得意分野と不得意分野について

次の引用はスティーブン・キングの『IT』の序盤で、主人公ビル・デンブロウが猛烈な勢いで自転車を漕いでいる場面である。ビルは吃音の少年だ。

 彼は走る。ハンドルにおおいかぶさって。けんめいに走る。
 カンザスとセンターとメインの三叉路がみるみる近づく。ここは一方通行と入りみだれる標識と、適当なタイミングをとっているはずなのに実際はそうじゃない信号機がある恐怖の交差点なのだ。まったく地獄で考案されたようなロータリー交差点だと前年のデリー・ニューズの社説は力説していた。
 いつものようにビルの目は右と左をちらりと見、車の流れをつかみ、もぐりこめる穴を探す。もしその判断が誤っていたら――いうなれば、どもりでもしたら――大怪我をするか死ぬかどちらかだろう。
 交差点で渋滞してのろのろ動いている車のなかに彼は矢のように突っこみ、赤信号を突破して、重々しく動いていくばかでかいビュイックを避けるために流れるように右に寄る。肩ごしにぱっと振り返ってまんなかのレーンが空いているのを確かめる。そしてまた前を見ると、交差点のまんなかで堂々と止まっているピックアップ・トラックにあと五秒で衝突するところだった。そのトラックのハンドルの前にすわっているアイゼンハワーに似たおっさんは、首を伸ばしてあらゆる標識をよく読んで、曲がり方をまちがえてマイアミ・ビーチまで行っちゃったなんてことのないように確かめていたのだ。
 ビルの右手のレーンはデリー - バンゴア路線バスの巨体がふさいでいる。彼はむりやりそっちのほうにもぐりこんで、止まっているピックアップとバスのあいだの隙間に飛びこんで時速四十マイルのスピードで走りつづけた。間一髪彼の頭がぱっと横を向く。ピックアップの助手席のサイドミラーにぶつかって前歯を折るという事故をあやうく避けたのだが、そのそらせ方ときたら、はりきりすぎた兵隊がかしら右をしたみたいだった。バスのディーゼルの熱い排気ガスが強い酒みたいに喉にしみる。自転車のハンドルがバスのアルミの車体をかすったらしく、きいっというかすかな音がする。バスの運転手がちらりと見えた。ハドソン・バス会社のひさしつきの帽子をかぶった顔は紙みたいに白かった。運転手はビルに向かって拳を振りまわしながらなにか叫んでいる。ハッピー・バースデイと言ったどうかは怪しいなとビルは思った。

目に映っている視覚をどのように描写するかというのは、どうやら小説の根強いテーマのようである。それは読者に想像することを要請する。読者は視覚としてはあくまでも単なる文字列を見ながら、同時に、心の内側ではその文章が意味する光景を描いていくことになる訳だが、その想像という行為がどうやら一種の快楽を読者に与えるらしいのである。

次の引用はユゴーの『ノートルダムドパリ』の終盤からで、主人公カジモドが想い人エスメラルダの処刑される光景を眺めている場面である。カジモドは大聖堂の上に立っており、エスメラルダはグレーヴ広場にいる。ユゴーはこのクライマックスの場面を、驚くべきことに俯瞰映像で書くということを試みた。カジモドが食い入るように処刑を見ている様子が伝わってくる、迫真の筆致となっている。

ただ、そしてそれが、司教補佐にものをたずねるやり方でもあったのであるが、カジモドは彼の視線の方向をたどっていった。そうしていくと、不幸な男の視線は、グレーヴ広場に落ちた。
 こうして彼は、司教補佐のながめているものを見たのだ。年中すえつけっぱなしの絞首台のそばに梯子が立てかけられて、広場には何人かの人と大勢の兵士がいた。ひとりの男が敷石の上を何か白いものを引きずっていて、それにはまた黒いものが一つついていた。この男は絞首台の下でとまった。
 そのとき、何かが行われたのだが、カジモドの目にはよく見えなかった。彼の独眼が遠目がきかなくなったためではなく、大勢の兵士が邪魔になって、よく見えなかったのだ。そのうえ、ちょうどこのとき、太陽が現れ、地平線のかなたから、光をさんさんと浴びせかけたので、パリのあらゆるとがったもの、尖塔も煙突も、切妻屋根も、いっせいに、燃えあがるように輝いたからである。
 やがて、男は梯子を登りはじめた。するとカジモドには、その男の姿がはっきりと見えた。男は一人の女を肩にかついでいた。白い服を着た娘だった。この娘の首には縄がかかっていた。カジモドはその女が誰であるのかがわかった。まさしく、あの女だった。
 男はこうして梯子の頂上まで登っていき、そこに縄の結び目をかけた。このとき、司教補佐はもっとよく見ようとして欄干の上に膝をついた。
 とつぜん、男は、かかとで激しく梯子をけった。カジモドはさきほどからじっと息を殺していたのだが、この不幸な娘が、敷石から四メートルもあるところで、縄の端にぶらぶら揺れるのを見てしまった。彼女の肩に、さっきの男はうずくまって乗っかっていた。縄は何度もぐるぐるまわった。そして、このジプシー娘の全身がぶるぶると恐ろしいまでにけいれんしたのが、カジモドの目にはいった。司教補佐は、首を前に突き出し、目をむきだして、男と娘との、いや、クモとハエとの、恐ろしい一組の姿をじっと見つめていた。

『IT』が凄まじいスピードで走る自転車にGo Proを取り付けたような臨場感あふれる映像を提供するのに対して、ユゴーは俯瞰映像で事件を描くということをしている。これらの引用を見るだけでも、様々な映像の切り取り方の工夫というものがあるということが理解されると思う。

