ヘミングウェイの『日はまた昇る』を端的に言い表すと、これは「耐える」文学である。我々はこの本を通じて、苦しみに耐える人の在り方を学ぶことができる。実際に主人公は作中で、耐えること以外には何もしないのだ。何も事件は起こらない。物語と呼べるものも一切ない。これは驚くほど何もない小説だと言える。
本稿では新潮文庫の高見浩訳を用いる。
難解な小説
この小説はきわめて読解が難しい。これほど難解な小説もなかなかないだろう。
まず、冒頭が分かりにくい。小説の冒頭の記述は多くの場合、その作品の性格を示唆的に語るものだ。とくに主人公かあるいは中心的なテーマについて語ることが多い。たとえば『ロング・グッドバイ』は出だしのところで主人公がテリー・レノックスについて語る。すなわち彼に迷惑をかけられたことと、それこそがまさに自分の仕事であると語る。詳しいことは以前の記事で解説したが、『ロング・グッドバイ』のテーマは、大切な人を、たとえ迷惑をかけられても守り切るというところにある。作者は冒頭でそのテーマに簡潔に触れているのだ。
ある意味では彼のお説のとおりだった。テリー・レノックスは私にさんざん面倒をかけてくれた。しかし考えてみれば、面倒を引き受けるのが私の飯のたねではないか。
しかし『日はまた昇る』の冒頭はどう受け取ればいいのかよく分からない。ロバート・コーンという友人の説明で小説が始まるのだが、記述内容を見ていると、特別親しい相手にも思えない。もし親友であれば、「近しい相手を記述することによって主人公の属性や性格を婉曲的に書いているのだな」と受け取れるのだが、そうではないのだ。実際に小説の本編でも、二人はとりわけ親しく交わるわけではない。しかもそのコーンの人物描写が、また曖昧なのだ。だからますます謎ということになる。
また『日はまた昇る』には内面描写がほとんどない。普通の小説は「何か出来事が起こる→主要な登場人物がそれについて感想を述べる」ということのくりかえしで記述が進んでいくものだ。これによって読者は人物に感情移入できるし、起こったことのニュアンス、すなわち物語と人物への影響について理解ができる。だがこの作品は「何か出来事が起こる→何か出来事が起こる」のくりかえしがほとんどなのだ。これだと起こった出来事がどんな意味を持つのか、読者は受け取るのが難しくなる。
作品を概観する
1~9章は退屈である。何も起きないし、雰囲気は鬱屈としている。
10章で主人公は友達と旅行先に着く。ここから急激に雰囲気が明るくなり、幸福な雰囲気が出てくる。小説を読んでいて面白いのはここからだ。
こうした幸福感は継続し、15章で最高潮に達する。みんなで闘牛を見物するのだ。
二日目の闘牛は、初日よりもっと素晴らしかった。ブレットはぼくとマイクに挟まれてバレラの席にすわり、ビルとコーンは上のほうの席にすわった。その日、観客の視線を一身に集めたのはやはりロメロだった。他の闘牛士には、ブレットは目もくれなかったと思う。それはだれしも同じで、例外があったとすれば、テクニックにうるさい闘牛通くらいのものだっただろう。とにかく、ロメロの独壇場だった。他に二人のマタドールが出場したのだが、彼らは物の数ではなかった。ぼくはブレットの隣りで、闘牛の見所を説明した。牛がピカドール目がけて突進するときは、ピカドールのまたがる馬ではなく、突進する牛に注目するように助言し、注目するように仕向けた。そうすることで彼女にも闘牛の勘所がつかめたはずだし、すべては一つの明瞭な目的のために進行しているのであって、途中の説明のつかない惨劇にはあまり意味がないことがわかってきたはずだった。ロメロが巧みなケープさばきで、倒れた馬から牛を引き離すところを、ぼくは彼女に注目させた。彼がケープで巧みに牛を操り、決して牛の力をそぐことなく、洗練された、なめらかな動きで、いかに牛の向きを変えさせるか。彼女には見えたはずだ、ロメロが無駄な動きをつとめて避け、牛を苛立たせたり混乱させたりせずに、ごく自然にその力をたわめて、自分が望むときに最後の止めをさせるように、牛の力を温存させていたことが。そう、彼女には見えたはずだ、ロメロが終始、牛とすれすれの位置に身を置いて演技をしていたことが。そしてぼくは彼女に、他のマタドールたちがあたかも至近距離で牛を御しているように見せかけるために用いるテクニックを指摘した。彼女にはわかったはずだ、なぜロメロのケープさばきに自分が魅了され、他のマタドールたちのそれには魅了されないかが。
