『スローターハウス5』を読む

早川書房から出ているカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を読んだ。それについて書く。

この小説で書かれていることはひとつだけだ。それは人が戦争に――というよりも戦争を含めたありとあらゆる理不尽な災いに――直面したときに尊厳を傷つけられたことで起こる、怒りである。それも生の沸騰した怒りではなく、冷却された、心の底におちた澱としての怒りである。それは生涯を通してくすぶりつづけ、くりかえしその人の心に疑問をひき起こすのだ。「なぜ私がこのような目に遭わなければいけなかったのだろう?」

その疑問に答えはない。それはただそういうものなのである。

カート・ヴォネガットはその「答えのなさ」を表現するために突拍子もない物語を語る。宇宙人というあまりに実在性のないものを大真面目な顔で登場させるのである。彼らトラルファマドール星人は実質的な主人公であるビリー・ピルグリムという人物を誘拐し、次のような対話をする。これは優れて文学的な場面である。

「ようこそ、ピルグリムくん」と、ラウドスピーカーがいった。「何か質問は?」
 ビリーは唇をなめ、ほんのしばらく考え、やがてたずねた。「なぜ、わたしが?」
「それはきわめて地球人的な質問だね、ピルグリムくん。なぜ、きみが? それをいうなら、なぜわれわれが? なぜあらゆるものが? そのわけは、この瞬間がたんにあるからだ。きみは琥珀のなかに捕えられた虫を見たことがあるかね?」
「ええ」事実ビリーは、三匹のテントウムシの入った、磨きあげられた琥珀のかたまりを、オフィスで文鎮に使っていた。
「われわれにしたって同じことさ、ピルグリムくん、この瞬間という琥珀に閉じこめられている。なぜというものはないのだ」

物語はビリー・ピルグリムの生涯を語るが、それは通常の時の流れに沿ってではなく、意識のタイム・トラベルを用いて語られる。つまり意識だけが突然十年先の未来に飛んだり、また戻ってきたりするのだ。小説は時間の順序をめちゃくちゃにしてビリーの人生を語る。それにより、彼は捕虜として屈辱的な扱いを受けたり、トラルファマドール星人に誘拐されて見世物にされたり、幸せな結婚生活を送ったり、娘に頭がおかしくなったのではないかと思われる生活を送ったりする。それらの複数の場面が、ほとんどなんの脈絡もなく切断され、繋ぎ合わせられるのだ。ビリー・ピリグラムは自己の死――まったく理不尽に殺される――さえも先取りする。その後に彼はタイム・トラベルで過去に戻り、普通に暮らすのである。

このような構成には二つの効果がある。

一つ目は、不幸だけでなく、幸福でさえも完全な偶然の産物であるという印象を読者に与える、ということだ。それは不幸と同様にまったく理不尽に与えられるものなのである。人生において、真の意味では我々は自由であり得ないのである。他者が死んで自分が生き延びるのも不思議なことだし、他者が生き延びて自分だけが死ぬことも同様に奇妙なことなのだ。いくら望んでも幸福が与えられないこともあれば、望んでいないのに幸福が与えられることもある。そこは個人の意志とは関係のない領域で決定される事項なのである。まったく突然に、なんの正当性もなくトラルファマドール星人という異星人が出てくるのも、すべてはこのような「理不尽さ」の延長上にある語りの手法なのである。それはほんとうに突拍子もないのだ。

二つ目は、主人公の死を先に語ってから、のちに主人公が生きていた時代の生活を語ることにより、読者は命の儚さを感じるということがある。それは一瞬で崩れうる脆いものであり、しかもそのような弱さは自分にも、誰にも共通しているものなのだということを、読者は悟る。このような構成は、たとえば戯曲『わが町』や小説『存在の耐えられない軽さ』にも見られる。どこにでも顔を出す典型的な構成手法なのであろう。

結局、物語は怒りを解決しないまま幕を閉じる。それは最初から最後まで動かずにただ存在し続ける。それは氷漬けになった永遠の未解決問題なのである。