このような人間の視覚について、ある卓見に到達した作家として、マルセル・プルーストも挙げることができるだろう。彼はこう考えた。人間は目に映っている映像に対して、常に理性によって無意識のレベルで補正をかけている。すなわち、ある物体が別の物体の裏に隠れて見えなくなったとしても、それはその物体の消失を意味する訳ではない。それはただ隠れているだけであり、実際には存在しているはずだ。

あるいは、遠くに映っている小さくて遅いスピードで移動している物体に対しては、我々は無意識下でこう自分自身に言い聞かせている。「あれは実際には大きくて高速で移動している物体なのかもしれない。それはただ遠くにあるから小さく・遅速に見えているだけなのかもしれない」と。もしもそのような判断がなかったら、我々は走っている車に轢かれてしまい、町を歩くことさえ不可能になってしまうだろう。

プルーストは、このような色眼鏡を取り去って視覚を率直に描写すると、そこにはとても面白い映像が表れることを知っていた。

これらの花は、断崖のうえの庭をいろどるペンシルヴェニアのバラの植え込みにも似た軽やかな生け垣によって私の前の水平線を縦に切断しており、花と花のあいだには蒸気船の通る水平の航跡が収まっている。蒸気船は、青い水平線上を一本の茎からもう一本の茎へとゆっくり進んでゆくから、ずっと前に船体が通過した花冠の奥にぐずぐずしていた怠け者のチョウも、船の進む先にあるつぎの花の最初の花弁に舳先が届くには紺碧の隙間をほんのわずかに残すだけになるのを待って飛び立っても、確実に船よりさきにその花に着けるのである。

解説すると、船は遠い所にあるので非常に小さく目に映り、ゆっくりと動いているが、花はすぐ手前にあるので、そこをいきかう蝶は船よりも(見た目上は)速く動く。だから蝶はあっさりと船を追い越して次の花まで移動できる、ということを描写した場面である。

プルーストの描写が我々に感動を引き起こす理由は二点ある。プルーストは長い経験から、人の頭には見た映像がしっかりと記憶されているということを知っていた。だからその記憶された原映像というべきものを読者に対して再現してやれば、大きな感動を引き起こせるはずだと考えていたのである。なぜならそれは我々が日々感じているにも関わらず、無意識へと抑圧してしまっているものだからである。人はそういう意識と無意識のさかいにある物を認識し、把握すると、深い感動を覚えるものなのだ。

もう一つは原映像は実際の現実とは異なるので、そこには避けようのないおかしさが生まれるということだ。プルーストは常にユーモアの念を持ってこれらの情景描写をしていたのである。

その他に視覚をあつかった代表的な作品としては、レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』がある。

話の筋を解説すると、主人公の家に盲目の男が客としてやってくる。主人公はそこで男とともにテレビを見る。そこにはパリの有名な大聖堂が映っており、ナレーターが解説をする。主人公にはその映像が見られるのだが、盲目の男には大聖堂がどんなものか分からない。そこで主人公は話題に困り、なぜだか大聖堂がどんなものか説明しようとする。しかし主人公は言葉で大聖堂を描写できない。そこで彼は途方にくれるのだが、盲目の男は次のように提案する。すなわち二人で一緒に手を重ね合って、紙の上に絵を描いてみるということだ。そこで主人公は次第に集中力を出して、紙の上に絵を描くことにのめり込む。それで盲目の男も大聖堂の在り方を理解し、二人は相互理解を一歩進めるのだ。

「ねえ、いったいぜんたい何してるの?」
 私は返事しなかった。
 盲人が答えた。「我々は大聖堂を描いてるんですよ。私と御主人とで。さ、もっと強く描いて」と彼は言った。「そうそう、それでいい」と彼は言った。「その調子だよ、バブ。私にもわかるよ。あなたはできないっこないって思ってたけど、ちゃんとやれるじゃない? たいしたものだよ、ね。もう少しでばっちり完成するよ。腕の具合は大丈夫かな?」と彼は言った。「今度は人々の姿を描きこもう。人の姿のない教会というのも妙なものだからね、バブ」

この話は、作者のカーヴァーが、作家として物や情景の描写に困ったことがあるという経験におそらく由来している。作家は言葉のみで事物を表現し、読者に伝えなければならない。それは実は盲目の男に対して大聖堂を説明しようとする主人公と同じ立場である。

色々述べてきたが、僕が言いたいのは、視覚や映像というのは文学の一大テーマだということである。

しかし実は、僕は小説を書くにあたって映像や視覚をあつかうのが不得意だ。読者としてはこのテーマを楽しんでいながら、どうも書く側としてはあまり大したことを書けないのである。よく考えてみれば、僕は映像を見るのがそもそも好きではない。映画もあまり見ないし、見ても映像には感動しない。あくまでも話や俳優の演技に心を動かされる。どうもこの事に関しては僕は感度が低いらしい。

僕はそのことを残念に思う。これほど巨大で伝統的なテーマについて、自分なりのオリジナルな意見や表現を将来にわたって持てないであろうことに、僕はがっかりする。

けれどもよくよく反省してみたら、不得意なことばかりではないという気もしてくる。

たとえば僕は小説を書く上で、話中話という構造が大好きだ。自作に話中話を挿入するときは背筋がゾクゾクする。得意球が放られたなと思い、しっかりとバットで打ち返してやろうという気になる。事実、零合舎という出版社に渡した短編小説も、話中話が大きな鍵になっている。

そういうものがあるのは幸福なことだと思う。たとえばプルーストは比喩という古くからある概念に着目し、それに独特の改造をほどこして自分の小説の持ち味とした。伝統的な、どこにでもあるような技法をあらためて問い直し、自己流の変奏をおこなうのは、創造における一種の必殺技だと僕はとらえている。僕自身もいつかはそういうことをやっていきたいと思う。やはり人間、得意分野に注力するのが一番だろう。