村野四郎の詩をよむ

我々のこころの中にはじつにさまざまな記憶が散らばっている。嬉しかったことや悲しかったことだけでなく、つまらぬことまで脳は憶えている。たとえば、猛スピードで走る車が目の前をよぎっていったときの印象だけではない。車がすっかり消え去ったあとの平穏な道の様子まで脳はしっかり憶えているものだ。

しかし、人に話すとしたらその出来事は「車がよぎった」ということになるであろう。そして「車が去ったあと」のことは語られず、頭の片隅にほうっておかれてしまうであろう。

村野四郎はそのような放置された無をひろいあげ、積極的に詩のかたちにした作家である。

「魚における虚無」
 
ぼくたちは自分の脂で煮つめられ
自分の脂に浮いていた
眼をあけたまま
錫引きの缶に密閉されて――
何の音もきこえなかった
 
或る日 ぼくたちは解放された
 
そして
途方もなく大きい屋敷の塀の外へ
空き缶は放り出された
だが その時
ぼくたちは もう無かった

我々は毎日食事をする。肉もくうし魚もくう。しかし食べられる側の犠牲にはなかなか思い至らない。あまりにも整然と食べ物はパッケージされており、残酷なものはどこにも見当たらないからかもしれない。あるいは毎日やっていることなので、慣れっこになっているからなのかもしれない。なんにせよ人がものを食べれば、食べられた側は消え失せる。そんな当たり前のことを我々は日々、考えないようにして暮らしている。罪悪感は不快な感情だから、無意識のところで抑圧しているのだ。そのような封じられた記憶や事実への扉を、村野の詩はひらいてくれる。

「花を持った人」
 
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い隙間があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
 
そのあたりに
たくさん花がこぼれている

この詩もまた行為そのものではなく、行為の後をえがいている。村野四郎の詩は感動的なものではない。美しいとも言えないだろう。彼の詩はただ静かで穏やかだ。読むと安心感のようなものを抱く。その正体は、ようするに部屋の掃除や整理とおなじことだと僕はとらえている。我々は彼の詩を通じて、放っておかれた些末な記憶をひろいあげて検分する。それによって心は以前よりもきれいになる。隅のほこりが掃除されるのだ。あるいは失くしていた物が取り戻されて、適切な場所に再配置されるのだ。

「黒い歌」
 
目からも 耳からも
暗黒があふれて
夜に溶解した肉体が
口から ながれだしている
あれはいったい 何という人間だ
 
あの黒い歌
 
ここに夜明けはくることがない
地球のかげの
枝もない 家もない 犬もない
真空の空間
そこで 死ねない心臓が
眠れない心臓が
うたっている うたっている
世界の友よ
あの歌をおきき
この平和の 黒い歌

これは戦後の平和に対する違和感をうたった詩だ。戦争が終わったといっても、大勢のひとびとの死という事実が消えるわけではない。平和な日常で暮らすなかでときおり脳裏をよぎる暗い記憶。そこから受ける印象を表現している。この詩は、よくある「戦争を忘れるな」というようなものではない。この詩は完全に個人に焦点をあわせており、メッセージ性はいっさいない。あくまでも他者とのつながりとは無縁のところで、個人が心の片隅で感じている違和感や微妙な印象といったものを描写しただけの詩である。そこがいい。村野はつねに個人という視点から詩を書く。それが彼の詩の与える安心感をささえているものの要だろう。

最後に消息という詩を紹介する。奇妙な詩だ。でもなぜだか理解できてしまう。

「消息」
 
おれは書簡をしたためる
おれは信用状に署名する
おれは水差しの位置をかえる
おれは夫人の夜を愛撫する
 おれは おれは おれは おれは
こうして日月は皿よりも浅く
すべての行為は義歯のようにならぶのだ
 
おれは悲しむ
おれの不本意を そして
誰か背後から おれの肘を引っぱっているのを
あのにかわくさい紐で――
 
おれは ときどきそれを見ることがある
猫などの尻尾のように それが
すばやく事物のかげに隠れていくのを
 
誰かが その端をにぎっている
誰かが それを手繰っているのだ
彼はおそらく
おれの生よりも永く
「永遠」にちかいやつだろう
そして いよいよおれが死ぬとき
おれの悲哀が落日のごとく沈んでいくとき
他の弔問者より一足さきに
知らん顔して悔やみにくるやつだ

我々はつねに意志を発して行為をしている。公私において判断をし、決断をくだし、おこないの連続によって自分の生活というものを成り立たせている。そうでないと働けないし、他者との関係は築けない。暮らしがままならなくなってしまうからだ。しかし、それは考えることや深く感じるのを放棄することと表裏一体だ。どこかで思考を停止しなければ行動というものは不可能である。

前向きな行為の裏にはつねに取り残された何かしらの心の断片が存在する。それは名前もつけられず、消化されずに部屋の隅に置かれている。それがこの詩に登場する「不本意」であり、「事物のかげ」の正体だろう。

村野の詩はわれわれを慰撫する。その感慨は他者と共有するたぐいのものではないと思う。おのれの心の暗い場所、どんよりとした行き詰まりの場所を、ほのかな明かりで照らし、認知するための詩である。そうすると、なぜだか我々は慰めを得るのだ。僕は村野四郎の現代詩文庫をそっと本棚の隅にしまっている。そして半年にいちどは読み返したくなる。