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コスタリカ307

よいブログ。

声を聴く

 非対称な一対の存在

1Q84』を読んでいてつくづく思うのは、この作品は論理の構築物であるということだ。これほど理路整然としたパズルも他にない。

たびたび本ブログでも指摘してきたが、同作には“海”を軸にした直喩が頻繁に登場する。これは“二つの月”と対になっており、二つの月は青豆と天吾、青豆の不揃いな乳房、母親と娘などの暗喩になっている。つまり海と月は、直喩と暗喩というペアになっている。それは潮の満ち引きが月の引力の影響下にあるということとイメージ的な繋がりがある。

しかしここにはもう一つ見逃せない特徴がある。それは、海の直喩はあらゆる登場人物が口にしているという事だ。天吾の小学校の女教師は「岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かない(Book3前編 P264)」という台詞を言うし、タマルも「海の底を歩く」という言葉を使う。彼らは二つの月を見ていないにも関わらず、月の引力の影響下にあると言える。そして二つの月は限られた人物しか目に出来ず、彼らはそれを固い秘密として守り抜く。「月が見ている」という表現がたびたび出て来ることも考慮にいれると、そこには独自のルールが一貫して存在していることが分かってくる。すなわち、月は一方的に人々に影響をおよぼしており、それを自覚できる人間は一握りしかいない、ということだ。知覚できる人が限られているという意味では、リトル・ピープルにも似た性質がある。また牛河の覗きをふかえりが知覚するのも、このテーマと関連性があるのではないだろうか。

さて、以上の議論をもとにしてもう一度作品を概観してみると、実は「不揃いのペア」と言うべきものがあちこちに登場していることが判明する。

大塚環と青豆は親友だが、環は美人であり、生まれながらにして人に好かれる性格だ。青豆は整った顔をしているものの、美人とは呼べず、人から好かれない。環は自分の怒りを思うままに表現することができず自殺するが、青豆は彼女に代わってそれを自らの怒りとし、行動にまで移す。彼女たちは異なった性質を持った、しかし仲の良い一対の存在だったのだ。

青豆と天吾もそうだろう。Book1から2にかけて、青豆は常に移動する存在としてある。対して天吾は移動量が少なく、彼の大事な仕事は自室で行われる。青豆の仕事が出先で行われるのとは異なる。名前のあつかわれ方も違う。青豆が主に名字で呼ばれるのに対し、天吾は名前で呼ばれる。いや、そもそも彼らは性別だって別ではなかろうか。そのようなさまざまな相違にも関わらず、彼らが本作においてもっとも重要なペアであることに異論をとなえる人はいないだろう。

このようにして、二つの月の色と大きさが異なっているように、性質に差異がある惹かれ合う一対の存在というのが、作中での“正しい”存在なのである。その倫理は、空気さなぎに関するエピソードにおいても確認できる。ふかえりは空気さなぎを紡いでドウタを産みだすが、出てきたのは自分自身だった。この話は、作中では否定的に扱われている。それに対して天吾の産みだした空気さなぎは、青豆をその場に現した。つまり自分とまったく同じものを作り出してそれと向かい合うのは間違っており、異なる存在を希求して向かい合う姿勢こそが正しいという価値判断が、ここでは提示されているのである。

 声を聴く

リトル・ピープルについては、以前次の記事で解説した。

riktoh.hatenablog.com

リトル・ピープルとは言わば人々の失われた声である。言葉にされなかった主張、完遂されなかった願い、暴力によって踏みにじられた傷、そういったものだ。それらは決して消えず、いつまでも世界に残り続ける。さきがけのリーダーはそれを知覚し、彼らの主張を代弁することが出来た。

実は天吾にも似たような資質がある。彼は塾で数学の教師をしており、生徒からの人気も高い。

 数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貪欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。天吾は教室を見まわし、十七歳か十八歳の少女たちの何人かが、敬意をこめた目で自分をじっと見ていることを知った。彼は自分が数学というチャンネルを通して、彼女たちを誘惑していることを知った。彼の弁舌は一種の知的な遊戯だった。

村上春樹著『1Q84』)

Book2の終盤で天吾が昏睡した父親に語りかけるシーンは、上記の場面と対になっていると読める。衆目を前にして心をつかむような言葉を語るには、彼らの奥底にある思いを代弁することを言ってやればよいだけだ。そこに自分というものは必要ない。しかし何も反応を示さない、こちらの言葉を聞いているかどうかすら分からない人を前にしてものを語るとなると、そのようなやり方は有効でなくなる。相手の反応ありき、相手の心の中身を引き出すことが目的といった方法論は、通用しないのだ。

もしもそのような虚無のなかで力を発揮するものがあるとすれば、それは自分自身しかない。自己の中心にあるものをつかみ、温め、その熱を相手に伝えてやるような呼びかけにのみ、我々はわずかな可能性を見出すことができる。天吾がそれまでの彼の人生を語るのはそのためである。

実はここまでの内容が理解できると、『1Q84』の中心的なテーマは読み切ったということが言えるだろう。この作品はBook2、つまり全体の2/3のところで必要なことがすべて語られているのだ。Book3の役割については後述する。

もう少し「声を聴く」というテーマについて掘り下げをおこなうと、青豆もまた声を聴きやすい体質だと言えるかもしれない。彼女は親友である大塚環がレイプされたときに、代わりに怒りを表現し、実際に行動に移す。その後は老婦人やDVを振るわれている女性たちの“声にならない怒り”を引き受け、さらにエスカレートした処置を男性たちにくだすようになる。

