村上春樹の文章の特長

村上春樹の文章の特長について思う所を述べる。この記事は村上春樹を読んだことがない人でも読めるように書かれている。

テーマに沿ったリズム

村上は作品のテーマと合致した文章のリズムを作ることが上手い作家である。例えば『 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品は、単調で、かつ文末が「た」で終わるセンテンスで文章の多くが占められている。この小説は、過去に友人との間でひどいトラブルがあって傷ついた主人公が、過去を振り返り、傷をいやすために古い友人たちを訪ねていくというストーリーになっている。彼はその事件のためにかつては死に近接するほど傷ついた。

 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった。
 死について考えないときは、まったく何についても考えなかった。何についても考えないことは、さしてむずかしいことではなかった。新聞も読まず、音楽も聴かず、性欲さえ感じなかった。世間で起こっていることは、彼にとって何の意味も持たなかった。部屋に閉じこもっているのに疲れると、外に出てあてもなく近所を散歩した。あるいは駅に行ってベンチに座り、電車の発着をいつまでも眺めた。

一読すれば分かるように、上記の文章はすべて文末が「た」で締められている。文の長さもどれも大きな差異がなく、それが緩急を生まない要因になっているようだ。内容と総合してこの文章のニュアンスを捉えると、もはや主人公は自分の現実をリアリティのあるものとして受け取れなくなっており、ただ現在から過去へという時間の流れに押し流されていくだけの脆弱な存在になってしまっている、ということだと思われる。このような意味内容を、単調さというリズムが底から支えているというのが、『多崎つくる』という小説の基本的な構造である。

こうした作品とは逆にアッパーなリズムの例として挙げられるのが、レイモンド・カーヴァーの翻訳である『羽根』だ。『羽根』のストーリーは、主人公夫妻が友人夫妻に食事に招かれて訪ねていくのだが、そこで様々な珍奇な光景を目撃して、内心軽蔑するというものである。彼らに対する主人公たちの態度は皮肉なものであり、馬鹿げたシーンの連続に目を回す。引用を次に示すので、そのアップテンポなリズムを楽しんでほしい。

 仕事仲間のバドが、フランと私を夕食に招待してくれた。私は彼の奥さんとは面識はないのだが、バドだってフランに会ったことはないから、おあいこというところだ。でも私とバドは仲が良いし、彼の家に小さな赤ん坊がいることは知っていた。我々が夕食に呼ばれたとき、赤ん坊はたしか生後八ヵ月ぐらいだったと思う。八ヵ月なんてあっという間に過ぎてしまう。私はバドが葉巻の箱を持って仕事場に出てきた日のことを覚えている。彼はランチルームでそれをみんなに配った。ドラッグストアで売っているような安物の葉巻だった。ダッチ・マスターズ。でも一本一本に赤いラベルが貼ってあって、包み紙には<男児誕生!>と印刷してある。私は葉巻は吸わないが、つきあいで一本をもらった。「二本とりなよ」とバドが言った。そして箱を振った。「俺だって葉巻は好かないけどさ、これは彼女のアイデアなんだ」彼女というのは奴の女房のことだ。名前はオーラ。

文末に注視してみると、文によってバラバラな傾向があると分かる。体言止めも二回出てくる。文の長さもまちまちなので、その落差によって緩急が生まれていることが分かる。内容だが、どのような珍奇な光景が見られるかは、実際に本文を手にとって確かめてみて欲しい。『大聖堂』という名の短編集に収められている。

距離感

村上春樹は表現したい心理の微妙なニュアンスを文章に反映させることが得意な作家である。ここではその例を二つ挙げる。

◆かえるくん、東京を救う

『かえるくん、東京を救う』という短編がある。その主人公・片桐は仕事一筋に生きてきた人物で、両親はすでに死んでしまったが、彼らの代わりに弟と妹の面倒をみて大学を出し、結婚までさせた。彼は東京安全信用金庫という銀行の、返済金の取り立て係についている。言い換えれば金を貸した人の尻拭いをするのが彼の役割である。要するに片桐はプライベートにおいても仕事においても、他者の尻拭いをする持ち回りになった人である。彼は肝が据わっており、やくざに取り囲まれても平然としているが、それは「生きていた所で意味がない」という諦念によって成り立っているものだ。

