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コスタリカ307

よいブログ。

『海辺のカフカ』におけるメタファーの性質

本稿では『海辺のカフカ』のメタファーの持つ性質と、それが物語の上で果たす役割について説明する。

 主体がメタファーを作り上げる

一読して、難解な小説だと思った。この小説には「メタファー」という言葉があちこちに出てくるので、この記事ではその意味や性質について整理してみようと思う。

海辺のカフカ』流の「メタファー」は次のような性質を持つ。まず、それは主体が規定されていなければならない。「誰が」そのメタファーを見るかが肝要である。次にこのことを説明した箇所を引用しよう。第一文の「青年」とはホシノ青年を指している。

 青年は首を振った。「いいんだよ、これくらいのもの。俺な、うちのじいちゃんにはずいぶん借りがあるんだ。昔、グレてたころ」
「はい。しかしナカタはホシノさんのじいちゃんではありません」
「それは俺っちの問題だから、あんたが気にすることじゃない。うるせえこといわずに、黙ってゴチになってりゃいいんだ」
 ナカタさんは少し考えてから、青年の好意を受けることにした。

村上春樹著『海辺のカフカ』)

ホシノ青年はメタファーを用いることで、ナカタさんを通じて祖父を見ている。さらに上記の文章はメタファーの発生原因についても述べている。「じいちゃんに借りがある」というのがそれだ。つまり主体にメタファーの原因が付着している。

これは『1Q84』で言えば次の箇所に対応している。

そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。

村上春樹著『1Q84』)

この箇所は以前『1Q84』に関する記事でも解説した。上記の一文は自分の側に課題があるために月が二重に見えている、つまりメタファーにおける「喩えるもの」として万物が見えているという状態になっている、ということを説明している。ホシノ青年の場合で言えば、「じいちゃんに借りがある」ので、ナカタさんが祖父に見える。カフカ少年においては、母親に捨てられたことで傷ついたので、佐伯さんが母に思えるということを指す。主体があえて積極的に現実の物や人間を「喩えるもの」とみなしてそこに「喩えられるもの」を結びつける操作をおこなう。そしてその「喩えられるもの」は主体の古い記憶から引っ張り出されてきた、解決されていない切実な何かだ。それが『海辺のカフカ』における「メタファー」だと言える。

この小説が難解である理由の一つは、このようなメタファーが錯綜するからである。それも読者まで巻き込んでメタファーの線が張られるため、頭の整理をつけるのが難しい。

 メタファーにおける記憶

海辺のカフカ』の「メタファー」における記憶とは、思い切って簡単に言ってしまうと願いに等しい。解決されないまま置かれてきた課題にふたたび取り組もうという思いだ。逆から言えば、メタファーを作り上げることは願いの婉曲的な発露である。この事が理解できると、「記憶」が失われてしまうことは、意欲や人生に対する前向きな姿勢が損なわれてしまうことを意味するということが分かってくる。すると、ナカタさんが記憶を失ってしまったことと、「空っぽ」になってしまったこと、それも他人の要請をおとなしく聞くだけの人生を送ってきたという事実との関連性が自然と了解されるだろう。

フランツ・カフカの『変身』においても、やはり作中で記憶の重要性が強調されている。主人公・グレゴールは妹の手によって家具をどんどん部屋から取り去られてしまうのだが、そこで家具にまつわる記憶というものが虫と化したグレゴールの人間性を保つのに有効なのではないか、と母親が主張する場面があるのだ。『海辺のカフカ』で言う所の空っぽの状態、森の深部の住民達のような状態になることが、『変身』で言う所の虫になった状態に相当すると捉えると、本作の読解も深まるのではないだろうか。

ちなみに記憶を比喩の源泉として使用するのはプルーストの十八番であり、『失われた時を求めて』の中でも明言されていることなので、やはり村上春樹は『1Q84』以前からプルーストのことを意識していたのだな、と分かる。ただしプルーストとはまったく異なる思想によって本作の「メタファー」は作られている。

