あらためて村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を解説する。
先行作品
この小説は読者がすでにヘミングウェイの『日はまた昇る』と『武器よさらば』を読み終えていることを想定している。これらの作品を理解していないかぎり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が理解できることもないだろう。
『日はまた昇る』と『武器よさらば』に共通しているのは、その異常なまでの主人公の心的硬直である。両作品は一人称で書かれているが、どちらにおいても主人公は自身の内面をほとんど語らない。彼は明らかに傷ついている。戦争によって体を傷つけられた結果、『日はまた昇る』の主人公は性的不能になって女性との結合を諦めざるを得ず、『武器よさらば』においては兵役を拒否して逃亡生活を送る。しかしそのような傷ついた内面が語られることはほとんどない。主人公はすっぱりと諦めているのだ。だが、その「諦めている心持ち」が語られることもないので、読者は唖然とさせられる。それでいながら作品の持つ奇妙な魅力に惹かれて、我々はヘミングウェイを読む。
こうした心的硬直が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中で端的にあらわれているのは、ピンクの若い娘と図書館の司書の女性の語るエピソードである。ピンクの若い娘はくすの木と鳥と雨ふりの話をする。その日の夕方に彼女の家族はみんな死んでしまったのだが、ピンクの若い娘にとって悲しいのはそのことではなく、また別の普遍的な悲しみなのである。図書館の司書の女性は終盤で自分の夫が理不尽に殺されてしまったことを語る。その口ぶりはそっけなく、感情は込められていない。
村上春樹はこういった心的硬直を文学的課題とみなした。彼はこれを、戦って攻略すべき砦と捉えたのである。その具体的な成果が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』である。
作品構造の大枠
この作品は奇数の章がハードボイルド・ワンダーランド、すなわち「私」が主人公で、偶数の章が「僕」、つまり世界の終りのパートである。それぞれは違う舞台設定が成されている。前者は日本の東京が舞台であり、後者は架空のファンタジー世界が舞台である。世界の終りのパートでは街は高い壁に取り囲まれており、僕や住民は外に出ることができない。それは鳥しか越えられない壁なのである。
実際は「私」の内面で起きている物語が「僕」の物語なのであるということが作品の途中で明らかになる。たとえば一章の冒頭は主人公がエレベーターから閉じ込められているところから始まるが、これは実は「私」の頭蓋骨の中に閉じ込められている「僕」の状況の比喩なのである。街の壁が頭蓋骨を示している、というわけだ。こうした暗喩は他にもちりばめられている。博士が孫娘を指して「外の世界に出ようとしない」と言ったり、あるいは「私」が地の文において次のように言ったりすることである。「私は大昔のエジプトの王様が死んだあとでピラミッドの中に閉じこもりたがった理由がよくわかるような気がした」。
物語の序盤においては、奇数章と偶数章の両サイドはさまざまな事物の連関や比喩によってゆるいつながりが形成される。ハードボイルドの側で左脳・右脳の話が展開されたかと思うと、世界の終りの側では次の章において「ふたつの半円は北の広場と南の広場と呼ばれ、一対のものとして扱われた」と出てくる。これはもちろん、それぞれの広場が左脳・右脳という事物とイメージ的なつながりがあることを示している。同様に、三章においても四章においてもペーパークリップとコーヒーが出てきて、両主人公がコーヒーを飲むという形で、イメージとしての重なりが示唆されるのである。
物語の本来の目的は、「私」と「僕」の融合である。序盤にある次の一節は、物語の理想の終着点を婉曲に示している。括弧内は僕(リクトー)による追記である。
(左脳と右脳が分かれている図を示して)要するにこのギザギザの面をぴたりとあわせないことには、でてきた数値をもとに戻すことは不可能である。
主人公は「私」と「僕」のふたつに分裂してしまっている。それをもとに戻すことが設定されたゴールなのである。つまり左脳と右脳は比喩的な力によって、「私」と「僕」という分裂構造にもつながっているのである。
しかし最後まで読めば明らかなように、このゴールは達成されない。目標は延期され、別の長編『街とその不確かな壁』でようやく実現がなされるのである。
物語の流れ
「私」の側のストーリーのミッドポイントは、博士から意識が終わることを知らされるところである。「私」の側の物語は、基本的にはミッドポイントの前後に状況の落ち込みがあり、ミッドポイントを通過して以降はすべてを諦めるだけなので、読者は奇妙な浮遊感をあじわうことになる。そこには葛藤がないので、状況の降下もなければ地面との激突もないのである。かなり独特な爽快感を我々はよみとることになるだろう。
「僕」の側のストーリーのミッドポイントは、影から脱出を提案されるところである。そこから状況は緊迫感を増していく。最終的に「僕」は影と共に外へ出ていくのをやめて街で過ごすという決断をくだす。そのような決断と共に物語は幕を閉じる。同時に「僕」や「図書館の女の子」の心が取り戻される方向が示唆されているので、悲観的な結末ではないのだが、事態のすべては解決されないのである。これは、外側の世界を閉じて切り捨てることで、内側の世界にすべての心の資源を投下し、内側の問題だけでも解決しようという意志のあらわれだと受け取れる。
「私」の側のストーリーの特徴は、主人公が見ているものすべてを完全に地の文で描写しようとする執念深さだろう。一方で主人公の感情の動きはあまり描かれない。ここからは『武器よさらば』的な作風の印象を受ける。これもまた心的硬直の表現の一種である。
ミッドポイントを通過して主人公が地上に戻ってからは、このような方向性は、まもなくお別れする世界を惜しんでいるという態度としてあらわれる。彼はそれを公正さと呼び、愛情にも似たものだと言う。これは追い詰められることで封印されていた心が解放され、心的硬直が解けていく前兆なのだと受け取れる。彼は「皿の上に並んだ黒いねじはみんな幸せそうに見えた」と語る。
その他
左と右というモチーフが頻出する。たとえばそれは序盤の左のポケットと右のポケットの小銭の計算として、あるいは左脳と右脳の話として、あるいは次のような一説としてあらわれる。
いつものように、私の意識は視野の隅の方から順番に戻ってきた。まず最初に視野の右端にあるバスルームのドアと、左端にあるライト・スタンドが私の意識を捉え、やがてそれがだんだん内側へと移行して、まるで湖に氷が張るときのようにまん中で合流した。
これは影というテーマの接続からして、本ブログでも何度も考察しているように、古事記の左右関係の問題との関連をにおわせる。しかしそれほど深掘りはされずに終わっていく。ほかには手風琴も、右手で持つ部分と左手で持つ部分があるので、このテーマとの関連性があると言えるだろう。
