僕には自分の意見がない

僕は文系の学問に興味がない。思想も哲学も評論も無視してきた。今も無視している。最近になってその理由が分かったので、ここで述べてみたい。

それは、僕には自分の意見や望みがないということだ。だから自分の考えや、人や社会はこうあるべきだという理想を語っている人を見ても、何の感慨もわかない。特に「批判」という行為が理解できない。誰かが一所懸命になにかを批判している場面を見ると、呆然としてしまう。なにをこの人は頑張っているのだろうと感じてしまう。まるで遠い星に住んでいる別種の知的生命体の活動を見せられているような気分になる。自分と寸毫も関係がないのだ。おそらく批判という行為の背後には「人や社会はこうあるべきだ」というその人の考えがあるからだろう。だから僕は共感を覚えないのだと思う。

僕は雨が降ってきても、「いまは雨が降るべきではない」とは思わない。「ああ、雨が降って来たな」と思う。それだけだ。傘があれば開くし、なければずぶ濡れになるだけだ。そう思う。あるいは突然目の前に殺人鬼があらわれて僕の首を絞めてきても、「仕方がないな」と思うだけだ。運が悪かったのだろうと感じるだけだ。つまり僕には何一つ「こうなってほしい」という願いがないのだ。だから別段、意見と呼べるようなものが何もないのだろう。

もっと正確に言おう。僕には願いを持つという人間の基本的な性質が欠落している。僕がしたいことは食事やセックスや睡眠だけであって、高次の知的活動には興味がわかない。だから願いを持っている人の気持ちや在り方というものが理解できない。雨が降ってくることに対して真剣に怒っている人の気持ちというものが分からない。正直に言うと、内心では「このひと馬鹿なのかな?」と思っている。

このブログを読み込んでいる人には分かっていただけるだろうが、僕がやっていることは評論とは呼べない。解説とも言えないだろう。僕はただ文学という複雑な機械がどうなっているのかを調べたいだけだ。それを分解して、内部の機構について詳細を知りたい。ただそれだけだ。そこに意見や主張は関係してこない。僕にとって文学とは、ただ読者の心を操作する道具に過ぎないからだ。「メッセージ」というのはまるで理解できない。この世のあらゆる文学作品にはメッセージがないと僕は思っている。正確に言うと、メッセージの込められている作品は数多くあるだろう。でもそれも、結局は読者の心を操作するための手段に過ぎないというのが僕の見解だ。

これからも僕は意見も望みもなく生きていくだろう。一切はすぎゆく。あらゆる出来事に対して僕は無力だ。今までもそうだったし、これからもそうだろう。それが僕が思想にも哲学にも評論にも興味を覚えない由縁である。なにもかもくだらないし、どうでもいい。僕が求めているのは美と美の背後にある機構だけである。人間や社会はそこには関係してこない。彼らは悪なので、拒むべきである。それでいい。