取り続けていた、ということを意味している。やがて彼は直子を介して異界へと移動する。すなわち周縁から中心へ移ったのである。それは彼としては一時的な移動のつもりだったのだが、とうとう抜け出せなくなってしまった。それが最後の一文に表現されていると捉えると、論理が一貫する。次の引用箇所は、主人公が死の世界からなかなか現実に帰還できない様子を示している。下巻の前半、阿美寮から帰ってきた直後のところである。

 店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものをほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム・センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ・ゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をかけてくれないかと言った。(略)
 そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。

以上の議論を単純に図示してみた。

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ところで、生と死の包含関係についての「僕」の考察は直子の死後にさらなる発展を見せる。死の世界へと移った直子を追って、主人公もまた「奇妙な場所」へと行き着く。

そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所とは死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。

つまり緑のなかの赤には、さらにその内側に緑が含まれていたのである。マトリョーシカ人形のようなものだろうか。しかしこの卓見はそこで途絶えてしまう。彼は力尽きてしまい、そこから先へと進めない。

 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。

主人公が中心の赤、すなわち異界から脱出して緑に戻るためには、『海辺のカフカ』を待たなければならない。そこでは死者の側にも意志と協力が必要されるのだった。

色々述べてきたが、この包含関係も色と同様に曖昧なところがあり、常に成り立っているわけではないように思われる。やはり少しばかりルーズなのである。

ちなみに文庫版の表紙は、上巻は赤が緑を包んでおり、下巻では緑が赤を包んでいるのだが、これは読者に包含関係を示唆するヒントとみなせるだろう。

次の記事に続く。

riktoh.hatenablog.com