誰も僕のブログを読まない

僕は物語を読み解くのが得意だ。たとえば映画『君たちはどう生きるか』の記事を書いたが、アオサギが零戦のメタファーであることをネット上に発表したのは僕が初めてだと思う。少なくともこのことについては僕が一番乗りというわけだ。

しかし誰も僕のブログを読まない。それはなぜだろうか?

おそらく人々は物語を読み解くことに関心がないのだろう。というよりも、嫌っている。そんなことをしてほしくないと思っている。だから僕のブログを避けるのだ。

人々が本当にしてほしいのは、自分の気持ちに寄り添ってもらうことだ。作品を鑑賞した時に自分が感じたことと、同一のことを書いている人がいやしないかと探している。共感したいと願っている。それで仮に僕のブログにたどり着いたとしても、書かれてあるのは物語の仕組みや構造だけだ。僕の「気持ち」はほとんど書かれていない。そこで人々は失望し、僕のもとから去っていく。いや、失望どころの話ではなく、彼らは鼻白む。自分の気持ちがどういう由来で発生したのかなんてことを彼らは知りたくないのだ。そこには蓋をしておきたい。自分の気持ちは神聖なもので、ごく自然に発生してきたものだと思い込んでいたいのだ。神の幕屋を暴いてはならない、というわけだ。

僕はそういう態度をつまらなく思う。軟弱者だな、と捉えてしまう。だからこのブログにはあまり「気持ち」や「感想」を書かないようにしている。僕はひたすら作品の構造解析だけに取り組んでいる。

ただ僕が不思議に思うのは、こうしたことは作品の鑑賞だけをする人に限らない、ということだ。作品を作る側の人も僕のブログにはいっさい関心を示さない。彼らもやっぱり自分の気持ちを我が子のように大事にして胸の中に抱いていたいのだな、と思う。そういう態度には正直なところ失望させられる。

例えば『書記バートルビー』という有名な短編小説がある。この作品の鍵は、以前書いたとおり、困惑気味の善悪二分法にある。露骨なまでに強調されている以上、これを無視して『バートルビー』を語ることはできないだろう。『バートルビー』のいかなる部分を語るときも、読者はこれを前提として語らなければならない。僕はそう思う。

しかし実際にネットで『バートルビー』を読んだ人と話しても、この話題が向こうから出てくることは絶対にない。気がついてないのだ。僕がこのことについて話しても、通じる人はほぼいない。頭で理解しても、心は納得していない。そんなことがなんで重要なのか分からない、という態度を取られてしまうのだ。相手が批評家や、アマチュアといえど創作者である場合もこんな感じなので、僕としては考えさせられてしまう。僕は今後、こういう「分からない人」について見識を深めていかなければならないな、と思う。僕は現状こうした人たちを見下しているが、たぶんその態度も早急に改めなければならないだろう。襟を正す必要がある。

なぜなら僕は僕の話を人に聞いてほしいからだ。でも自分を馬鹿にしてくるような人と話したいと思う者は少ないだろう。僕は自分に正直になって、他者との関係性を見直す必要がある。