本稿のはじめに解説した「不揃いのペア」という構造を通してこれらの事態を見てみると、ある性質が読めてくる。それは一方からもう一方へと、力が送られていることだ。上記のような怒りの力の授与や、天吾が空気さなぎを通して青豆に呼びかけ、その結果青豆が自殺を思いとどまるといったシーケンスについて、その特徴が認められる。母親と胎児という構図も同じで、母が子へ栄養を送って育てている。

さて、他人の怒りに感応しやすい青豆が、避難先のマンションに“閉じ込もり”、天吾の小説を読むこと意義は大きい。彼女は物理的な壁によって他人の声を妨げるのだ。そして“一人”で小説を読む。大勢の人たちと共にビッグ・ブラザー(とはつまり単なるリトル・ピープルの代弁者にすぎないのだが)の演説を聴くのではない。小説は人が書いたものではあるが、結局はただの紙とインクでしかない。彼女は文字通り“一人”で自分自身の考えを、意欲を育てるのである。そのための方法論が『空気さなぎ』には示唆されている。

 これからはこれまでとは違う。私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。私は何があろうとこの小さなものを護る。そのために私は死力を尽くして闘う。これは私の人生であり、ここにいるのは私の子供なのだ。

 Book3

Book3の役割は単純で、要するに最後のクライマックスのためにある。すなわち天吾と青豆が共に非常階段を昇っていくシーンを実現するために、Book3の大半の紙幅がその準備として費やされている。

二人が新しい出会いに復活し、再生するためには、不要なものを捨てなければならない。それを引き受けてくれるのが牛河という男なのである。彼は二人の過去を調べて明らかにしていくのだが、それはつまる所「不要な過去を捨てる」ことへと繋がっている。彼は最終的に天吾と青豆を出会わせたうえで、様々なとばっちりを引き受けて、犠牲となって死んでくれるのである。

まず天吾について語ると、彼はBook3では何もしていない。Book3の最初の天吾の章では、終盤に次のような文章が置かれている。

「どうやら手詰まりみたいだ」と天吾は壁に向かって言った。「変数が多すぎる。いくら元神童でも答えを出すのは無理だ」

物語の前半にあたるBook1-2ではトリを務めたのが天吾なので、Book3では青豆が最後に主役を張ることになる。

青豆はプルーストと『空気さなぎ』を読みつつ、新しい自分に生まれ変わるための準備を少しずつ進める。Book3の青豆の章は、彼女の内面の変化と文末の変化をものがたっていると言えよう。つまり自分の顔を美しく思ったり、夢を見て心の有り様が変化していくさまが、内面の変化に当たる。文末の変化は時間感覚の変化として、プルーストとの関連の中で語られることになる。最終的に「プルーストを読む必要はない」という宣言がタマルとの対話の中でなされるが、それはやはり過去を捨てるというテーマと関係性があり、具体的には文末の変化として表れているのである。青豆の章はBook1,2と異なり、主な文末が「タ形」から「ル形」へと変わっている。これにより最後の場面では臨場感が強調されることになるのだ。まさに自分自身のちからで信じるものを目の前に現出させるという思いを、補強する役割を果たしている。

 何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。

  ここは見世物の世界
  何から何までつくりもの
  でも私を信じてくれたなら
  すべてが本物になる

 何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。

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母というテーマ

この記事では岩明均の漫画に見られる母親というテーマを確認する。

 二つの大きなエピソード

まずは『寄生獣』のプロットを見ていく。この物語の中で一番大きな位置を占めている事件は、母親の身体を乗っ取った寄生生物に主人公が心臓を破られて、殺されかけることである。この事件をきっかけに彼は文字通り生まれ変わる。身体能力も強化され、寄生生物を始末したあとは容姿も変わる。この事件に対応する形で置かれているのが、終盤の田村玲子の死である。この対となる二つのエピソードが本作の要であり、事実もっとも作品の力が表れている箇所だ。

それ以降の話というのは、言わば清算にすぎない。異物として出現し語られた寄生生物は、結局のところ人類によって駆逐される。“社会”を代表するのが自衛隊であり、彼らは市役所を囲んでほぼすべての寄生生物を倒す。一方“個”を代表するのが主人公・泉新一であり、彼は右手の寄生生物を失くした状態で、つまり完全に人間の状態で最強の寄生生物・後藤と戦い、ついには勝利を収める。最後には何やら哲学的なことが語られたりするが、生命がどうとか生き物としての尊厳がどうとかいう話は、割りとどうでもいい。そこはあまり面白くない。それよりもやはり前述の二つのエピソード、特に後者の田村玲子の話の方が圧倒的に面白い。その場において、我々は独自の体験をする。言葉で表現をするのが難しい、ある種の心の動きを、我々はみずからの内に感じることになる。

 母親の自己犠牲

主人公の母親はかつて彼をかばい、右手にやけどを負った。その跡はいまだにくっきりと残っており、主人公の罪悪感の象徴として存在し続けている。また彼女は寄生生物という悪を身にまとって、子供の生命を奪う役割も果たしている。その後主人公は母親を(正確には母親の身体を乗っ取った寄生生物を)殺すことになる。

