『天人五衰』の結末について

世の中には三島由紀夫の小説『天人五衰』のラストが理解できない人がいる。だから僕がそれをここで解説する。

まず、門跡の聡子が嘘をついていたり、記憶を忘れていたりすると思ってる読者がいるが、これはまったくの誤解である。それは聡子の外見からわかる。門跡は美しさだけでなく、犯しがたい神聖さと威をそなえたものなのだ。そこに瑕疵などありえない。

老いが衰えの方向ではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が静かに照るようで、目の美しさもいよいよ澄み、蒼古なほど内に耀うものがあって、全体に、みごとな玉のような老いが結晶していた。半透明でありながら冷たく、硬質でありながら円やかで、唇もなお潤うている。もちろん皺は夥しいけれども、その一筋一筋が、洗い出したように清らかである。かがんで小さくなった体が、どこかしらに花やかな威を含んでいた。 

 

しかし全く同じ言葉を繰り返す門跡の顔には、いささかの衒いも韜晦もなく、むしろ童女のようなあどけない好奇心さえ窺われて、静かな微笑が底に絶え間なく流れていた。

 

門跡は本多の則を超えた追究にも少しもたじろがなかった。これほどの暑熱であるのに、紫の被布を涼やかに着て、声も目色も少しも乱れずに、なだらかに美しい声で語った。

したがって門跡の「松枝清顕を知らない」という発言はまったく正しい。だが我々読者が聡子と清顕の恋愛を『春の雪』で読んできたのもまた事実である。つまり矛盾が起きている。それでは我々はここをどのように解釈したらいいのだろうか。

一般的に言って、我々は過去が変わらないと信じている。客観的に観測された事実は動かせない。例えばさまざまな証拠や監視カメラの映像、証言などから、僕が上野駅の構内を2023年の元旦の正午に歩いていることが明確になった場合、その事実は動かせない。2023年の1月8日にその事実は正しく、次の日の1月9日にその事実が間違っているといったようなことは、けっして起こらないと信じられている。その場合は証拠や監視カメラの映像が間違っていただけのことであって、過去そのものは変わらないというのが共通した認識だ。これは子供でも素朴に信じている法則である。

『天人五衰』は、それを爆破する。聡子はそうした過去の不動性を否定し、そのうえで過去を消去してしまう。したがって本多の人生もまた消滅する。なぜなら人生とは過去の集積に他ならないからだ。

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・・・・」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々ですさかい」

こうした否定はただちに小説そのものの否定に結びつく。物語とは、出来事をつぎつぎと通過し、過去としてまとめることに他ならないからだ。

つまり三島はここで理不尽にも読者へ刀を突きつけている。お前たちが読んできた物語に意味はない。いや、いっさいの小説には何の意味もない。それが『天人五衰』のラストの主張である。

したがって小説家たる三島由紀夫は自殺しなければならない。なぜなら小説を突きつめた結論がこのようなものだった以上、作家の化身である彼もまた無意味な存在となるからだ。死はまぬがれようもないのである。

ちなみに、こうした過去の否定はプルーストとの関連も深い。そのことは次の記事で解説している。

riktoh.hatenablog.com