16章から雰囲気は急落する。コーンがブレットのことで動揺して輪を乱し、最終的に暴力をふるう。フェスタのことで牛に突かれて死亡する者も出る。
18章の最後でブレットは闘牛士のロメロと駆け落ちする。これがどん底である。
19章からまた雰囲気は回復する。主人公が一人で旅行を継続するのだ。
近くの更衣所で水着に着替え、満ち潮のため奥行きの浅くなった砂浜を横切って海に入った。大波を突っ切って泳ぎながら沖に出た。ときには波に躍り込んでいかなければならなかった。やがて、ないだ海面に達したところで仰向けになり、ぷっかりと海面に浮かんだ。そうしていると、大空しか目に入らない。海面が沈んだり浮かんだりするのがじかに感じられた。また波が生じるところまで泳いでもどり、うつぶせになって大波に身を任せた。それから向きを変えて泳ぎ、波の谷間に留まって、波を頭上にかぶらないように努めた。波の谷間で泳いでいると疲れてきて、浮き台のほうに泳いでいった。海水は浮力に富んでいて、冷たかった。沈むことなど決してないように感じられた。ぼくはゆっくりと泳いだ。満ち潮のせいか、いくら泳いでも目標が遠しく見えた。やがて浮き台によじのぼり、全身から海水を滴らせながら、板の上にすわった。浮き台の板は陽光に照らされて、もう熱くなりかけていた。ぼくは湾を見まわした。旧酎街。カジノ。並木にふちどられた遊歩道。そして、純白のポーチを備えた、黄金の文字の名前もきらびやかな大ホテル群。右のほうに目を転じると、湾口をふさぐように、古城の立つ緑の丘がせりだしていた。
19章の最後でジェイクとブレットは再会し、物語は幕となる。
「ああ、ジェイク」ブレットが言った。「二人で暮らしていたら、すごく楽しい人生が送れたかもしれないのに」
前方で、カーキ色の制服を着た騎馬警官が交通整理をしていた。彼は警棒をかかげた。タクシーは急にスピードを落して、ブレットの体がぼくに押しつけられた。
「ああ」ぼくは言った。「面白いじゃないか、そう想像するだけで」
核心にあるテーマ
作品の事実レベルでの中心軸は、ジェイクとブレットという男女の関係性である。あらゆる登場人物、あらゆる事件はこの中心軸に寄与するための要素にすぎない。
ジェイクは性的不能になったことをきっかけに、人生に本気で取り組めなくなっている。男としての幸福を取り上げられたので、いっさいの努力もそれにともなう苦しみも、意義のあるものとして感じられないのである。ロバート・コーンに対する次の忠告は、ジェイクの「ありえたかもしれない別の可能性としての自分」の在り方だろう。彼は、可能なら人生に本気で取り組みたいのだ。
「南米なんかくそくらえさ! いまのあんたの気持のまま南米にいったって、何も変りはしないさ。ここはいい街だぞ。このパリで、本気で人生に取り組んでみたらどうだい?」
ジェイクは苦しみを雄々しく耐えているのだろうか? あまりそういう感じもしない。かといって女々しくもない。また、ニヒリズムに陥ってるわけでもないし、自己破壊的でもない。彼はただ単に耐えているのである。必要な重量を、必要なだけの筋力で背負っている。力んでもいないし、押しつぶされてもいない。彼の苦しみはほとんど透明と思われる。つまり他人が見て取るのが難しいのだ。しかし、それは確かに存在している。ずっしりとした重みで彼の魂を苦しめている。ジェイクは何も言わずにそれに耐える。最後まで耐える。だからこの小説は何も起こらない。傷つけられた場面は小説の始まる前にすでに終わっていることだし、小説の開始後も、ジェイクは背負った重しを投げ出したり、あるいは押しつぶされたりしないので、事件というものが発生しないのだ。それは涙の出ない悲しみだと言うこともできよう。
コーンとロメロの人物像
コーンはなんのために配置された人物なのだろうか。
彼は冒頭で中心的にとりあげられる。性格や大学時代のことが書かれたり、恋人のフランシスから長口舌で責められたりする。また、小説を書いており、職業的な作家を目指しているが、いまは行き詰まっている。
その後にブレットと短いあいだ関係を持つが、結局は嫌われる。ブレットからだけでなく、一同からも嫌われる。彼は空気が読めないし、すぐに暴力をふるう幼児的な一面がある。
しかし、それだけだ。けっこうな記述量が割かれてるにも関わらず、それらはすべて主人公の頭上をすんなりと通過していくだけである。コーンは別段親友でもない。だから彼に何の意味があるのか、本質的なレベルがよく分からない。