したがって主人公にとって母親とは、自己を犠牲にして子供を守る母性愛の体現者であると同時に、子供と殺し合いをする憎むべき存在であるという、矛盾した性質を持ち合わせていることになる。無論人間には親を愛する気持ちと親を憎む気持ちの両方が存在しているのが普通であるが、泉新一のようにあまりにも極端な矛盾を背負うのは、やはり苦しいものがある。

そのような複雑なもつれを解消するのが田村玲子である。

田村玲子は寄生生物の身でありながら、まるで人間のように、自分の子供をかばって殺される。

  • 一児の母である田村玲子が人間の手によって殺されるため、前述の「母親を憎む」主人公の気持ちは解消される。寄生生物は人類にとっての敵であるから、主人公はそこに倫理的な葛藤を抱かずに済む。
  • 田村玲子は圧倒的な暴力を前にしても自分の身を呈して子供を守るため、それを目撃した主人公には、「自己を犠牲にして子供をかばう女性」という母親像がすんなりと納得され、葛藤が解消される。

このような奇跡的な二重性は、偽物が本物に近づくという、いわば演技やフィクションの物語に通じる構造によって支えられていると言えるだろう。

人間ではない寄生生物がゼロベースから感情を学び、母性愛の萌芽を知ってそれを実践するという、“つくりもの”の土台が、かえってその上に築かれたものの純粋性を担保している。これは、我々が小説や漫画をつくりものと知りながら読んで、本気で涙を流すということと似た構造になっている。黙って攻撃に耐え、子供を守り、死を受け容れる女性の姿を前にして、ようやく主人公は自分の中にあった怒りや憎しみの感情を赦すことができた。

 影の成長

田村玲子は初め教師として主人公の前に姿をあらわす、寄生生物のひとりである。彼女は本作の第二の主人公と言ってもよいぐらい重要な位置を占めている。物語は進行するにつれて、主人公同様に彼女の「成長」を語っていくことになる。

田村玲子はさまざまな実験を行い、人間と寄生生物について研究をおこなう。セックスをして妊娠し、子供を産み、みずから育てる。一つの市を寄生生物のコロニーにしようとする政治家と寄生生物の集団に協力し、後藤という名の強力な寄生生物を作り出す。

次第に彼女は人間の心に興味を持ち、演技ではなく、自然に笑うことも覚える。そして死の間際に母性愛に近い何かを見せる。

次は日本軍の捕虜収容所を体験した英国人の小説『影さす牢格子』を解説した文章である。

 一般の西洋人にとって「黄色い獣」としか思われないハラに対して、ロレンスは対話を試みる。しかし、日本人のハラが主導権を握っていた捕虜収容所における「対話」は、主として身体的なことによって行われた。つまり、そのほとんどはハラのロレンスに対する殴打であり、拷問である。あるいは捕虜の中でロレンスのみが認めたハラの瞳の輝きである。これらの非言語的な行為を、ロレンスはひとつのコミュニケーションとして受けとめ、その中に深い意味を読みとることができた。
(中略)
 終戦を境にして彼らの立場は一変する。死刑囚となったハラと、ロレンスとのあいだのコミュニケーションは、もっぱら言語的になされる。ここで、死を恐れないハラが「なぜ?」と問いかけるのは意義が深い。ハラがまったく日本人的な人生観によって行動するならば、すべては「仕方がない」こととして受け容れるべきではなかったか。死刑の宣告をチャンピオンのように受けとめた彼は、死の間際になって、「なぜ」ということを問題にしているが、それこそは西洋人が発する問いではなかっただろうか。正しいとか正しくないとかは問題でなく、負けたのだから仕方がないと彼は考えなかった。正しいことをした自分がなぜ罪人として死なねばならないのか、と彼は合理的な問いを発する。そして、それに対するロレンスの答えは、まったく日本的なものであった。
 ここに影との対話の特性がみごとに描きだされている。影と真剣に対話するとき、われわれは影の世界へ半歩踏みこんでゆかねばならない。それは自分と関係のない悪の世界ではなく、自分もそれを持っていることを認めばならない世界であり、それはそれなりの輝きをさえ蔵している。

河合隼雄『影の現象学』)

田村玲子は人間の影である。彼女が撃たれて死ぬ場面は、見事に上記の引用の特性を満たしている。つまり『寄生獣』という作品では前半は寄生生物たちの殺人と人食いが残酷に描かれ、強調されているのだが、いま問題にしている場面ではむしろ人間たちの方がその残酷さを発揮している。多数でもって一方的に一つの個体を武器で攻撃しているからである。そして寄生生物である田村玲子は、むしろ自分の子供を護るという「人間性」を発揮している。つまり両者はそれぞれの立ち位置のまま、お互いの性質を部分的に交換しているのである。彼らは「影の世界へ半歩踏みこんで」いる。

寄生獣』という作品の特徴は、このような影の存在を徹底的に滅ぼしたりはせず、将来どうなるのか興味深く見守って、その成長を確認したことにあると言える。つまり懐が深い所がある。老人が出てきて物を言う場面が結構多いのも、そのような懐の深さと関連があるのだろう。ヒロインの里美に通りがかりのおじいさんが「だめだって! 若い嬢ちゃんがでっけ声で「くっそ~~」なんて言っちゃあ!」と窘める箇所がある。また、市役所から移動させられる老人たちが、自衛隊の装備を見て「犯人が可哀想だ」と言う場面がある。もちろん後藤との戦いの前に主人公に知恵を授ける、美津代という女性の存在は言うまでもなく重要だ。

