『海辺のカフカ』読解メモ・上巻

以前『海辺のカフカ』を読んだ時にメタファーについて説明する記事を書いた。

そのまま一回しか読まずに置いていたので、最近再読を初めた。以下は頭から読んでいった時のメモである。ページ数は文庫版に準拠している。この記事では上巻を扱う。

  • P43 主人公があるバンドのメンバーに似ていると、さくらが言う。これは本作を貫いているメタファーを予告するような効果がある。
  • P46 さくらが「私はコクゴが昔から弱いの」と言う。本作はかなり易しい語彙によって綴られている。同じ作者の『1Q84』などと比べてみるとそれは明らかだ。そのことを読者に示唆する台詞のようである。
  • P49 さくらは自分の姉ではないかと主人公は疑う。これもP43と同じ。
  • P49 「現実のありかたと心のありかたを区別することもまた難しい。」 本作のメタファーの性格を説明している一文。心の中で起こっていることも現実で起こっていることも、本人に体験されているという点はまったく等しく、同じ価値がある。だからこそメタファーによって体験される自己の記憶やその記憶の抱えている問題の解決は、はっきりとした現実の一部であり、確かにあり得ることになる。
  • P72 大島さんが登場する。彼は物語のなかで主人公のことを助ける役割を担っている。しかし彼は主人公に対してコミットしない。主人公のドラマに決定的な役割を果たさない。そのような離れた距離を保つために、彼には肉体は女性でありながら性同一性障害であり、なおかつ……というややこしい性質が付与されている。彼は物語にコミットしないよう、ニュートラルな立場であり続ける。
  • P80 佐伯さんが登場する。主人公は彼女を母親かもしれないと思う。
  • P100 ナカタさんの章で、性欲の話が出て来る。ナカタさんには性欲がない。これは後にナカタさんが“石”を動かすエピソードと関連している。星野青年は女性を買って性欲を解消する。このことと、ナカタさんには性欲がないということとが合せ技になって、石を動かすことが出来た。このことは後で詳しく書く。『1Q84』でふかえりとセックスをした天吾が自分の「中心」を見出すというエピソードとも関連がある。
  • P106 ナカタさんの影が薄い。半身がどこかにはぐれてしまっている。
  • P119 カフカの『流刑地にて』の処刑機械は現実に存在したのだ、と強調される。比喩ではない、と。やはりこれも本作独特のメタファーへの言及である。心の内で起こっていることと現実は等価である。
  • P116 主人公が『千夜一夜物語』を読む。「ずっと生き生きと迫ってくる。」 これはすぐ後のページ(一つ上の項目)で言及される、メタファーの現実性と関連がある。『失われた時を求めて』は作中何度も『千夜一夜物語』に言及する。このおとぎ話の中では、色んな登場人物や魔人が別の物に変身する。それは作中では現実に起こったこととして扱われている。そのような変身があるいっぽう、『失われた時を求めて』においては、主人公の心の内側で起こっていることとして比喩が活用されている。文章の冒頭に差し出されたものが、比喩によって次から次へと変身させられていき、末尾でそのような変化の帰結を語るというパターンがくりかえし現れている。ここで、「なぜ作者は『時』ではなく『千夜一夜』の方を取り上げたのか?」という疑問が浮かび上がってくる。もちろん答えは決まっている。『千夜一夜』を選ぶことで、彼は『海辺のカフカ』独自のメタファーを主張しているのである。
  • P123 8という数字が最後に提示されて7章が締められる。ページをめくると、また8という数字が目に飛び込んでくる。第8章に移ったのである。
  • P139 「逆トリガー」がナカタさん自らの血であることが示される。本作において、血がふりかかるということには重要な意味が込められている。
  • P144 主人公にも血がふりかかる。時空間や文脈を超えて、血という現象がつながりを持っている。
  • P163 猫のミミが猫のカワムラさんをはたく。カワムラは会話がろくにできず、ミミから差別されている。ここでは言葉の弱さ、無力さというものが強調されている。実際同じ作者の他の作品と比べてみると、『海辺のカフカ』には華麗な比喩や言い回しが見られない。村上は敢えてそれを避けたのである。彼はむしろ意識して国語力とでも言うべきものを落としているようだ。それがP46のさくらの台詞に表れている。
  • P199 女教師のエピソード。ナカタさんの中身が破壊され、虚ろになってしまったことを説明している。『海辺のカフカ』の最初の山場。読者を物語の世界に引っぱり込む、力のあるエピソード。
  • P217 「そして私の魂の一部はまだあの森の中にとどまっております。」 別記事ですでに解説したが、終盤における佐伯と主人公の対話は、この女教師のエピソードを踏まえたものになっている。そのことをあらかじめ宣言したのがこの一文である。
