映画『君たちはどう生きるか』を観る

映画『君たちはどう生きるか』を一回観た。それについて書く。この記事はネタバレを含んでいる。

この映画の最大の特徴は、説明がさっぱりないことである。この場面にはこんな意味がある、ということが示されないまま次の場面へと移っていく。そういう意味では現実のパートも異世界のパートも夢のようである。あえて分かりにくく作ってある。それをこの記事では頑張って説明していく。

まず階段を昇っていく場面が出てくる。ここで主人公の眞人は「素早く階段を上り下りできる人物」として定義される。これは『千と千尋の神隠し』の主人公と真逆の性格である。作中に一度彼女が階段をすばやく下っていく場面があるが、ここで千尋はバランスを崩しかけている。そういう千尋的な、エスカレーターや車に慣れきった現代の子供としての弱さを、眞人は持っていないというわけである。事実、その後に眞人は自分で竹の弓をつくったり、塔にひとりで乗り込んでいったりする。自然に親しい、なかなかにタフな男の子、というわけだ。

その後に母が死んで一家は疎開し、ナツコが出てくる。ナツコは軽やかに人力車で回りながら登場する。彼女は若くて美しい。それが眞人のなかに複雑な心理を形成していく。

前提として、眞人は母親が死んだことを認めたくない。アオサギがのちに「眞人は母の遺体を見ていない」と指摘しているが、これは母の死を認めたくないという眞人の思いの代弁だろう。つまり眞人の心中では本物の母と義母のナツコの存在が対立していることになる。

次に、ナツコは母であるから異性としての興味を抱いてはいけない対象のはずなのに、血は繋がっておらず若くて美しいために、どうしても女性としての関心を持ってしまう、ということがある。

さらに父と母の接吻を目撃するシーンからは、眞人の父への嫉妬が読み取れる。これはあくまでも可能性としての話だが、母を巡って父と対立するという心の動きがそこには認められる。

つまり眞人は子供なのに、大きな心の矛盾を三つも抱くことになっているわけだ。これはなかなかに苦しい。この映画には、大量の事物が眞人を呑み込もうとするという絵図が頻繁に出てくるが、その原因はこの三つの相剋だろう。具体的にはペリカンが取り囲んできたり、インコが取り囲んできたり、魚をさばいたときに大量の内臓が出てきたりするという場面である。海における大波もそれに相当する。

また、眞人はその上学校でも同級生からいじめられる。そこで彼は音をあげて、みずからを傷つける。つまり学校へ行くことを拒否する。これは同級生に対する攻撃であり、父への甘えでもある。この虚偽はタイトルにもなっている小説の『君たちはどう生きるか』とつながりがある。

ところで眞人は世間ずれした人物である。徴兵にあった人物とその関係者が歩いてくるときに、人力車から降りて礼をする態度などに、そうした性格がよく表れている。眞人はナツコに対して沈黙をつらぬくが、それは一個の大人として新しい母を受け入れなくてはならないという義務感と、母の死を受け入れたくないという子供らしい弱さとの、二つの葛藤の表現なのである。

ナツコも眞人同様に義務に沿って生きる人物である。それは眞人がナツコの見舞いにおとずれた際に、ナツコが「こんな傷をつけてしまってお姉さんに申し訳ない」と言う態度に表れている。彼女はつねに気丈であり礼儀正しく、女らしく可憐である。「日本男子の妻はこうあるべき」という理念のもとに生きている人物だと言える。ただ眞人と違うのは、少なくとも異世界にいくまでの間に眞人が自分の弱さや葛藤をあらわしているのに対して、ナツコはそうではないということである。彼女はある意味完璧なのだ。

以上のことが分かっていると異世界での産屋の出来事も理解されてくる。ナツコは眞人に対して「あなたなんて大嫌い」と言うが、これは義務に沿って生きるということの反動なのである。彼女にもやっぱり自我があり、役割に押しつぶされそうになっているところがある。その苦しみを力いっぱい誰かに訴えたい。ナツコは「大嫌い」という言葉によって眞人を傷つけるが、それは言い方を変えれば、自分の痛みを他者にも共有してほしいという願いだとも言える。眞人はその痛みを受け入れて、かつ家族として迎え入れるということを主張する。すると、その意志が物語を善き方向へと推し進めてくれる。ナツコは最終的に取り戻されるのだ。

