『ドン・キホーテ前篇』はあらゆる物語の中でも最高のものだ。他のすべての物語を置き去りにしてひとり頂点に在る、と言っていいだろう。
しかしこの作品は『後篇』で崩壊してしまう。作者のセルバンテスは物語の力を否定し、読者を徹底的に攻撃するのだ。それは倫理的に言えば悪である。セルバンテスは物語の語り手としてやってはいけないことに手を染めてしまった。
僕が興味を持つのはそのメカニズムである。どうして『ドン・キホーテ』は『後篇』で崩壊してしまうのだろうか。
『前篇』の特徴は主人公ドン・キホーテの愚者性と自己犠牲である。この二つの性質は表裏一体のものだ。ドン・キホーテは狂っている。彼は愚者になりきることで他のすべてのものの下につき、彼らを支えている。それが自己犠牲ということなのである。そして主人公のドン・キホーテとは作者のセルバンテスの化身であるから、『前篇』を書くことはセルバンテス自身の自己犠牲の行為に他ならない。
『後篇』はそのような自己犠牲が理解されないということにセルバンテスが怒り、小説という枠組みを通じて世間に復讐するということなのだと受け取れる。『後篇』に落胆とおぞましさを見ない人は、セルバンテスの怒りを見て見ないふりをしていると言っていい。そういう態度を倫理的であるとはとうてい言えない。僕はそういう人を軽蔑せざるをえないだろう。
ところで僕は自分の手で優れた小説を書きたいと思っている。そのためにできる限りのことを『ドン・キホーテ』という小説から学びたいと思っている。だから愚者というメカニズムを習得し、自分の作品に組み込みたい。
でも同時に、先人と同じ轍を踏みたくない、とも思っている。自己犠牲に失敗したくない。そもそも怒りを溜め込むのは自分自身を不幸に追い込むことであるから、僕は人並みに保身の気持ちがあるので避けたいと思ってしまう。また、怒りを作品に込めて世間に復讐するのは、正直なところみっともない。そういう醜態を演じたくないという思いもある。
だから僕は犠牲や慈悲ということに注目し、考察を深める必要があると思っている。それにより、おそらく過去の自己犠牲の概念や尊さは否定されるだろう、と予測している。よくよく考えてみると自己犠牲は不思議な主張ではないだろうか。なぜなら自分も他者もけっきょくは同じ人間なので、どちらも尊い命であることに変わりはないからだ。普遍的な視点に立てば、自分の命を捨てて他者を救うのも、保身を図って他者を犠牲にして自分を救うのも変わりがない。同じことである。
この考え方は保身や利己心とは違う。まず、人は意識的には保身的、利己的にしか動けない。意識を眠らせ、思考を捨て、無意識的に動くときにのみ人は利他的に動ける。自分を犠牲にし、他者のために働ける。僕が言っているのは、こうした枠組みをさらにひとつ上の視点から捉えるということだ。メタ的に物を見る。いっさいの事物をおのれの手のひらの上に収めて眺める。そこから発する慈悲の心であらゆる出来事に臨む、ということを言っている。
むずかしいのは、この考え方を作品に組み込もうとして、単純な考え方で話に落とし込むと、単なる利己的な精神と表面的には区別がつかなくなるということだ。自分と他者を舞台に置いて、自分のために他者を犠牲にする、という筋にした途端、それはもう保身を図る話ということになってしまう。書く側にそういうつもりがなくても読む側はそう受け取ってしまうものなのだ。
だから工夫を挟む必要がある。そこでおそらく今まで考察してきた影と鏡像というテーマや、古事記の二の姿というテーマが合流してくるに違いないと僕は思っている。
ただ順番としては、まず僕は犠牲というテーマについて考えを深めるべきだろう。来年は旧約聖書を再読しようと思っているのは、そこらへんが理由なのである。