  • P280 さくらにしてもらったことを振り返って、主人公はこう思う。「僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。」 自分の中に眠っている、普段は抑圧している欲望を我々は自覚しなければならない。そしてそれと対決していくべきだ。抑圧していても問題は解決しない。それを何らかの方法で叶えていくべきだ。あるいは、別の課題へと変換していかなければならない。カフカ少年の場合は、佐伯さんとの対話によって母親という問題を解決することができた。このポイントはもちろんメタファーと密接に関連している。メタファーによって人は自分の切実な記憶と向かい合うことになるからだ。
  • P278 「人々が僕を非難し、責任を追求している。みんなが僕の顔をにらみ、指をつきつける。記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う、「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなければならない。」」 この文章には複数の意味がある。ひとつは、まずさくらとのこと。性欲の問題である。次に、父親への憎しみである。ナカタさんがカフカ少年の父親を殺害した。もちろん(作中の)現実のレベルにおいては、これにカフカ少年は関わっていない。しかし本作が言ってるのは、自分がやっていないことについても、起きたことに注目して、自分がやったことなのかもしれないと積極的に受け止めていく姿勢なのだ。現実を利用して、逆に、自分の内面を探り、それと対決していく態度こそが我々には必要なんだ、という主張なのである。この主張は太平洋戦争ともつながりがある。
  • P345
    • ナカタさんは怒りを炸裂させてジョニー・ウォーカーを殺害した。その結果、彼は猫と会話ができなくなる。彼は自己を取り戻しつつある。そのため猫との親和性がなくなり、話せなくなった。そしてナカタさんはその後、色んな人と会話するようになる。警察官。女性の会社員。男性の会社員。トラックの運転手などである。
    • 大島さんがこの次の章で、海と猫に関連性があることを指摘する。『1Q84』の猫の町のエピソードまで考慮に入れると、猫と海は、自己を失うという意味において共通した性質を持っていることが言えそうである。猫と海に近づくと、人は自己を失い透明になり、他人の記憶を受け入れやすい状態になる。河合隼雄が解説したユングの集合的無意識に近づく。それは自己を更新する機会であるとともに、危険な状態でもある。ナカタさんはそこに行ったっきり、不運にも戻れなくなってしまった人に分類される。
    • ナカタさんは移動を開始する。かたや主人公は次の章で移動をやめる。主人公は図書館に泊まり込むことになる。移動と停滞の役割交換がなされる。
  • P380 大島さんの台詞。「長く置いておくと、近所の猫が来て(昼食を)食べてしまうかもしれない。このへんは猫がずいぶん多いんです。海岸の松林に子猫を捨てていく人が多いものですから。」 なんの関係もない話題のさなかに組み込まれているので見落としがちだが、意味がある。一つ上の項で解説済み。
  • P384 「うつろな連中」。大島の非難するうつろな連中、想像力を欠いた人間とは、この作品の中でカフカ少年がおこなっているような、自分の想像や秘められた欲望を自覚して積極的に責任を取ろうとする態度のない人たちのことである。彼らは己の課題に取り組もうとせず、その代償として、他人を攻撃する。
  • P385 「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」 リトル・ピープルと似た概念。
  • P399 トラックの運転手とナカタさんが、関係性について議論する。これは比喩と関連がある。ナカタさんが黒い犬と知事を重ね合わせる文があるので、それと分かる。比喩は、本人の好き嫌いと関係がある。食べ物の好みの話が出て来るのは、そのような性質を説明しているのである。
  • P409 星野青年が登場する。ここでは彼を意味する主語は、まだ「運転手」である。本作の特徴として、登場人物を指す主語が次々と変化していくことが挙げられる。したがって、主語にはつねに注目しておかなければならない。
  • P412 「へえ、どの戦争?」 星野青年が過去と切り離されたまま生きていることを表した台詞。過去、特に人が傷ついた過去について何も知らない、接点や、受け取るためのチャンネルがないことが示されている。
  • P413 新聞の紙面。カフカ少年の父が刺殺されたことが載っている。彼の芸術家としての功績が語られている。「優れた芸術家が死ぬ」というのは『騎士団長殺し』においても語られるシーケンスであり、物語の中で重みを持っている。
  • P428 カフカ少年が父を批判する。「そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。」 これは下巻のナカタさんの側の章で、星野青年がベートーヴェンについて知ることと関連がある。優れているものの、傲慢な芸術家によって周りの人間が損なわれるということ。
  • P435 「青年」。
  • P437 「星野さん」。
  • P451 ナカタさんの半生が語られる。自分が失われるということは、猫に近づいていくこと・親密さを覚えることと関連があると分かる。そこで人は安らぐことが出来るのだが、長い間とどまっていると、戻れなくなる。『1Q84』においても猫の街が出て来る。
  • P459 佐伯さんの幽霊と会う。分裂した自己。『1Q84』でも繰り返されたテーマ。