非対称な一対の存在

『1Q84』を読んでいてつくづく思うのは、この作品は論理の構築物であるということだ。これほど理路整然としたパズルも他にない。この記事では、本作の随所に顔を出す「非対称な一対の存在」について言及していく。

 不揃いのペア

『1Q84』には“海”を軸にした直喩が頻繁に登場する。これは“二つの月”と対になっており、二つの月は青豆と天吾、青豆の不揃いな乳房、母親と娘などの暗喩になっている。つまり海と月は、直喩と暗喩というペアになっている。それは潮の満ち引きが月の引力の影響下にあるということと、イメージ的な繋がりがある。

作品を隈なく見ていくと、実はこのような「不揃いのペア」と言うべきものがあちこちに登場していることが判明する。

たとえば大塚環と青豆は親友だが、環は美人であり、生まれながらにして人に好かれる性格だった。青豆は整った顔をしているものの、美人とは呼べず、人から好かれない女性だ。環は自分の怒りを思うままに表現することができず自殺するが、青豆は彼女に代わってそれを自らの怒りとなして、行動に移す。彼女たちは異なった性質を持った、しかし仲の良い一対の存在だった。

青豆と天吾もまた非対称な一対の存在としてとらえることができる。Book1から2にかけて、青豆は常に移動する存在としてある。対して天吾は移動量が少なく、彼の大切な仕事は自室で行われる。これは青豆の仕事が出先で行われるのとは異なる。さらに二人は名前の扱われ方まで違う。青豆は主に名字で呼ばれるが、天吾は名前で呼ばれる。いや、そもそも彼らは性別だって別ではなかろうか。そのようなさまざまな相違にも関わらず、彼らが本作においてもっとも重要なペアであることに異論をとなえる人はまずいないだろう。

このようにして、二つの月の色と大きさが異なっているように、性質に差異があるが、それゆえに惹かれ合う一対の存在というのが、作中での“正しい”存在なのである。この倫理は空気さなぎのエピソードにおいても確認できる。ふかえりは空気さなぎを紡いでドウタを産みだすが、出てきたのは自分自身だった。この話は作中では否定的に扱われている。それに対して天吾の産みだした空気さなぎは、青豆をその場に具現した。つまり自分とまったく同じものを作り出してそれと向かい合うのは間違っており、異なる存在を希求して向かい合う姿勢こそが正しいのだ、という価値判断がここでは提示されているのである。

 影響力の方向について

このようなペアの性質を深く掘り下げていこう。

“海”を軸にした直喩には、見逃せない大きな特徴がひとつある。それは、あらゆる登場人物が海の直喩を口にしているという点だ。しかもそれと知らないまま口にしている。天吾の小学校の女教師は「岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かない」という台詞を言うし、タマルも牛河を拷問する際には「海の底を歩く」という言葉を使う。彼らは二つの月を見ていないにも関わらず、月の引力の影響下にあるようだ。

次に環と青豆について分析を試みると、まず目がいくのは青豆の激しい怒りである。その怒りは環に由来している。環が夫から受けた深い悲しみや傷は、彼女の隠れた所に蓄積していった。それは決して分かりやすい形としては顕れなかった。表に現れたのは、自殺という形を取った時だった。青豆はその目に見えない悲しみや傷を正確に知覚し、影響を受けて、怒りという形に変換して行動に移した。つまり、環が青豆に影響を与えているということが分かる。

これら二つのペアに共通しているのは、影響の方向性だ。すなわち月→海のように、環→青豆という一方的な影響力のベクトルが存在している。しかも影響を及ぼす側は隠れており、影響を及ぼされる側は露わになっているという点も同じである。また影響元の力は、別の形に変換されて影響される側に現れている。

このような構造は、電波とテレビ、パシヴァとレシヴァという関係性によっても暗示されているようだ。

ところで、「月が見ている」という表現がたびたび作中に出て来るので、影響力の方向性というものが登場人物たちにもたびたび意識されていることが分かる。次のパートでは、影響を及ぼされていることへの自覚について述べている。なお「見られている」ということを知覚できるかどうかという題材は、牛河の覗きをふかえりが察知するというシーケンスとも関連があるのだが、本記事では扱わない。

 影響力の自覚、そして双方向の力

さらにこの影響力の在り方について仔細に見ていく。すると、作中にはさまざまな影響力の在り方が描かれていることが理解されてくる。

環の時には、青豆はその怒りがどこに由来しているのかという自覚がなかった。彼女は自分の意志であると思いながらも、なかば操られているようでもあった。一方、老婦人に従って仕事をしている時には、影響を受けていることの自覚が彼女の中に徐々に現れてきているように私には思われる。

それは、最初は無自覚なものだった。しかし老婦人が青豆に向かって、あなたが自分の娘であるように思うと繰り返し伝える場面においては、青豆の中に少しずつ老婦人への反感が募ってきているようである。典型的な小説の技巧として、同じことの繰り返しによって読者の心理を逆方向に導くというものがあるのだが、この手法が適用されていると受け取ると、前述の場面は二人の別れを暗示していると捉えることが可能である。(この手法については以前別記事で解説した。) 青豆はのちに老婦人からの要請、すなわち顔を変えることを拒み、精神的に完全な自立を果たす。つまり彼女は影響元を自己の中から排除したことになる。

次にふかえりと天吾について見ていこう。彼らもまた非対称な一対の存在だ。ただし、ふかえりはあくまでも青豆の仲介者にすぎず、一時的な存在である。だからBook3では存在感が薄くなっている。

天吾はふかえりがどのようなメッセージを送っているのか理解できずに悩む。彼は、影響を受けていることは自覚しているのだが、その正体を正確に掴むことができていないのである。ただし天吾はふかえりと交わった夜に、自分の「中心」にあるものを発見する。それは青豆だった。青豆こそが自分に力を及ぼしている発信源であることを彼は突き止めたのである。

このような段階を経ることで、彼はBook2の終盤で青豆に呼びかけることに成功するのである。それは功を奏し、Book3の青豆の生存へと繋がっていく。「遠い声」が彼女を拳銃自殺から救った。

以上の分析から、さまざまな影響力の在り方、影響力との付き合い方があるということが分かってくる。そのもっとも典型的な発展の段階は、次のようになると私は考えている。

  1. 影響元が存在しているが、影響を受けている自覚がない。
  2. 影響を受けていることを自覚する。
  3. 影響元が何なのか分からないが、それを突き止めようと努めている。
  4. 影響元を突き止めた。
  5. 影響元に対して、逆に、自分から働きかけようとしている。
  6. 影響元と出会った。

そして、このような複数の成長段階をお互いに引き合っている二人の男女が同時並行的に上っていき、双方向に呼びかける場合に、その力はもっとも強いものとなり、あらゆる悪運をはねつけて奇跡さえ引き起こすのである。その帰結が二人の再会であり、元の世界への帰還なのだろう。二つになった月が元通り一つに戻る意味が、我々には今ようやく理解できる。月が二つに分かれていることは遠い昔に失った片割れを思い出す予兆であり、それが一つに統合されることは、再会を意味しているのである。