ポイントは、次の箇所だ。
「外国人である、イギリス人である貴君は」ーー外国人はみなイギリス人だったーー「命よりも大切なものを捧げたのである」。なんという名調子! オフィスにでもぶらさげて、眩い照明でも当てておきたいところだ。その将校はにこりともしなかった。たぶん、ぼくの立場に身を置いていたのだと思う。「ケ・マーラ・フォルトゥナ(運が悪かったんだな)!ケ・マーラ・フォルトゥナ(本当に運が悪かったのだよ)!」 自分としては、そのことの意味を深く突きつめて考えたことはなかったのだと思う。ぼくはそれを軽く受け止めて、ただ人の迷惑にならないように努めている。
ジェイクはすべてを自分から遠ざけて捉えている。したがってコーンとも関係性が薄いのだと考えると得心がいくのではないだろうか。つまり、コーンはやっぱりジェイクの一面を描き出しているのだ。コーンはブレットに心底惚れて、非常に単純に突進する。そして散る。その愚かなほどまっすぐな在り方は、本来ならジェイクも行いたいものなのだ。
より正確には、「コーンは現在のジェイクの一面である」というよりも「さまざまなことが違っていたらこうであったかもしれないという、可能性としての別のジェイクである」と言った方がいいだろう。
そう考えると闘牛士のロメロの存在も理解できてくる。ロメロもまた、ありえたかもしれない別のジェイクなのである。ただしロメロは輝いている。若く、精悍で、堂々とした技術を持ち、将来を嘱望されている。つまり、できればこうでありたかった、というジェイクなのである。コーンはブレットに対して自ら近づいていくが、ロメロは自分の魅力によってブレットを引き寄せている。この二者は正反対なのだ。
ただ、くりかえすが、これら二者はジェイクから距離が遠い。そこにこの作品のポイントがある。底では関係性があるにも関わらず、繋ぐ糸はどこまでも隠蔽されてしまっているのだ。そんなにもジェイクの心は深いところに封印されている。彼のそのような悲しみと諦めを感じ取ること。そこにこの作品の味わいがあると言えるだろう。
物語の二層構造
『日はまた昇る』の物語は二層に分かれていると受け取れる。
表面的な層はコーンとロメロの話である。まずコーンが、主人公ジェイクの愚かな在り方として現れてブレットに向かって突進し、あえなく袖にされる。それは成功のために用意された犠牲である。次にロメロが現れる。彼は理想的なジェイクである。彼は仕事においても恋愛においても成功を見せて、ブレットと結合する。
ここで話が終わっていれば、世のどこでも見られる典型的な物語となる。そうはならないところが『日はまた昇る』の特殊性だ。まだ続きがあるのだ。最後に主人公ジェイクとブレットが再会するところで小説は幕となっている。
この事は、つまり表面的な層とは別に、根底に主人公の物語の層があると考えられる。ただしそこではドラマはいっさい起きないのだ。何も起きない層。それが作品の物語の根底にある。そして表面的な層は、ジェイクの隠された望みを吐露しているのだと受け取れる。二つの層にはそのような関係がある。
彼はきまって、闘牛というやつがわれわれ二人の特別な秘密であるかのように微笑うのだ。そう、ショッキングではあるにせよ、われわれの心中奥深くしまわれている秘密ででもあるかのように。
最後にクライマックスについて述べる。
すでに引用した闘牛の箇所、およびその後にも出てくるロメロの闘牛シーンはとても面白い。独特の味わいがある。そこではジェイク、ブレット、ロメロの三者が登場している。
典型的な物語であれば、ロメロが主人公となって、闘争という困難な試練を乗り越えてから異性と結ばれる。しかし本作ではそうなってない。そこで活躍するのは主人公とは別の男であり、主人公はそれをただ観ているだけなのだ。両者の距離はとても遠い。作られたハードボイルドという無感動の下地に、闘争と恋愛という熱狂が、すなわち異質なものが建設されている。そこに『日はまた昇る』の特別な感興があると言える。ただしそれは本物の果実として結ばれない。けっきょくのところ主人公とヒロインは元の位置に戻ってくる。何も獲得せず、なんらの成長もしないまま戻ってくる。ジェイクは引き続き自分の人生の痛みに耐え続ける。
次の記事に続く。
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