そんな片桐が、かえるくんという人間大もある異形の蛙から、あることを依頼される。みみずくんという怪物が地震を起こして東京を壊滅させようとしている。それを阻止すべく一緒に戦ってほしい、というのがそれだ。片桐はうだつの上がらない男だが、かえるくんだけは彼の真価を見抜き、評価している。「正直に申し上げまして、あなたはあまり風采があがりません。弁も立たない。だからまわりから軽く見られてしまうところもあります。でもぼくにはよくわかります。あなたは筋道のとおった、勇気のある方です。東京広しといえども、ともに闘う相手として、あなたくらい信用できる人はいません」

片桐は闘うことを了承し、二人はみみずくんのところへ赴く。ここで注目したいのは、みみずくんのいる場所である。かえるくんはそれをこう説明する。

「とてもとても大きな地震です。地震は2月18日の朝の8時半頃に東京を襲うことになっています。つまり3日後ですね。それは先月の神戸の大地震よりも更に大きなものになるでしょう。その地震による死者はおおよそ15万人と想定されます。多くはラッシュアワー時の交通機関の脱線転覆衝突事故によるものです。高速道路の崩壊、地下鉄の崩落、高架電車の転落、タンクローリーの爆発。ビルが瓦礫の山になり、人々を押しつぶします。いたるところに火の手があがります。道路機能は壊滅状態になり、救急車も消防車も無用の長物と化します。人々はただ空しく死んでいくだけです。死者15万人ですよ。まさに地獄です。都市という集約的状況がどれほど脆い存在であるか、人々はあらためて認識することでしょう」、かえるくんはそう言って軽く首を振った。「震源地は新宿区役所のすぐ近く、いわゆる直下型の地震ですね」
「新宿区役所の近く?」
「正確に申し上げますと、東京安全信用金庫新宿支店の真下ということになります」

これは片桐の勤めている場所である。一体このような設定は何を意味しているのだろうか。

実はみみずくんや地震は、片桐の心の底に溜まっていった不満や怒りといったものを指している。ではなぜ作家はそれを迂遠とも言えるような手の込んだやり方で書いたのだろうか。

ポイントは、片桐本人が自身の不満や怒りを知覚できないでいる、という点にある。彼は自身のフラストレーションを過度に抑圧したまま生きてきた。そうすることで難しい仕事をやり抜いてきたのである。しかしその結果、彼はみずからの疲労や不平といったものを感じ取ることができなくなってしまった。それほどまでに自我というものを抑え込んできたのである。そのような自分の本当の気持ちの「分からなさ」がかえるくんやみみずくんといった正体不明の存在として表れていると考えると、理解が進むのではないだろうか。

片桐は自身のそのような性格や本当の気持ちといったものと向かい合わねばならない時期にさしかかっている。しかしそれは彼にとっては正体不明のものだった。村上春樹が描きたかったのは、そのような片桐の感じている不気味さや分からなさといったものも含めた総合的な状況であった。作家はあえて近すぎる距離を選んだのである。対象を突き放した、客観的な物の見方というものを避けた。そこには彼の優れた距離感覚といったものが表れているように思われる。

◆海辺のカフカ

長編『海辺のカフカ』には「ナカタさん」という老人が出てくる。彼は子供の頃虐待を受け、ショックによって記憶をなくし、知性も失ってしまった。以降は単調な作業しかできず、仕事も単純なものにしか就けず、また本も芸術も理解できないまま人生を送らざるを得なかった。彼はそういう悲しい老人であり、人生には取り返しのつかない長い空白の歳月がある。ナカタさんはそのことを作中で悲しむのだが、怒りは見せない。なぜなら怒りのぶつける先もシチュエーションも存在せず、また温厚な性格であるがゆえに怒れないからである。そのような彼の静かな怒りを描いたのが次の雷雨の場面である。

