『ダブリナーズ』を概観する

ジョイスの『ダブリナーズ』を柳瀬尚紀訳で読んだので、それについて書く。

この小説の中心を貫く構造はソーントン・ワイルダーの戯曲『わが町』に似ている。そっくりと言っていい。事件性の少ない市民の生活の描写が物語の殆どを占めており、最後にそれを死者の側の視点から眺めることになる。今生きている者も必ずいつかは滅びるのであり、そのような遥か未来の視点に立って見てみると、生者の現在の生活ですら、既に死んだ者が思い出の中でのみ生きている姿となんら変わりがないように感じられてくる。すると何気ない暮らしの些細な描写ややり取りが、素晴らしく尊い物に思えてくるのだ。次は水谷八也による『わが町』の解説である。

 このような特色をワイルダーは演劇という表現手段が本来持っている可能性であると積極的にとらえていた。このとらえ方は現実世界に対する彼の見方にも反映されていた。人はそれぞれ個別の人生を生きている。人はその人固有の人生の中で、その時、その場でしか起こりえない特別の出来事を体験している。その意味でわたしたちは誰もが異なった個別の、その人に特別な瞬間の連続を生きていると言える。
 しかしそのすべてのひとりひとりの体験の個別性を見ていけば、隣の人の個別性と共通した部分が多くあることにも気づく。それぞれが個別の幼児体験を経て、思春期に思い悩み、パートナーを見つけたり、見つけられなかったりしながら、いつの間にか老い、死を迎える。隣の人とは絶対に異なる「生」を歩みながら、人間に共通の繰り返しのパターンを生きていることもまた事実である。わたしたちはひとりひとりがこれほど多様な個性を持ち、異なる人生を歩みながら、驚くほどの類似性を持っているのだとワイルダーは考えていた。
 彼はここにふたつの「真実」を見る。世界にたったひとつの、ただ一回の個別の出来事という「真実」と、無数の同じ出来事を含み、それらを要約するような「真実」を。そして演劇がこのようなふたつの真実を同時に語りうる最適の表現形式であると彼は確信していた。小説がある人の個別の出来事を伝えるのに優れた手段であるとするなら、演劇は普遍化されたことを伝えるのに優れた手段であると。彼の関心は個別の真実を通して、普遍的な真実に至る表現形式を模索することにあった。

同じことを中島義道は『哲学の教科書』で次のように述べている。

 私は何を言いたいのか。哲学は何の役にもたちません。しかし、それは、確実に見方を変えてくれる。有用であること、社会に役だつこと以外の価値を教えてくれる。人のために尽くすこともいいでしょう。老後を趣味に明け暮れるのもよいでしょう。しかし、本当に重要な問題はそこにはない。それは「生きておりまもなく死ぬ、そしてふたたび生き返ることはない」というこの一点をごまかさずに凝視することです。そして、このどうすることもできない残酷さを冷や汗の出るほど実感し、誰も逃れられないこの理不尽な徹底的な不幸を自覚することです。ここに、「死者の目」が獲得されます。それは、この本で何度も触れたように宇宙論的な目であり、童話の目、子供の目にも近い。そして、そうした目で見ると、税務署や検察庁の職員たちも奈良時代の官吏のように輝いてくる。あと一億年すれば、いや一千万年でもいいかもしれない、多分人類の記憶は宇宙に一滴も残らないであろう。このことを実感して、夜の電車の中にすしづめになり家路を急ぐくたびれ果てたサラリーマンたちを、その上に揺らめく刺激的かつ下品な吊り広告を見ていると、すべてがガラス細工のようにもろくはかなく美しく見えてくるのです。

とは言え『わが町』と『ダブリナーズ』の間には相当大きな差異がある。後者の方が遥かに混沌としており、豊かな内容を含んでいると言える。容易に咀嚼し消化することが不可能なのだ。作中に頻繁に登場するモチーフを次のように並べてみた。