 怒れる神としての母

このテーマは『ヒストリエ』にも引き継がれて、主要な柱となっている。主人公・エウメネスの実の母親は彼をかばって剣を持って戦い、敵を殺しまくったうえで最期に殺される。それも田村玲子のように、大勢の手によって嬲り殺しにされる。自分の代わりに敵と戦い、災いを引き受けて死んでくれるもの。それがエウメネスにとっての母である。

アレクサンドロス王子はエウメネスの対となる存在であり、彼にも対応するエピソードがある。幼い頃彼は母親の寝室に侵入し、男と交合している姿を目撃する。男はアレクサンドロスを殺そうとするのだが、母親オリュンピアスは剣でもってその者を殺し、首を切断して床に転がす。王子が王位を継ぐことを熱望しているオリュンピアスは、その場で彼にまじないのようなものをかける。それにより王子は二重人格になってしまう。

この二つのエピソードには共通している所と対照的な所がある。それをこまかく検討していこう。

まず、両方とも母が敵を殺している。それも子供を守るために剣を振るっている。そこは同じなのだが、エウメネスの母が曇りのない愛によって自らを完全に犠牲に捧げるのに対して、アレクサンドロスの場合は逆で、むしろオリュンピアスは子供を自分の思い通りに動かそうとしている。前者が死んだのに対し、後者は元気に生きている。

二人の少年はこのエピソードを通して特殊な罪悪感を植え付けられる。エウメネスには自分のために母を死なせてしまったという罪悪感が、まず基礎としてある。さらに彼は、自らを守るために涙を流さないような心理状態に自分自身を持っていったのだが、その結果育ての父となるヒエロニュモスの歓心を買うことになり、命が助かるどころか都市カルディアで良い暮らしまで送ることとなる。エウメネスは母の気高い行為からずいぶん離れた地点まで移動してしまった訳である。そのような複雑な心理の経緯が、彼にはある。

アレクサンドロスの方は「自分の本当の父親は誰なのか」という疑問を植え付けられることになった。一匹の蛇が彼の代わりに、疑問を表象する男の生首を飲み込んでくれた訳だが、果たして蛇はそれを“消化”できたのであろうか。それはむしろ見えない所に移動し、深い場所でアレクサンドロスの精神をむしばんではいないだろうか。

怒りというのも見逃せない。どちらのエピソードでも母親は怒り狂っている。彼女たちは嵐のように思うまま暴力を振るっており、圧倒的な力で外敵をなぎ倒している。これは『寄生獣』では見られなかった要素だ。

誰かが自分の代わりに、心の底から、本気で怒ってくれる。

そのような心象風景を強烈に刷り込まれた彼らは、しかし自分自身の怒りを存分に発揮することができない。エウメネスは奴隷として生家を離れる際「よくもだましてくれたな」と怒りの雄叫びをあげるのだが、現在の最新刊である10巻まででは、どうやらそれが唯一の率直な怒りの表現のようだ。他の怒りのようなものは、どれも叩きつけるべき相手に率直にぶつけられてはいない。その唯一の怒りの声でさえ、後に彼がカルディアに戻ってきた時には、罪悪感を告白するという形で後悔されることになる。

留保のない暴力的なもの。それも自分自身が発祥であるような“勝手な”怒りというものを、彼らは掴めないのである。アレクサンドロスの場合その怒りは、みずからを呑み込まんばかりに巨大な母親から、逃げようとする焦燥に他ならない。したがって必然、それは自己破滅的なものになる。もっともそれは物語の妙というか、神憑り的な人物であるから、周りの人間が代わりにその破滅をかぶってくれる。学友のハルパロスが大怪我を負うエピソードにはそのような意味がある。よく読むと、王子が馬で岸を飛び越えたのは、前述の母のエピソードと関連性があると明記されているのが分かる。

最後に、夢という点を挙げたい。両者のエピソードは共に、夢そのものであったり、あるいは夢のような雰囲気を持っている。霧がかかった風景のように、明確でない点がある。時には断片的に何かが思い出されることもある。そのあやふやさが記憶に神話的なスケールを付与し、彼らの母に、神にも等しい圧倒的な偉大さを身につけさせることとなった。まったく、この母親たちは巨人のように力強いのだ。

 二者の交流

今後、物語はどのような方向に進んでいくのだろうか。アレクサンドロスエウメネスの交流には、とても興味が惹かれる。なお怒りというテーマは、個人の自由というテーマと結びつきがあるように思われる。それはまた機会があれば書きたい。

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『騎士団長殺し』第1部・2部の概観

この記事では村上春樹の『騎士団長殺し』の第1部・2部について、一読して気がついたことを記載している。つっこんだ考察はおこなっていない。

 移動について

1Q84』は二つのパートに分かれて話が進むが、天吾の側はあまり移動せず部屋にとどまるのに対して、青豆は積極的に移動をする。青豆がやがてリーダー殺害後にマンションの部屋に避難して移動を停滞させるあたりで、今度は天吾の側が積極的に外をうろつくようになる。そしてBook3では天吾も青豆も移動量がぐっと減り、その代わり牛河が移動する役割をになうようになる。また『海辺のカフカ』ではカフカ少年が移動せずに図書館または山小屋にとどまり、ナカタさんが移動する人の役目を果たしていた。つまりこれらの作品では「移動」と「停止」というものが常に並行して存在していたと言える。

