僕はどのように小説を書くべきなのか

僕はいわゆるアマチュア作家だ。プロになることを目指している。もしプロになったらおそらく出版社から売れる作品を書くことを求められるだろう。だから今ここでヒットする小説をつくるにはどうすればいいのかを考えておくのは、きっと有用なことだと思う。

さて、今の時代に小説の需要はない。特に、僕の書きたいと思っている文学や一般文芸の需要がない。それが現実である。ここからただちに導ける重大な事実がひとつある。それは何か?

それは「人々の側に小説や物語に対する需要があって、書く側はそれにこたえる形で小説をつくる」というやり方は通用しない、ということだ。人々は物語を欲していない。だからこのやり方では最初から上限が低く決まってしまうのだ。要するに今の時代においてマーケティングというのはまったくの無意味なのである。読者におもねっていてはヒットを狙えない。

ときおり、顧客の表層的な需要ではなく潜在的に欲しがっているものを狙え、というような論を見かけることがあるが、これもまた無意味である。今の読者は潜在的にも小説を欲していないからだ。とりわけ僕の書こうとしている文学や一般文芸は本当に好かれない。

だから書く側は考え方をあらためる必要がある。需要にこたえるのではなく、読者の脳をハックして無理やり感動させるのだ。相手の顔面に感動という右ストレートのパンチを叩き込んで、ノックアウトさせる。剛直なやり方で心を動かす。そういう小説を書く。そして、読んだ人の口コミで売り上げの拡大を狙う。ロングセラーを狙う。

脳をハックするとは、言いかえれば読者に彼ら自身の意志や希望を認めない、ということだ。読者を単なる脳と、脳の入れ物とみなす。基本的人権などない。彼らは心を持たない肉塊である。我々は脳というブラックボックスにどのような入力をぶちこめば感動という出力が起こるのかを研究するのだ。つまり、どこまでも科学的な態度で創作にのぞむ。そういうことをする。これはもはや麻薬をつくって売るのと変わりがない。

では読者の脳をハックするにはどうすればいいのか?

そこで構造という考え方が出てくる。ここで言う構造とは、あるていどの長さを持った物語や、あるいは物語の場面の裏にひそんでいる、整った型だ。それは読者の無意識に影響をおよぼす。また、具体的な形が異なる別の物語にも応用が可能であるという特徴をもつ。

たとえばセルバンテスが「愚かな物好きの話」で開示したものが典型的な構造にあたる。それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

この構造は『スワンの恋』『カラマーゾフの兄弟』でも使われている、非常に有用なテクニックである。詳細はリンク先に書いておいた。

あるいは影と鏡像などもよく用いられる構造だろう。これはシャミッソーの『影をなくした男』を嚆矢として、ル・グウィンの『影との戦い』や村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などでも使われている。やはり詳細はリンク先で述べている。

構造の良さは、読者の無意識に訴えかけることができる、ということだ。読者の意識は物語の事実や登場人物の心理の変遷などで占められるため、大枠の構造そのものは意識にのぼらない。構造は読み取ることがむずかしいし、そもそも読み取ってもそれだけでは何の感動も引き起こさないものなのだ。構造は物語と一体になって駆動しなければ意味がない。優れた小説は、読者の意識に表層的なものを与えておきながら、裏ではこっそりと無意識レベルで構造を動かしている。すると大きな感動が生まれるのだ。なぜだか人間の脳はそういう仕組みになっているのである。

これが読者の脳をハックするということである。構造のよさは、読み取ることも書くことも、習得に時間がかかるということだ。つまり参入障壁になる。長い時間をかけて売るのを狙う以上は、他者に容易にまねされないようにすることは不可欠だろう。

今日言えることは以上がすべてである。これは大切なことなので、これからもくりかえし考えていきたいと僕は思っている。