『風の歌を聴け』を読む

村上春樹の『風の歌を聴け』について書く。

本書は次のような文学論から始まっている。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

しかしこの後すぐにデレク・ハートフィールドという作家について、その素晴らしさと自殺が書かれていることを考慮に入れると、この一節はどうも次のように読み替えるのが正しいようである。すなわち「完璧な絶望――つまり自殺――が存在するように、完璧な文章というものは存在する。」 どうやら村上春樹にとって傑出した文学というものは自殺と近接しているようである。すぐれた文学は肯定したい。しかし自殺という悲劇は肯定しがたい。 このような引き裂かれた心の在り方、二律背反が作中のもっとも大きなテーマである。

この問題から自殺という点のみを抽出してくると、主人公が三番目に付き合った女の子の自殺の問題に繋がる。作者は女の子の自殺というショッキングなはずな出来事について何も感情的な記述を割いておらず、それが読者に激しい混乱をもたらし、作中の大きな課題となって浮かび上がっている。この難しい問いは、レコード屋の女性との交際を通してくりかえし婉曲的に語られることになる。

「一人でじっとしてるとね、いろんな人が私に話しかけてくるのが聞こえるの。……知っている人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ。」
 僕は肯いた。
「大抵は嫌なことばかりよ。お前なんか死んでしまえとか、後は汚らわしいこと……。」

そこでは死の匂いが濃厚なのだ。しかしそのようなネガティブ性を作者は強引な展開でくつがえす。ラジオN・E・BのDJの呼びかけと、時の経過、そして幸せな結婚生活がそれである。我々はそこで重たい荷を下ろしたような安心感と大きな感動を味わう。我々はそこで死から回復し、生へと立ち返るのである。村上春樹は優れた文学と人の生命を秤にかけて、後者の方を取ったのである。この点が分かっていると、鼠が「セックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない」小説を書く理由もわかってくる。それはつまるところ、退屈な小説である。文学的に劣った位置を選択することで、作者は死を回避しているのである。しかしそのようにして出発した村上文学が、今や世界中の人から愛されているというのは不思議なことである。