 巨大な暗黒の雷雲は緩慢な速度で市内を横断し、まるで失われた道義を隅々まで糺(ただ)すかのように、落とせるだけの稲妻を矢継ぎ早に落としたが、やがては東の空から届くかすかな怒りの残響へと減衰していった。それと同時に激しい雨も唐突にあがった。あとには奇妙な静けさが訪れた。星野青年は床から立ち上がって窓を開け、外の空気を入れた。暗雲はもうどこにもなく、空はもとの薄膜のような淡い色合いの雲に覆われていた。目に映るすべての建物が雨に濡れ、ところどころの壁に走ったひびは年老いた人の静脈のように黒ずんでいた。電線は水滴をしたたらせ、地面のいたるところに新しい水たまりが生まれていた。どこかで雷雨をよけていた鳥たちが外に出てきて、雨上がりの虫たちを求めて鳴き始めていた。

このような描写の背景には、この世界には発揮されないまま死んでいかざるを得ない怒りがある、という洞察がある。他者から深い傷を受けたにも関わらず、仕返しが許されないのはもちろんのこと、傷を癒されることもないまま放っておかれる。そのような「悲しい怒り」と言うべきものが世界には至るところに存在しており、我々はそれを供養していかなければならない、せめてその存在だけでも認めていかなければならないという姿勢が、この作家にはある。

そしてそのような怒りには「発揮されない」という性質がある以上、必然的に描写は婉曲的なものにならざるを得ないのである。この表現の婉曲さには、作家の優れた距離感が表れていると言えるだろう。

文脈に沿ったメタファー

村上春樹は形成された文脈に応じて優れたメタファーを作るのが得意な作家だ。例えば前述した『海辺のカフカ』の雷雨もそれに当たる。ナカタさんの性格描写や来歴といったものが語られて、文脈が作られた後、作品の終盤になって雷雨のメタファーは登場する。

もう一つ面白いメタファーの例を挙げておこう。『女のいない男たち』に収録されている短編に『木野』という作品がある。主人公・木野は仕事のために出張していたのだが、予定より一日早く帰宅したところ、妻が浮気している現場を目撃してしまう。「木野はそういう気配にあまり聡い方ではない。夫婦仲はうまくいっていると思っていたし、妻の言動に疑念を抱いたこともなかった。」 彼にとって妻の浮気は晴天の霹靂であった。

浮気の事実は小説の序盤に描かれるが、様々な経過があった後、作品の後半に次のような会話が登場してくる。

「でもね、蛇というのはそもそも賢い動物なのよ」と伯母は言った。「古代神話の中では、蛇はよく人を導く役を果たしている。それは世界中どこの神話でも不思議に共通していることなの。ただそれが良い方向なのか、悪い方向なのか、実際に導かれてみるまではわからない。というか多くの場合、それは善きものであると同時に、悪しきものでもあるわけ」
「両義的」と木野は言った。
「そう、蛇というのはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもいちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別のところに隠しておくの。だからもしその蛇を殺そうと思ったら、留守のときに隠れ家に行って、脈打つ心臓を見つけ出し、それを二つに切り裂かなくちゃならないの。もちろん簡単なことじゃないけど」
 木野は伯母の博識に感心した。

この蛇はもちろん浮気をした妻を指している比喩である。両義的というのは夫に見せていた顔と浮気相手に見せていた顔の両面があることを、心臓の挿話は不意をつく形で帰宅したところ妻の浮気現場を抑えてしまったことを喩えている。

村上春樹のメタファーが効果を発揮するのは、作中において時間の経過があった後に持ち出されてくるからである。読者の記憶がぼんやりとしてきたところに意味内容や構造が若干ずれた、でも微妙に重なるエピソードを登場させると、その文章には特別な雰囲気が醸し出されるようになる。彼はその時間的間隔の取り方や、ズレ具合・重なり具合を調節するのがとても上手い。長い時間をかけて文脈を作り上げた後それを受けたメタファーを作るのが、この作家の得意技の一つなのである。こればかりは引用では理解できないたぐいの面白さなので、是非作品に触れてほしい。特に『女のいない男たち』は作品間のつながりもあるので、冒頭の短編から順に読んでいくのがお勧めである。