『クララとお日さま』を読む

カズオ・イシグロの『クララとお日さま』について書く。

本作の物語は単純な一本道である。クララという召使い的な位置にいる主人公が、主人であるジョジーに奉仕し続け、最終的には主人を救い、そのために破滅に至るというものだ。

クララは盲目的にジョジーに奉仕し続ける。クララはジョジーを回復させるという約束をお日さまと交わしたと信じ込む。そして汚染を引き起こす(とクララが信じている)機械を破壊するために自身を損ない、最終的には廃棄される。クララは命と引き換えにジョジーに奉仕する存在なのである。物語的にはクララはジョジーの代理として母親のために生き続ける道が用意されているので、クララは「ジョジーを犠牲にして自分が生き残るか」、それとも「自分を犠牲にしてジョジーを生き延びさせるか」という選択を迫られていたことが分かる。そうした選択を前にして彼女は自己犠牲の道を選んだのである。

なおジョジーの母親が考えている、特製のAFをこしらえてジョジーの偽物を作り上げ、共に暮らすという計画が我々におぞましく思えるのは、その背後に自己犠牲とは反対のものが存在しているからだろう。親は自分を犠牲にして子供に尽くさなければならない。それが自然の掟である。しかしジョジーの母親はジョジーのためではなく自分のために新たな子供を作り上げようとしている。こう考えると、クララはジョジーの母親には実行不可能な自己犠牲的愛を肩代わりして遂行するための存在であった、と受け取ることも可能なのである。

また、クララは子供と母親を兼ね備えた存在のように思われる。矛盾した二つの役回りを一人の人物が統合している点が、小説の面白さを支えている。

例えばクララの最初の役回りはまるで孤児のようだ。彼女は自分を引き取ってくれる主人を今か今かと待ち望んでいる。クララがジョジーに引き取られた所で第一部は終わる。その後も彼女は自分の知らない様々なことを観察して学習し、成長していくのだが、そういった在り方が子供に似ているのだ。

一方で彼女はジョジーを守る母親のような存在でもある。彼女は家族の中では召使いのような位置にいるのだが、ジョジーのためを思い続け行動するその原理はまさに母性である。

この小説のもう一つのポイントは視覚である。

クララはジョジーたち人間と同格でない。それゆえ彼女は距離を保ち、必要でない限りは口を開かず、ただ人間や周囲の事物を観察し続ける。そうしたクララの注意の行き先を書き手は率直に描写しているのだが、その視覚の描写の中に前述したクララのキャラクターが見事に表れているのである。すなわち眼で読み取った内容を子供のように学習していく有様と、ジョジーを心配し気遣っている母親的な目の在り方だ。

クララは太陽が光を射すことを、お日さまが見守ってくれていると表現している。クララにとって太陽とは一つの眼であり、視線なのである。それはクララの献身的な眼の在り方と重なり合っていると言えるだろう。また、よくよく考えてみれば太陽光は我々生物が眼を役立たせるために必須のものであるという点も、眼との深い関連性を窺わせるものがある。

それにしてもクララの「盲目的」な勘違いは見事である。我々はクララの信じる姿勢に感動を呼び覚まされる。それは明らかに錯誤なので、ジョジーの回復とまったく関係がない。だが物語という観点から見れば明らかに関係があるように思えて仕方がない。そういう、本当とも嘘とも思えるような両義性が、ジョジーの回復というエピソードにはつきまとっているのである。それは「人間にははたして心や魂という特別なものがあるのか?」という疑問に見事に答えているように思われる。心は、虚実のはざまにある。それはほとんど嘘も同然なのだが、その嘘ということも含めたまるごとが心なのである。