『大聖堂』を読む

レイモンド・カーヴァーの短編『大聖堂』について書く。

この作品において盲人とはつまり読者のことを指している。小説家は読者に対してすべてを言葉で説明しなければならない。テレビのような分かりやすい絵を提示することが出来ないのはもちろんのこと、目くばせや身振り手振りすら通じない。小説家はまさに読者を盲人として扱い、言葉だけで挑まなければならないのだ。

私はかまわないという風に首を振った。でもそんなことしたって彼には見えない。目くばせしたって肯いたって、盲人には通じない。

主人公が盲人であるロバートに対して大聖堂がいかなるものか説明しているとき、彼は作者であるカーヴァーの代わりを担って読者に向かって大聖堂を説明していると言っていいだろう。彼は必死の思いで言葉だけを積み上げていく。だがその言葉は盲人には、読者には届かない。「すべてを言葉で説明しなければならない」という小説づくりの基本的な難しさが彼の前に立ちはだかり、挫折させるのである。

「ものすごく大きいんです。巨大です。石造りです。大理石が使われていることもあります。その昔、大聖堂が建設されていた頃、人々は神に近づきたいと熱望していたんですね。その頃、すべての人々の生活の中で神は重要な位置を占めていたんです。大聖堂建設は彼らのそのような信仰心の反映であるわけです」と私は言った。「申し訳ないけど、これくらいの説明しか僕にはできないみたいだ。こういうの苦手なんですよ」

その後の物語の運びは読んだ通りである。作者は意外なほど簡単な方法で盲人に大聖堂を伝えることに成功する。それは読者の想像力を活用するという小説の秘訣を用いた方法でもあった。それのみならず、主人公は盲人の目の見えないという身の在り方を体感し、成長することになる。