『1Q84』を読む3: リトル・ピープルの正体

前回の記事で、見えない力が作用して、作用される側が力を行使するという構造について言及した。これはリトル・ピープルについても同じことが言える。

その前に確認しておくこととして、抑圧された怒りの発揮という構造がある。ある人物が他者から被害を受けたのだが、別の人物がその怒りを代行して発揮するという構造が、作中にたびたび見られるのである。たとえば大塚環と青豆の関係性がそうだし、DVを受けた女たちと柳屋敷の老婦人と青豆の関係性もそうだ。大塚環は被害を受けても反撃ということができない性格をしている。彼女は夫に抵抗できずに自死にいたる。その失われた悲しみを回収し、発揮されなかった怒りを見出して育て上げ、実行に移すのが青豆である。DVを受けた女たちも大塚環と似ている。彼女たちは怒れないし、だから反撃もできない。そのような悲しみをセーフハウスに集めて怒りへと育て上げるのが老婦人の役割だ。そして育った怒りを手渡されて攻撃に移るのは青豆の役割である。

じつはこれこそがリトル・ピープルの原型なのだ。発揮されなかった怒り。在るべきだった怒り。かなえられずに潰されてしまった願いを種にして生まれてきた悲哀と、可能性としての怒り。それがリトル・ピープルの正体だ。ビッグ・ブラザーとはそのようなリトル・ピープルを集約させた存在に過ぎない。ビッグ・ブラザーはあくまでも傀儡である。それを背後から突き動かしているのは踏みつぶされてしまった脆弱な存在たちの声なき声だ。それは発揮されなかった怒りであるから、よく耳を澄まさなければ聞き取ることができない。しかしうまく受け取ることに成功すれば無限の力を与えてくれる。もっともそれは同時に過酷な代償も連れてくる。リーダーは肉体を損傷していたし、あくまでもリトル・ピープルに操られていた存在に過ぎないから、自分の考えや意志というものを持てなかったのだ。少なくとも思うままに自分の考えを実行に移していたようには見えない。彼はあくまでもリトル・ピープルに抵抗するが、その手段は自死に近い。これはやはり幸福な結末とは言えないだろう。

作中で、何度か死んだ人物や動物、あるいは損なわれてしまった人物の口からリトル・ピープルが出てくるのは、上記の内容と関係がある。人の願いが潰されたところにリトル・ピープルは現れるのだ。そして空中を浮遊し、取りつく先を探す。その由来が悲しみや怒りである以上、取りつかれた側は容易に害意を発揮しうる。したがってリトル・ピープルは慎重にあつかわなければ危険である。

ちなみにリトル・ピープルは我々の住まう現実世界には、実体としては存在しないものである。ホラー映画に出てくる化け物のように分かりやすい姿をとって堂々と我々を攻撃してくることはない。彼らは現実には意識の外から我々をつついてくる。それはあくまでも心の領域の出来事なのだ。そう考えると作中のリトル・ピープルによる青豆への攻撃も、その実態が理解されてくる。リーダーはリトル・ピープルがあゆみを殺害したと言う。また青豆がリーダーを殺害した後にも、リトル・ピープルは大雨で電車を止めて青豆の逃亡を妨害してくる。だが実際は、これらは全部嘘である。リトル・ピープルは現実にはなにもしていない。あゆみはただ偶然に殺害されただけだし、大雨が降ったのもそれによって電車が止まったの単なる偶然だ。ここで作者が主張したいのは、それらをただの偶然と捉えてしまうのは良くない、ということなのである。そのように物事を捉えると負の力の侵攻をゆるしてしまう。心は浸食され、人生は悪い方向へと進んでしまう。だから敢えてそれらの偶然の災いを「リトル・ピープルの攻撃によるもの」だと捉えるべきだ、それによって我々は自己の心を守ることができるのだ、というのがこの作品のメッセージなのである。

ところで、作中には三つのビッグ・ブラザー的な存在が出てくる。リーダー、老婦人がそうであることは分かるだろう。これらに加えて天吾も若干ビッグ・ブラザー的である。彼は普段は寡黙な青年だが、いったん大勢の生徒を前にして教壇に立つと雄弁になる。ジョークだって言えるし、生徒から人気を集めている。彼はリトル・ピープルに耳を澄ますことが得意だ。生徒の声なき声を聞きとって、本当の望みを与えてやることができる。ただし彼には個としての優れた倫理が備わっているので、本当のビッグ・ブラザーにはならない。天吾は必要以上にリトル・ピープルを受け入れたりはしない。なお彼は小説を書くのが得意だが、そこにも当然、リトル・ピープルの声を聞く能力が関係している。彼は失われた声を文章に変換し、人々の前に示すことができる。

リトル・ピープルという概念の特徴は、概念化したということそれ自体にある。村上春樹はそれに名前をつけて、あたかも意思を持った存在であるかのように扱った。じつはそうした姿勢そのものが村上独自のものであり、一種の決まった態度と表裏一体なのである。

それは、「個人はリトル・ピープルに乗っ取られてはならない」という倫理だ。リトル・ピープルという概念をあつかうことは、それ自体が「乗っ取られてはならない」という抵抗の意思とセットなのである。そう考えると『空気さなぎ』を著して世に発表することそのものが「さきがけ」への攻撃であるという点も、よく理解されてくるであろう。リトル・ピープルを明るみに引き出してくることは、その行為そのものがすでに彼らへの攻撃なのである。なぜなら宗教および宗教的な組織とは、リトル・ピープルを上手く扱い、強大な力に育て上げて利用するシステムに他ならないからだ。この世のすべての人々がリトル・ピープルを認知できるようになってしまえば、「さきがけ」は信者の獲得がうまく行かなくなってしまうであろう。

ではどうすれば個人はリトル・ピープルに乗っ取られずにすむのだろうか。

答えは、自らのうちに願いを育て上げ、自覚することだ。それも世におもねったりはしない、自分だけが出発点であるような望みを育てることだ。それを自覚し、守り切ることだ。

そのような望みの成長ということに繋がる作中の構造として、卵型の比喩がある。次回はそれについて述べていく。