それに対して『騎士団長殺し』では作品の序盤で「移動」が集中的に行われ、そこで移動のパートは終わってしまう。後は山にこもりっきりとなる。

 清潔さへのこだわりの反転

免色は主人公よりも遥かに清潔であり、服も服の着こなしも美しい。料理も上手く、彼が作るオムレツは絶品だ。免色は自分の車をよく洗車するのだが、主人公はそれを聞いて自分ももっと車を洗わなければと反省する。しかしその後すぐに、主人公はやっぱり自分の車は汚いままでもいいか、と思う。これはちょっと、いやかなり興味深い箇所である。つまり今までの村上春樹の小説における美学とは、反対の方向が示されていることになる。『1Q84』では、容姿が醜く、生活が貧しい牛河は死んだ。彼が犠牲としての役割を果たして死ぬことで、天吾たちは自由になれたのである。一方、天吾や青豆は生活というものに気を使っていた。青豆は服に折り皺がつくのが嫌なので、いつ出ていくことになるか分からない避難先のマンションでもわざわざクローゼットに自分の服をちゃんとかけたほどである。『1Q84』における「正しい生活」は後者の方なのだ。

免色も方向性としてはこのようなこだわりに一致している。しかし第2部の最後の文章を読めば分かるように、結局のところ『騎士団長』において免色的な在り方は主人公によって否定されている。主人公と親しい秋川まりえが、どんな人も免色と同じ家には住めないと考えるのも、そのような否定の表れだろう。

よくよく考えてみると主人公はけっこう大雑把な所がある。料理は作り置きして冷凍して貯めておくし、車はちゃんと洗わず、そしてフールオンザヒルの作曲者をレノンだと勘違いしたまま後で調べ直すこともしない。これらは作家による意図的な性格描写なのだろう。この楽天的な性格やちょっといい加減とも思える所は、「信じる力」や、犠牲を肯定的な力に変換していける主人公の特性と深い繋がりがあるように思われる。

 海と山

以前解説したように『1Q84』と『多崎つくる』では海を軸にした直喩が多用された。しかし『騎士団長』においては姿を消してしまっている。しかも主人公が山に住むことになり、物語はほとんどが山の上で展開される。雨田具彦に会う際主人公は海に接近することになるのだが、雨田具彦の部屋で穴を潜って移動すると、彼はまた山に戻ってしまう。

海の直喩は月と関係があった。そして『1Q84』における月は『多崎つくる』における指と同じで、多義性を持っていた。多義性は隠喩と密接な関係があるので、月=隠喩、海=直喩という役割分担が成り立っていたことが分かる。『騎士団長』では、そこに“山”という新たな概念が加わる。海と山は反対のものだと捉えることが可能なので、今作ではもしかしたら比喩への考え方に変化が訪れるのかもしれないという予測が成り立つ。

ところで『騎士団長』の文章は『1Q84』と比べると、おや、と思うほど隠喩が少ない。『1Q84』はあちこちに顔を出していると言えるほどに隠喩の気配が濃厚だったが、『騎士団長』ではむしろ直接的な説明や単なる事物の描写にとどまっている文章の方がずっと多い。特に山に関する率直な描写は印象に残る。そこでは虫の声が夜ごとに鳴り響くのだが、人はそれに慣れてしまう余り、寝ているあいだに虫の声が一斉にやんで沈黙が起こると、かえって目を覚ましてしまう。(それがきっかけで主人公は塚の下から鳴る鈴の音を突き止めることになる。)

次の文は2部のP264からの引用。

そこにある空は不自然なほど高く、どこまでも透き通っていた。空をまっすぐ見上げていると、透明な泉の底を上下逆にのぞきこんでいるような気がした。ずっと遠くの方から、電車の長い車両が線路を進んでいく単調な音が聞こえてきた。ときおりそういう日がある。空気の澄み具合と風向きによって、いつもは聞こえない遠くの音が妙にくっきりと耳に届く。そういう朝だった。

村上春樹著『騎士団長殺し』)

音や匂い、五感というものに結びついた描写がかなり出てくる。このような文章は後々「顔なが」の穴に主人公が入って進んでいくときに、読み手に対してじわりと効いてくるようだ。その時にはメタファーというものが考えられ、ありのままの描写が記憶の素材として活用されて力を持つわけだが、あくまでも上記の引用の段階では事物の描写にとどまっている。つまりこの作品では、メタファーの込められていないただの記憶、率直な描写としての文章と、メタファーとの二種が、峻別されている。そして優れたメタファーが文章として顕わになるのは、主人公が第2部の終盤で試練をくぐり抜けるときである。線引きというものが強い意識のもとで、明確になされていることが分かる。

もちろん『騎士団長殺し』の絵や穴は非常に隠喩的ではある。これらは直接的な説明とは言えないのではないか、隠喩だろう、という意見もあると思う。しかし絵や穴を指して、「これは隠喩ですよ」と文章中に明示されている点には注意されたい。隠喩が自らを隠喩であると明かしているという点では、これらは『1Q84』の容器の隠喩とは全然意味合いが異なるのである。なぜなら、後者は説明というものを省略しているからだ。