    • 「姉妹」でのフリン司祭の死
    • 「エブリン」におけるエブリンの母の死
    • 「痛ましい事故」におけるシニコウ夫人の死
    • 「死せるものたち」におけるマイケル・フュアリーの死
  • 男女関係
    • 「出会い」における恋の示唆
    • 「アラビー」「エブリン」「下宿屋」などの恋愛
    • 「二人の伊達男」における男女関係
    • 「小さな雲」における主人公夫妻
    • 「痛ましい事故」における男女の友情
    • 「死せるものたち」における主人公夫妻
  • 金銭
    • 「出会い」における六ペンス
    • 「アラビー」で主人公がバザーへ行くためのお金をもらう
    • 「エヴリン」における給料や仕送りの話
    • 「カーレースが終って」における賭け事
    • 「二人の伊達男」における最後の金貨
    • 「下宿屋」における下宿代
    • 「写し」における質入れ
    • 「土くれ」におけるプラムケーキの代価
    • 「恩寵」における会計係という単語
    • 「母親」における契約の報酬
  • 混沌
    • 主役の性別や年齢層が幅広い
    • 「カーレースが終って」における国籍の豊かさ
    • 「死せるものたち」におけるパーティの賑やかさ
  • 食べ物
    • ほとんどの短編で酒が登場する
    • 「姉妹」でコッター爺さんが夕食を食べている
    • 「出会い」で少年たちは様々なものを買い食いする
    • 「土くれ」におけるプラムケーキ
    • 「死せるものたち」では実に多くの料理が登場する
      • 随所に登場する
    • 怒り
      • 「姉妹」における主人公のコッター爺さんに対する怒り
      • 「アラビー」で主人公が最後に怒りに打ち震える
      • 「写し」で主人公が雇い主から叱られる。
    • 折檻
      • 「出会い」における鞭打ち
      • 「写し」で主人公が子供を叱る。
    • 赦し、祈り
      • 「姉妹」における聖杯
      • 「写し」で子供がアヴェ・マリアのお祈りをしようとする
      • 「土くれ」における祈祷書
      • 「恩寵」における静修
  • 二面性
    • 「姉妹」におけるフリン司祭の笑顔の不気味さ
    • 「出会い」において男が突然暗い側面を見せる
    • 「アラビー」において前の司祭が、ヴィドックの回想録を持っていた(ヴィドックはフランスの有名な犯罪者である)
  • 催し事、集会
    • 「カーレースが終って」におけるカーレースや、酒盛りなど
    • 「母親」における演奏会
    • 「恩寵」における静修
    • 「死せるものたち」におけるパーティ

こうして一望すると滅茶苦茶という気がしてくる。整理ということが不可能なのだ。何がメインディッシュなのかよく分からないコース料理を食わされているような感じなのである。最初にこの本を開くとき、読者は一体何が中心的な問題になっているのかよく分からないまま終盤まで進んでいくはずだ。多分『ダブリナーズ』に収録されているすべての短編がもれなく好きという人は稀だろう。内容に統一性がなくバラバラなので、これは好き、これは退屈というふうに様々な感想をいだきながら進んでいくことになると思われる。最後まで読み切らないと中心を貫く柱がないように見えるので、途中でこの本を投げ出してしまう人も別段珍しくあるまい。

二面性のある事物やモチーフが多い。例えば食べ物というモチーフには酒という堕落を招くものもあれば、「土くれ」に登場するプラムケーキのように罪のない可愛らしいものもあるし、男女関係というモチーフにおいても、不和のあるカップルもあれば、「下宿屋」のように上手く行くカップルも登場している。それらはどちらか一方が正しい、もしくは間違っているという価値が付与されておらず、単にポンと置かれているだけであり、どこにも解決や結末というものに行き着かないので、読者は消化のしようがなく、いささか困惑させられる。

このような混沌とした、消化が不可能なまるごとの生(なま)の体験は、最後に美しく相対化される。死という劇薬が隣に置かれると、この地上におけるいかなるものも等しく矮小になり、儚く脆く、しかしそれゆえに輝いて見えてくるのである。