 記憶による人と人との結び付き

メタファーの記憶は他者の記憶と結びつきうる。そのことが終盤において語られているので見ていこう。

二人連れの兵隊に導かれて進んだ森の深部で、カフカ少年は佐伯さんと出会う。そこで佐伯さんは次のように言う。

「私は遠い昔、捨ててはならないものを捨てたの」と佐伯さんは言う。「私がなによりも愛していたものを。私はそれがいつかうしなわれてしまうことを恐れたの。だから自分の手でそれを捨てないわけにはいかなかった。奪いとられたり、なにかの拍子に消えてしまったりするくらいなら、捨ててしまったほうがいいと思った。もちろんそこには薄れることのない怒りの感情もあった。でもそれはまちがったことだった。それは決して捨てられてはならないものだった」

この箇所では、三つの異なる線が並行して走っている。主体がカフカ少年としてのメタファー、主体が佐伯さんとしてのメタファー、そして主体が我々読者としてのメタファーである。

この「捨てたもの」が何かと言うと、佐伯さんにとっては人を愛する心である。それを象徴するものが、若い頃に愛した青年だ。だからここでは、佐伯さんの視点から見るとカフカ少年はカフカ少年ではなく、佐伯さんがかつて愛した青年と記憶の中で結びついている。カフカ少年の姿は、佐伯さんにとっては昔の恋人の「メタファー」なのである。一方カフカ少年の視点から見ると、相対している佐伯さんの姿は、かつて自分を捨てた母親の「メタファー」である。ここら辺の二重性やメタファーの切り替えといったものを、作家は上手く文章中の主語を切り替えることによって表現している。すなわち「僕」を「君」にしている。

ここまでで最初の二本の線の説明が出来たと思うので、三本目の線について説明していく。

そのためには、いったんページを逆に繰らなければならない。我々読者はこのシーンに至るまで長い物語を読んできた訳だが、それを通して様々な記憶を蓄積してきた。その中には消されてしまった個人の切なる願いというものも含まれている。その箇所を読み直してみよう。

太平戦争末期のころ、女教師が小学生たちを引率して日本の山中へキノコ取りに行く。連れてきた生徒の中にはあのナカタさんも含まれている。彼女は前夜に夫との激しい性交を夢に見ていた。戦死する運命にある夫が魂だけとなって彼女に逢いに来たという、『菊花の約』のようなシーケンスである。

そして山中において、予期せぬタイミングでその女教師の生理が始まった。彼女は慌てて手拭いで経血を止めて、それを森のどこかに捨てる。しかし、どういう訳かそれをナカタさんは拾ってしまい、女教師のもとに届けることになる。それを見た先生は激昂してしまい、思い切りナカタさんを叩く。その結果ナカタさんは記憶を失い、字を読むことができなくなってしまう。この場面は小説の序盤のハイライトで、とても印象深いところだ。

実は佐伯さんとカフカ少年の対話は、この女教師とナカタさんの挿話に対応している。「捨てたもの」というのは、抽象的なレベルでは、個人の心の底からの願いを指す。具体的には、教師の場合で言うと血の付いた手拭いに当たる。それは失われた夫との愛を象徴しているからだ。奇妙なことに、それは捨てても結局のところ本人のもとに何らかの形で返って来てしまう。運命とは、避けようとしてもいつの日かやって来てしまうものなのだ。教師のケースでは、ナカタさんが文字通り拾って届けてくる。佐伯さんのケースでは、カフカ少年という形で戻ってくる。よくよく反省してみると、引用した佐伯さんの台詞は非常に抽象的で曖昧だが、それもメタファーを反映させる鏡としての役割を担っているからだと考えると納得できよう。

なお「願いは結局は本人のもとに返って来てしまう」というのは、『1Q84』においてはリーダーの台詞によって非常に簡潔に表現されている。「心から一歩も出ないものごとは、この世界にはない」というのがそれだ。やはり何事も洗練されると単純になるらしい。

さて、女教師とナカタさんの挿話が「正しくない」在り方であると捉え、佐伯さんとカフカ少年の間のやり取りが「正しい」在り方であると考えると、物語全体の構造が、すでに説明した「解決されないままで来た課題がメタファーを通じて現在に表れる」というメタファーの構造に一致していることが分かる。我々読者を介することで、物語の序盤で提示されたナカタさんの課題は、ある特殊なレイヤーにおいて解決を見たのである。