産屋での出来事は日本神話の再現という意味合いもある。ホオリノミコトは海の中で出会ったトヨタマ姫と結婚し、トヨタマ姫はお産をすることになる。トヨタマ姫は出産の際に本来の姿である鮫に戻るのだが、そこをホオリノミコトはこっそりと覗き見して知ってしまう。トヨタマ姫はこれを恥ずかしく思って海の国に帰ってしまうのだ。ただし『君たちはどう生きるか』ではナツコは返ってくるので、結末は逆となっている。

キリコは「すべてのアオサギは嘘つきである。それは嘘か本当か」と眞人に問いかける。このやり取りは、嘘が本作のテーマのひとつであるということの宣言だ。これは、義務と自己の希望の相剋のことを指していると僕は解釈した。自由に生きたいという願いの側に立って物を見れば、世間にしたがって義務に沿おうとする意志は嘘に思われる。でも人間はそこまで単純な生き物ではない。義務に沿う心もやっぱり本当だし、それとは別に自由に生きたいという願いも結局は本当なのだ。ヒミは実母の幼い頃の姿というよりは「自由に生きた場合の姿」であると受け止めると得心がいく。彼女は最後に異世界から出る扉を選択するが、それは「自由に生きるだけの生き方」を捨てるということを意味している。もちろんそれは単に「義務に沿う」ことだけを選択するという意味合いでもない。息子である眞人に会うのは自己の希望でもあるからだ。そういう、相克の中を生きざるを得ないのが結局は我々人間なのである。それはたいそう切ない。その切なさが映画を作る原動力となっている。

作中に火のモチーフがくりかえし登場する。それは最初母の死と結合しており、恐ろしいものとして登場する。しかし次第にそれは和らいでいく。キリコが火を使って眞人にむらがるペリカンを追い払う。またヒミがインコを追い払うときも火を使う。その後に眞人はヒミの家に移動するが、出てきた元は鍋を熱する火である。つまりそこでは火は食べ物を作るものとして扱われており、食べるというプラスの行為と結びついているのだ。じつは火と仲良くなるというのが物語における眞人の目標のひとつなのである。その到達点が産屋における火である。眞人は火の力で体にまとわりつくお札を払いのける。

産屋の後はナツコの話は終わり、大叔父から石を継承するという話に繋がっていく。この話は正直なところ僕にはよく分からなかった。時間を置いて二回目を見るときにまた考えたいと思う。

ところで、父の運営する工場では零戦の風防(キャノピー)を造っている。これが屋敷に持ち込まれる場面は印象的である。屋敷が広いのでたくさん置くスペースがあるわけだ。つまりここでは父親の権力と財力が誇示されると同時に、零戦という戦死者とつながったものを用いて金儲けをしているという眞人の後ろめたさが表現されている。豊かな生活と罪の二者が、眞人を引き裂いているのだ。

風防はアオサギの嘴と形状が似ている。実はアオサギは零戦のメタファーという面がある。だから中に人が入ってるわけだ。鳥のガワが機体、中身の人がパイロットを指している。嘴に穴が開くと飛べないのは、風防に穴が開くと飛行するわけにはいかないことと同じである。

アオサギは零戦なので、父親と繋がりがある。眞人はアオサギの穴を自分の力で(それも刃という男性原理を用いて)埋めてやる。この行為には、父親の罪を赦し、妥協して接近してやるという意味合いがある。

ラストシーンはごく短いが印象的である。冒頭においては、眞人は階段を昇って母の危機を察知したが、これに対してラストでは、眞人は階段の上にいて、下にいる家族を見下ろしている。そこには義理の母と赤ん坊がいる。つまり冒頭と最後が対照的になっているのだ。