心という機械と小説の関係性

今日はより良い小説を書くために我々はどうするべきかという話をしたい。

僕の考えでは、人間の心は機械である。小説は人間の頭の上で実行することが可能なプログラムだ。人間の頭はインタプリタなので、ソースコードそのままの形である小説を実行できる。実行すると、実行した人間の心に変化が起きる。驚いたり、恐怖したり、深い感動を味わったりするのだ。それが小説を実行して得られる結果である。

ある種の人々はこうした主張を間違いだと反論する。人間の心は機械ではない。我々は機械以上のものだ。魂があり、信念があり、愛がある。心とは深い神秘のヴェールに覆われた謎の存在であり、崇高なものなのだ。人はその力を信じてさえいればどんな偉大な仕事でも成し遂げることができる。

僕は、これを間違った物の考え方であると捉える。未熟な人間性の発露だと思っている。魂も神も不死も実際には存在しないからだ。とはいえ冒頭に掲げた結論――人間の心は機械である――に至るのも、なかなか難しいものがある。そこまで進む道の上にはどうしてもニヒリズムという障害が待っているからだ。

魂のような特別な、霊的なものを否定すると、人はたやすくニヒリズムに陥ってしまう。この世のすべては無意味であると考えるようになり、それに耐えられなくなって死を目指すのだ。そこまで行かなくも、目標を掲げて努力することを馬鹿げていると捉えるようになる。ニヒリズムとは、平たく言うと生きることの放棄である。怠惰と言ってもいいかもしれない。自分に生きる意志があることから目を背け、死へと一直線に突き進む。内なる死と生の相剋にたえられないので、片方をなかったことにしてもう一方をただちに取るのである。

もしも我々が心について理解を深めようと思ったら、まずは心にかぶさった神秘のヴェールをはぎ取らなければならないが、それをするためには魂や神や不死などの霊的な存在について不在を確信しなければならない。それこそが心を覆っているおびただしい雲霧の原因だからだ。しかし困ったことにそれをやると、人はニヒリズムに陥ってしまう。

だから我々はまずニヒリズムを克服する方法を考える必要がある。そうしないと人間の心を正確に観察し、内部の機構について理解を深めるということができないからだ。

そしてニヒリズムを克服する手段はただひとつだと僕は思っている。それは自分のうちに母性を育てることだ。

母性とはなにか。それは辞書をくるとこう書いてある。

女性が、子どもを守り育てようとする母親としての持つ本能的な性質や機能。
(小学館 精選版 日本国語大辞典)

しかし僕はこれは定義としては正確ではないと思っている。僕は母性をこう考える。それは自分の心の中にある矛盾した二つの力を和解させ、平和に共存させる能力である、と。

この世のすべての事物は無意味である。人生は無意味であり、明日死ぬのも十年後に死ぬのも同じことだ。いっさいは虚しい。これはだれにとっても真理である。しかしそれとは独立して、人の心に生きようとする本能の意志が存在していることも、また事実である。重要なのは、この二者は相剋しているかもしれないが、基本的には関係のない別個の事実だ、ということだ。人は限界まで自分の心を追い詰めたときに、初めてこのことを腹の底から納得できる。中途半端な状態では目が曇っているため、なかなか客観的な視点が得られない。死に近接しないと人の物の見方は公平にならないのだ。他でもない「生きよう」という意志が自分の目を曇らせてしまうからだ。矛盾しているようだが、その意思をいったん手放さないと、生きようという意志の存在をみずからのうちに「客観的」に認識することはかなわない。

認識さえできればあとは簡単だ。生きることを自分に赦してやればいいだけだ。霊魂を信じてもいいし、神を信じたってかまわない。死に近接するほど消耗した人間に、もはや抵抗する力は残されていないだろう。白旗を上げて自分を受け入れてやればいい。つまり母性の端緒は自分と徹底的に戦い、敗北することにあると言える。

ただしそれは、あくまでも自分の中に、霊魂を信じたいという「気持ち」や、神を信じたいという「気持ち」が在るというだけの話だ。その力の車に乗って動いてやるのは構わないが、それはこの世の事実とはまったく別のことである。自分という人間は気持ちで動いても、世界は気持ちでは動かない。それは人の心の影響を受けず、びくともせず、ただあるがままに存在しつづける。じっさいには霊魂もなく、神もない。

多くの人は「不死がないという事実を認めること」は、ただちに「自分の中にある不死を信じる気持ちを否定しなければならないこと」だと捉える。しかしこれは錯誤である。霊魂がないことをはっきりと知りながら霊魂を信じる気持ちを内部に存続しつづけることは可能である。「知る」と「信じる」は別のことだ。そのような共存をなりたたせる特別な機構が母性だと言える。

公平で正確な観察眼は、ここまで来ないとなかなか身に付かない。つまり自分の中にある「気持ち」を自在に取り付けたり、外したりして外部の事物を見られるようにならないと、身に付かない。

そして公平で正確な観察眼が身に付いたら、心の仕組みが理解できるようになる。正しくは、理解という道程のスタート地点に立てるようになる。するとその人は優れた小説を書けるようになる。なぜなら小説とは読者の心を操作する試みに他ならないからだ。

以上が僕の考える、より良い小説を書くための成長の仕方だ。

ではどうすれば母性は身に付くのか?

ここまで書いた以上、僕にはそれを提示する責任があるだろう。いつかその方法が書かれた物語をつくり、公に発表したいものだ。いまはまだ残念ながらそれだけの力が僕にはない。