ちなみに線引きというキーワードについて連想できる言葉を考えていくと、結婚生活の前期・後期とか、あるいは「無と有とを隔てる川」といったものが思い出されてくる。

 継続されるプルーストの参照、そして覗き

またもやマルセル・プルーストの名前が作中で明示された。本人がいない時、不在の時に自己の記憶を頼りにして肖像画を描くというプロセスは、『失われた時を求めて』を連想させるものがある。主人公が試練の穴を進んでいく際に、匂いや音というものがヒントになり、記憶が想起されるのだが、これもやはりプルースト的である。本ブログでは以前、プルーストと『豊饒の海』、そして『1Q84』の関係性について考察した。

覗きのテーマも『1Q84』から継続された。別記事(, )ですでに解説済みだが、覗きのテーマはもともとプルーストに端を発している。本作でこの事を裏付ける材料として挙げられるのは、“見る”だけの存在である騎士団長が、第1部P452で「クリトリスとは触っていて面白いのか?」と主人公に尋ねていることだ。騎士団長は人のセックスの覗き見をするのだが、これは『失われた時を求めて』・『豊饒の海』に共通した覗きの性質だ。この質問は「騎士団長はセックスを楽しむ可能性がない」ということを意味している。

また“覗き”は「ある人が別の人を一方的に見る、知覚する」という性質を保ったまま他の形に変えられて、至る所に登場してくる。

  • 免色は秋川まりえを覗く。
  • イデアである騎士団長は、一方的にさまざまなものを見る。見られている側はそのことを知らない。
  • 免色は秋川まりえが自分の子供かもしれないことを知っている。しかしまりえはその可能性について知らない。
  • 秋川まりえは免色が自分を覗いていることを知っているが、それを免色に教えるつもりはない。免色はまりえが感づいていることを知らないままである。
  • 主人公は免色の家にあった衣服(イフク)が、まりえの母親の物だった可能性が高いと思っているが、まりえにそれを知らせない。

これらにはバリエーションがある。「免色が秋川まりえを覗く」のと「主人公がまりえに衣服のことを教えない」のは、おそらく対極にあると思っていい。免色は自分が覗いているという情報を相手に与えていない。主人公もまりえに情報を与えないという点では一致するのだが、しかしそれは相手を気遣ってのことだ。(「気遣う」という言い方をすると途端に矮小になってしまいやや本質から逸れる感が否めないが、とりあえずここではそのような表現にしておく。) そう考えていくと、終盤で主人公が娘の目を隠すのも、ちゃんとテーマに沿った行為であることが理解できる。

最終的に主人公のスタンスは、作中の事実という意味では次のように結論づけられる。

  • 主人公は、むろが自分の生物学的な意味での娘ではない可能性があることを知っているが、しかしそれを敢えて確かめないという決断を下す。そこに不安はない。両方の可能性が同時にあるという状態を、主人公は信じる力によって矛盾なく統合し、平安でいる。そこが免色とは違うところだ。免色は常に両極の“真実”の間をいったりきたりしている。

つまり客観的な事実に対して人はどのように振る舞うべきか、という問題意識がここにはあるようだ。

以上の覗きというテーマについて、私の考えはまとまっていない。メタファーや移動というテーマと関連があるように感じている。

 犠牲というテーマ

犠牲・身代わりというテーマが非常に強固な柱として作品の頭から末尾までを貫いている。ある物が死ぬことで別の物が現れる。あるいは、見る側がそのように見立てるということを示唆している文章やエピソードが、とても多い。ほとんど創作やメタファーといった主要なテーマに匹敵する扱いを受けている。

  • 主人公の描く絵の様式が、抽象画から肖像画に変わる。
  • 青年の頃にあった「胸の中に燃えていた炎のようなもの」が、肖像画を書くことによって消えていく。(「ときどき自分が、絵画界における高級娼婦のように思えることがあった。」)
  • 1部 P43 - 老人が熊に襲われるというニュース。老人が自分の代わりに死んだ。
  • 1部 P47 - 今の恋人を捨てて新しい恋人を作る。「ただ私のガールフレンドは、親友に私を奪われたことに、ずいぶんショックを受けたようだった。」
  • 車が主人公の代わりに死ぬ。
  • 死んだ妹の身代わりとしての役割を妻が果たしている。
  • 主人公の空想、土中にミイラがあるのではないかという怯えがまずある。それから実際に掘り出してみると何もない。予感や恐怖が、実際の災いを肩代わりして消えてくれた。そして後には鈴だけが残った。
  • 1部 P332-333 「一人の人が去って、また別の人がやってくる。」 まさに犠牲や置き換えといったものを表現している。
  • 1部 P339 雨田の指摘。ユズと別れることによって、主人公は自分のスタイルを持った絵を描き始めることになった。
  • 騎士団長を殺すことで、顔ながが現れる。試練の道が開く。
  • 主人公は試練の穴を通り抜ける際に、過去の温かな記憶を頼りにして力をつけて、前に進んでいく。それは、黒猫のこやすや車のプジョー205だった。それらは両者とも、主人公のもとを去っていったものだ。
  • 最後に『騎士団長殺し』の絵が失われる。しかし主人公は自分が将来『白いスバル・フォレスターの男』を描き直したら、それが取って代わる作品となり、自分は雨田具彦から遺産を受け継いだことになるだろう、と考える。

この犠牲というテーマについて注意を留めておくべき点は、肯定的な意味合いの物の方が多い、目立つということだ。最後の二点は特にポジティブな意味合いが大きい。『多崎つくる』における犠牲やスケープゴートとはだいぶニュアンスが異なっているようだ。

