『国境の南、太陽の西』を読む

村上春樹の小説にくりかえし現れるテーマとして、完璧にくっついている一組の男女というものがある。たとえば『ノルウェイの森』のキズキと直子がそうである。

「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの」

他にも『イエスタデイ』の木樽とえりか、『街とその不確かな壁』のぼくときみがそうである。彼らはあまりにくっつきすぎていて、まるで1個の存在のようだ。それが「ひとりっ子」という言葉が作中にくりかえし出てくる由縁でもある。

これらのカップルは間違った存在として扱われている。痛みによって分断されるべき存在として作中で扱われる。彼らは自他の区別がつかないほどに強固に結合しており、それは成長していく自我の前で障害となる。しかし彼らは結合の状態が心地よいため、なかなか離れることができない。そしてオイディプス王に訪れたそれのように不可避の運命が悲劇として訪れる。分断である。二つの魂は引き裂かれ、激しい痛みに彼らは苛まれる。

『国境の南、太陽の西』の主人公と島本さんもそうしたカップルのひとつである。彼らも例のごとく引き裂かれ、激しい痛みを受ける。『ノルウェイの森』との差異は、主人公がそこから立ち直ろうとしている点にある。作者は一歩退いてこの構図を冷静に見つめている。それが雨に関するエピソードである。島本さんは雨の日にだけバーを訪れるが、そのような雨のイメージは、彼女が遺児の灰を川に撒くエピソードにつながっている。島本さんは自分の子供の灰がやがて雨となるかと主人公に尋ねる。彼女はそのように雨に思いを繋げる。雨はラストにも姿をあらわす。

僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。

海に降る雨はどこまでも自己完結している。それはそこだけで循環というものを完成させており、他者が割って入るスペースはない。これはつまり、主人公と島本さんの関係性のメタファーになっている。この小説は最終的に、そのような形で自分とヒロインの関係性を喝破している点で、『ノルウェイの森』よりも前進していると言える。