仲がよいことは醜悪である

僕は美しいことが好きである。醜い絵や音楽は嫌いで、美しい絵や音楽が好きだ。この趣向は芸術だけではなくあらゆる事象におよんでいる。人の歩く姿や話す声の響きや思考の方法にも善い悪いがあるというのが僕の考え方で、当然悪いものは蛇蝎のごとく嫌っている。

人間同士が接している光景に対しても僕はもちろん美醜の判断をおこなっている。じつは僕は人と人が仲良くしているところに出くわすと、あまりの醜さに思わず目を背けたくなるのだ。これほど嫌な眺めはないというのが僕の子供の頃からの認識だ。

僕の家族は、僕以外のメンバーは仲が良かった。それで僕は心情的には遠くから彼らの姿を眺めていたのだが、目に映る父親や姉の姿や、彼らの会話はあまり知的に思えなかった。そこで僕は仲が良いということに正直なところ疑問を覚えた。人は人と仲良くすると知性が下がるのではないかと思ってしまった。

小学生になると僕は激しくいじめられた。傷ついた僕はいつも自分の心を空白にし、おのれから幽体離脱して遠くから教室の光景を眺めていた。俯瞰して眺めると、物というものは驚くほどよく見える。僕をいじめた人たちは、彼ら同士ではじつに仲が良かった。そしてその仲のよさは醜悪であった。どうやら人は人と仲良くすると倫理的に堕落するらしいということに僕はその時点で気がついた。

そこで美しいものが好きで醜いものが嫌いな僕は、自然と人と仲良くなるのを避けるようになった。いじめから僕を庇ってくれた人もあったが、彼らに親しみを覚えたことはない。だから彼らもやがて愛想を尽かし、僕のもとを去っていった。僕は彼らがいなくなるとどちらかというとほっとしたものだ。それほど仲がよいというのは僕にとっては許せないことなのである。それに味方というのはどうも卑怯な気がする。人は戦うときは一人でなくてはならないと僕は思う。たとえ相手が複数であろうともだ。

そういうわけなので多くの人々が僕のことを嫌う。世の中の大半の人間はひとと仲良くすることを求めているのである。その原則を否定する人間に対して彼らは本能的に憎悪を覚える。しかし僕の方としては美に至上の価値を置いているので、醜いことはなにがなんでも避けたいところだ。それで避けがたくいつでも軋轢が生まれる。

人生がむずかしいのは、僕にもちゃんと人並みの感情があるということだ。人と話していない期間があまりに長いと寂しくなるし、女性とセックスできない日々が続くとやりきれなくなる。僕はただ感情よりも美醜の判断を重んじているというだけなのである。

僕の不幸は、生まれ持った審美眼にあるのだろう。それを最大限優先しているので人から嫌われるのだ。僕はこれからの人生において、その審美眼を今度は利用して、活かしていかなくてはならないと思っている。そうしないと死んでも死にきれないだろう。