それにしてもこうして一覧してみると、文体から受ける印象とは逆に、主人公にはけっこう図々しい所があるようだ。良く言えばたくましいという事になるだろう。

『騎士団長』をさらに延長させて考えれば、主人公もいつかは犠牲の側に回らなければなるまい。そして地上から姿を消すことになるだろう。だがそこまでは第1部と第2部の物語には含まれていないのである。現在の彼は“受け取る”存在なのだ。しかし第2部の末尾では、恩寵として授かった娘によって、主人公もまた徐々に与える側に回っていかなければならない事が示唆されている。

 影、空気さなぎ

秋川まりえの肖像画はふかえりの空気さなぎに近い。完成させてはならないものである。このテーマは難しいので今は充分に書けない。

 無を描くということ

第2部の終わりまでを読んでふたたび第1部のプロローグを読み返すと、実は無を描くという課題は達成されていないことが分かる。

「無を描く」とは一体何を意味しているのだろうか? 『騎士団長』という小説の中で一番重要な問いはきっとこれだ。他の問いは優先順位が低い。冒頭に置かれているうえに創作に直結する問いである以上、まず間違いないと思われる。

しかしこれは難しい問いだ。主人公は「顔なが」の穴に入った後、最初川に着き、それから川を渡って森を抜け、暗い穴に入っていく。そこが本当の試練で、主人公は正しいメタファーの極意というべきものを実感し体得する。この箇所は非常に感動的であり、第1部・第2部を通してクライマックスに相当する場面である。だがよくよく反省してみると顔のない男は川にいた訳だから、この男に相当する位置に移動しようと思ったら、このような試練の旅を、わざわざ「後退」しなければならないことになる。試練の果てが否定的な場所であればそのような逆戻りも納得できるが、実際には小説中では肯定的なものとして書かれている訳だから、これはよく分からない、となる。逆戻りすることが更なる未来の目標として置かれているというのは、了解しにくい。また、一見この顔のない男に繋がるようなヒントがどこにも書かれていないように思われる所も、問いの難解さを増している。

そこで、まず川の描写について見てみる。顔のない男は川にいる。「無を描く」とは「顔のない男の肖像画を描く」ということに等しいから、川について理解できれば、問いの答えに近づけるはずだ。次は第2部のP350から。

 川の流れに沿って歩を進めながら、この水の中には何かが棲息しているのだろうかと考えた。たぶん何も住んではいないのだろう。もちろん確証はない。しかしその川にもやはり、生命の気配のようなものは感じられなかった。だいたい味も匂いもない水の中に、いったいどのような生き物が棲息できるだろう。そしてまた川は「自分が川であり、そして流れ続けるものだ」ということに、意識をあまりにも強く集中しているように見えた。それは確かに川という形象をとってはいたけれど、川というあり方以上のものではなかった。小枝一本、草の葉一枚、その川面を流されていくものもなかった。ただ大量の水が純粋に地表を移動しているだけのことだ。

ここを読んで私は、川とは空疎な言葉を意味するものだと思った。虚偽という意味ではない。何らかの積極的な意志やメタファー、イメージ的な広がりを持たない、ただの記号でしかない言葉のことだ。主人公はその後「無と有を隔てる川」を渡ってメタファーを獲得するのだから、川はメタファーと対極にあるような言葉だという受け取り方は、かなり自然なものだ。

ここで我々は、比喩というものについて考えてみる。

比喩とは <喩えるもの> と <喩えられるもの> の二者によって成り立つものだ。主人公が試練で体得したのは、匂いや音といった感覚を軸にして、善き <喩えられるもの> を引き出してくる術である。それはもともと記憶の中にあったものだ。記憶の中にある善きものを次々と連結するように引き出してくること。それが主人公が体得した一つの奥義だと言っていい。

もう一度川についての描写を読み直してみると、川は五感に繋がる可能性を持たないとあるので、この原理に従えばメタファーを引き出してこれない。したがって、川はおそらくメタファーを引き出せない言葉を意味するものだ、という前述の推測が成り立ってくることになる。

ここまでの議論は固い地盤の上に立っていると言えるだろう。問題はここから先で、多分に私個人の推測交じりとなる。

まず村上春樹は文学の成長というものを、三つの段階に分けて考えた。第一段階が直喩で、第二段階が <喩えられるもの> を持つ暗喩で、第三段階が <喩えられるもの> を持たない暗喩である。第一段階はイデアという言葉と繋がりがあり、第二段階はメタファーという言葉と繋がりがある。そして第三段階に関連のある言葉が“無”であり、村上春樹のこれからの目標となっているのではないだろうか。

第二段階と第三段階の区別はかなり微妙なもので、見る側、読む側によって変化すると言っても過言ではない。『騎士団長殺し』は当初、第二段階のものだと主人公は受け取っていた。なぜなら彼は雨田具彦に対して、その絵が指すものが何なのかを聞きたがっていたからだ。しかし第2部の最終章では、絵は第三段階の存在へと、少なくとも半分程度は移行している。なぜなら主人公は絵が指しているものが何なのか「分からない」という事に対して、納得したものを覚えるからだ。それでいて絵が優れていると彼は捉えている。絵が <喩えるもの> で、雨田具彦の過去とその怒りが <喩えられるもの> であると受け止めると、主人公の考えでは、もはや <喩えられるもの> は不要なのである。ただ絵だけで、それはもう優れた力を備えている。絵はいまや鑑賞者に対して「私によって <喩えられているもの> は何であるか分かりますか」という問いを、発さなくていい。それは鑑賞者が考えるべき仕事だ。彼・彼女は作品を見る・読むことを通して、自由に想像の手を伸ばしていけばいい。そのとき絵はすでに自己完結的な芸術性を備えている。