では、この二つの挿話はどのような点によって明暗が別れたのだろうか。

それは自己犠牲にある。二人ともメタファーを用いることによって、本来他人であるはずのお互いの問題解決に手を貸し合っている。カフカ少年は佐伯さんが行使するメタファーを受け入れている。そのことは次に文章によって理解できる。そうすることで彼は佐伯さんの問題解決に参与しているのである。そしてそれは、他者の記憶を受け入れるということに等しい。

「僕のもの?」
 彼女はうなずく。「だってあなたはそこにいたのよ。そして私はそのとなりにいて、あなたを見ていた。ずっと昔、海辺で。風が吹いていて、真っ白な雲が浮かんでいて、季節はいつも夏だった」
 僕は目を閉じる。僕は夏の海辺にいる。デッキチェアに横になっている。僕はそのざらりとしてキャンバス地を肌に感じることができる。僕は潮の香りを胸に吸い込むことができる。たとえ瞼を閉じていても光は眩しい。波の音が聞こえる。その音は時間に揺すぶられるように遠くなったり、近くなったりする。誰かが少し離れたところで僕の絵を描いている。そのとなりには淡いブルーの半袖のワンピースを着た少女が座って、こちらを見ている。彼女は白いリボンのついた麦わら帽子をかぶり、指で砂をすくっている。まっすぐな髪と、しっかりとした長い指。ピアニストの指だ。太陽の光を浴びて、その陶器のように艶やかな二本の腕が輝く。まっすぐな唇の両端には自然な微笑みが浮かんでいる。僕は彼女を愛している。彼女は僕を愛している。
 それが記憶だ。

しかし年長者である佐伯さんは自分の命を捨てることで、カフカ少年よりも強くコミットしなければならない。それを責任と言う。カフカ少年に自分の血を飲ませるという行為がそのことを象徴している。では犠牲になる側は何もかもすっかり相手に捧げて、それで何の不満もないままに消滅して、よしとしなければならないのだろうか。やはり、そうはならない。そこで後一歩だけ譲歩が必要になる。それが「記憶する」ということだ。佐伯さんはカフカ少年に、自分のことを忘れないで欲しいと伝える。カフカ少年は絵を受け継ぐことによってそれに応える。そのようなギリギリのレベルの取引によってこそ、受けた傷はついに癒やされるのである。傷は次代に引き継がれずに済み、少しだけ歴史は良い方向に進む。個人のレベルでの過去の受け渡しということを村上春樹はこの小説で描いているわけだが、それは当然歴史ともリンクしているはずだ。個々の日本人を捉えずに全体としてひとまとめに扱ってしまうことに、彼は抵抗を覚えるのだろう。

おや、と思ったのは、佐伯さんの「あなたに私のことを覚えていてほしいの」という依頼に対して、カフカ少年は直接的には何も答えていないということだ。文脈から言えばカフカ少年が絵を受け継ぐことがそのことへの肯定的な回答であることが分かるが、それを考慮した上でもう一度上記の引用箇所を読んでみると、画家のすぐとなりには佐伯さんが座っているという記述に気がつく。つまり絵の内容はその時の佐伯さんの視界――すなわち佐伯さんの記憶――に等しい。絵を受け継ぐことは、佐伯さんの記憶を受け継ぐことであるということが、このようなディティールにも表れているように思う。というのも、プルーストはうるさいくらいに視界と記憶を結びつけて考えたからだ。しかも『失われた時を求めて』には何度も絵の話題が出てくるので、あながち考え過ぎではないと思う。

以上の議論を踏まえたうえで女教師の挿話を振り返ってみると、そこには年長者の積極的な犠牲的行為というものが見当たらない。女教師の手紙を読むと、どうやら彼女はナカタさんがどういう状態になってしまったのか知らないようだ。本来保護するべき立場の人間が損なわれず、保護されるべき小学生のナカタさんが損なわれてしまった訳だから、あるべき姿、つまり佐伯さんとカフカ少年の場合とは逆のことが起こっていると分かる。