『オイディプス王』を読む

福田恒存の訳で『オイディプス王』を二度読んだ。それで思ったことを書く。

『オイディプス王』は数で言えば素数である。つまり分解というものができない。むしろ他のさまざまな合成数をかたどっていく素と言えるべき作品だ。だからこの作品そのものを細かく論じようとしてもあまり意味がない。細切りにして一部分を取り上げて、これにはこういう働きがある、というようなことが言いにくいのである。この作品はまさに「原型」にほかならない。

それでも僕は頑張って分かったことをここに述べていこう。

主人公は雄弁である。彼は序盤で与えられた謎を解こうとみずから前向きな姿勢をとってみせるが、それがすでに悲劇的に皮肉である。劇の筋を知っている者はここでアイロニーを感じずにはいられないだろう。オイディプスは言葉を自由自在にあやつってみせるが、じつはその言葉は言う端からオイディプスより乖離し、いったん空気中を漂ったあと、みずから意志を持って発言者自身を刺しに行くのである。この「発生源に戻っていく」性質は、あとに見られるミステリー劇の筋の性質とも一致している。オイディプスとイオカステは時間を遡り、過去というオイディプスの発生源に向かっていくからだ。そうして犯人は最終的に最初の登場人物であるオイディプスということになる。探偵が犯人だったわけであるが、これはまさに「発生源に戻っていく」性質の起結である。

ミステリー劇が作中のかなりの部分を占めている。謎を追求し真相を明らかにしていく劇の姿勢に、鑑賞者は緊張と快感を覚える。この作品の成功の鍵は二重の効果を持ったクライマックスにある。つまり犯人が判明するというミステリー劇の終点と、主人公が破滅するという悲劇の終点が、同時におとずれるというところが『オイディプス王』の美点なのである。この合わせ技によって本作は歴史的な文学作品の座を獲得した。

この劇を鑑賞して運命ということに思いを馳せない人はいないであろう。神は最初からすべてを知っている。しかし人間の側はそうではなく、部分的な知識しか持たない状態のまま自らの幸福をめざして抵抗する。このような知識にまつわる不均衡があるときにこそ、運命というアイロニーが構図として立ち現れてくる。それこそが自身の救いをもたらすと信じた人間は部分的な知から完全な知をめざしてあがく。ミステリー劇の導入の由縁である。しかし完全な知に達したとたん人間は滅び、神は勝利する。オイディプスという個人は破滅する一方で、テバイという国はむしろ犠牲を排出して救いへと至るのである。このような知識にまつわる不均衡の構図は、劇を演じる者と劇を鑑賞する者の二者にも似ている。鑑賞者はすでに筋を知っていて劇を見るのである。これは別に当時も変わらなかったのではないかと僕は思う。つまり『オイディプス王』は鑑賞にまつわるメタ構造をも取り込んだ劇なのだ。それもまた文学的成功の訳だろう。