しかしそうだとしたら、そこに怒りは必要なのだろうか? 過去の暗い傷と恨みを引きずった「危うい力」を鑑賞者に叩きつけるような文学は、果たして必要なのだろうか? それが主人公、つまり村上春樹の疑問であるように私には思われる。無論、優れた芸術に反抗や怒りは必要不可欠だ。しかしそれにもやはり限度があるし、そもそも優れた美質に繋がるとは限らないというのが、作家の意見なのかもしれない。

さて、第二段階と第三段階の区別は、鑑賞者との関係性をなしに語ることはできないとすでに述べた。このような考察のもとに小説を読み直してみると、秋川まりえが先生が絵を描くのを助けたいと発言した場面や、覗きというテーマが積極的に取り上げられていること、そしてガールフレンドや妻との間に「礼儀」の問題が挙がってくることが、おのずと了解されるのである。相手との関係性を考慮せずに、つまり働きかけることや働きかけられることを上手にこなすことなしに、芸術というのは成り立たないのだ、ということだろう。

以上の考察をもとにしてもう一度「川」の問題に立ち返ると、徐々に理解が進んでくる。「顔のない男」は船を渡して他者を移動させる。移動させられた他者はメタファーを獲得する。この「他者」が、『騎士団長殺し』の二部においては主人公に当たっているので我々読者にはやや分かりにくいのだが、全体の構造を俯瞰すると答えが見えてくる。第三段階にあたる作品とは、自分が <喩えられるもの> に到達するような作品なのではなく、自分は“無”にとどまり続け、他者を <喩えられるもの> に移動させるような作品のことである。彼は自分の場所にとどまりつづけ、その聖なる義務に専念する。世界の辺境で、自己を犠牲にして、闇の力の侵攻を食い止める役目につく。ここで犠牲というテーマが、“無を描く”という課題に合流してくるのである。自己犠牲の精神なしに無を描くことは出来ないのだ。

 無を描いた実例

本ブログでは以前プルーストと『豊饒の海』と『1Q84』の結びつきについて説明した。特に『豊饒の海』における直喩の否定の考え方は、『騎士団長』を読み解くヒントになってくれると私は思っている。『騎士団長』における“無”とは、『天人五衰』の参道の登攀および庭の描写と密接な関係がある、というのが私の意見だ。

豊饒の海』の最終巻である『天人五衰』の主人公・本多繁邦は、月修寺に昇る前に「人の肉の裏に骸骨を見るようなことはすまい」と覚悟を決める。「ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう」と意志する。そしてその決心以降は、小説内では事物の具体的、直接的な描写が続くことになる。これがメタファーの放棄であり、無への接近だと考えると、『騎士団長』に話がつながっていく。

本多繁邦は木津川の堤防を見る際に、生来の癖で、ひねくれた比喩を用いて物を見てしまう。だが彼は慌てて先程の決心を思い出し、もう一度虚心に物を見ようと努める。この一瞬の囚われが『騎士団長』における「二重メタファー」に相当する現象だと考えられる。

そして作品は本多の月修寺への登攀の場面に移っていく。ここは奇跡的に美しい文章で構成されているのだが、直喩は姿を消しており、暗喩もまた積極的な意志を持ったものは見られない。「倒れて横たわってはいるが枝でまだ自分を支えている松」は本多のことを指しているという捉え方は、充分に可能ではある。しかしそれは“積極的”な隠喩ではない。既に述べたことを繰り返すが、第二段階と第三段階の隠喩は受け取り手によって変化しうる。この区別はかなり微妙なのでしばしば混乱をきたすが、この箇所は第三段階にあると言ってよい。受け身でありながらも明るく正しい意志を備えた隠喩、どこまでも無意識的な隠喩がそこには在る。

登攀の場面は“無を描いた”実例として、優れた部類に入ると言える。しかしこの作品はそのすぐ後に、急激に落下してしまう。次は『天人五衰』の最後のページからの引用だが、ここからはそのような受け身の隠喩すらも姿を消している。からからに干上がった、まさに無味乾燥な“無”しかない。「記憶がない」と明示されているのも、『騎士団長』のメタファーの原理に繋がるものがある。文章そのものは端正なので、かえって“何もなさ”が際立つ。つまり“無”にも善し悪しというものがあって、結局この作品は最後には転落してしまうのである。

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶のとうが、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
 これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
  
三島由紀夫著『天人五衰』)

もちろん村上春樹の目指している場所は、上記のような転落を避けて、自分独自の善き“無”の作品を作り出すことだ。不思議なことに、それはなぜかどこまでも強い存在感を持ち、全世界を覆うような“有”性を備えたものに違いないと予期されるのである。

ちなみに『天人五衰』との繋がりを補足する根拠として、火掻き棒という単語がある。『天人五衰』において本多透が怒って、慶子を打ち付けようと考えた道具だ。この単語が『騎士団長』において、まさに試練の道を通っているときに章のタイトルとして出て来る。