ミッドポイントと倫理観

三幕構成においては物語がミッドポイントを通過すると、主人公の状況が大きく下降する。この仕組みはすでに過去の記事で述べたが、作者の中心にある倫理観が、主人公が楽な道を行くのを赦さないということによって起こる。

これは考えてみれば不思議な作用である。なぜ最初から主人公に困難な道を行かせないのか、という疑問が湧くし、楽な道に行ったにもかかわらずそれがひっくり返されるのはなぜなのかという疑問が湧くだろう。

ここで我々は倫理観とは何かについて考えてみる。僕の考えでは、物語の面白さの強度を決定づける要因のひとつとして、作者の倫理観がある。倫理観が強ければ強いほど物語はより面白くなる、と僕の直感が言っているのだ。

では倫理観の正体とは何であるか?

それは物語から離れて一般的なものを問うとすれば、社会の規範から逸れない能力だと言えよう。悪が何であるかはすでに決まっている。殺人や盗みや侮蔑が悪であり、それとは逆のことが善である。話はわりと簡単だ。

しかし物語について言えば、倫理観はむしろそこからの逸脱を意味している。通常の倫理観の軛をゆるめて、そこから逃れることこそが物語をつくることにおいて求められる、真の倫理だと言えるだろう。なぜなら作者は主人公に楽な道――すなわち愚かな道――を進ませなければならないからだ。そしてその逸脱が限界に達したところで、舵を逆にきる。船を安全な陸地へとたどり着かせる。そういう運航能力が物語の作者には求められるのだ。

こうして考えると物語における倫理観の強さとは、どれだけ通常の倫理観から逸脱した上で戻ってこれるか、を指すものだと言える。逸脱が大きい上にそこから回復しきれるなら、作者の倫理観は強い。物語は面白くなる。逆に逸脱が小さかったり、あるいは逸脱から回復できないなら、作者の倫理観は弱いと言える。彼は失敗するだろう。

さて、それではなぜ我々は物語を求めるのだろうか。結局のところ最初に戻って来るのなら、そもそも物語なんて必要ないじゃないか、ということが言えるのではないだろうか。

それは、通常の倫理観がそもそも砂上の楼閣だから、ということがひとつの答えになるのではないだろうか。実際問題として、五十年前と今とを比べると、許される言動や振る舞いといったものはだいぶ変わっている。我々はつねに通常の倫理観を揺さぶって、少しずつ変質させていかなければならない。何が許されることで何が許されないことかをひとりひとりの人間に考えさせ、問うていかなければならない。それが物語のひとつの役割だということが言える。

もうひとつの答えとしては、通常の倫理観は個人の希望と衝突しうるから、ということが言えるだろう。社会の規範は個人の希望を封じ込め、圧殺しようとしてくるところがある。そのような窮屈な場所から個人が一時的にでも逃れて、息をするために物語はある。物語とは、空間である。それは社会という、狭い、必要なだけのスペースしか確保されていない街に、少しだけ余幅を与える。それが物語の価値なのだ。